閑36話 一文字ヒヨは呟く
高層ビルが立ち並ぶオフィス街を事務服姿の女性が歩く。それ事態は珍しくもない光景だが、小柄で童顔な彼女は今時珍しい唐草模様の風呂敷包みを抱えていた。
さらに物珍しげに周囲を見回し、行き交う人や車を見ては感心の声をあげる。辺りに漂う排ガスや溝臭さに顔をしかめ、料理屋の換気口から流れる天麩羅の香りに深呼吸したりする。完全にお上りさん状態だ。
「いけない、早くお届け物しなきゃ。そして、余った時間でケーキを食べるの。ああっでも、和菓子も捨てがたいよね。どっちにしよう……はっ! 両方という手もありよね」
一文字ヒヨは呟くにしては大きすぎる声をあげるのだが、上司である雲林院に命じられ、アマテラスが保有する古文書を運んでいる最中であった。
ぐっと手を握ると不敵な笑いを浮かべる。
「外出ついでにサボるなんて、凄いことを思いついてしまったよね。私って凄い」
職場の部下に、そうするよう仕向けられたとも気付かず上機嫌だ。
そのまま小股に進み、目的の場所へと到着する。
「はあっ、立派な建物」
重厚感ある立派な建物を見やり、今日何度目かになる感心の声をあげた。その姿ときたら、入り口で立哨する警務官が微笑ましそうな顔をするぐらいだ。
おっかなびっくり中に入り、受付へと一枚の書類を提出する。これを渡せば目的の部局まで案内される手筈だが、初めてのことで緊張している。
「あの、これ。お願いします」
「確認しました。係の者が参りますので、そちらにお掛けなってお待ち下さい」
待つこと数分。ヒヨは現れた職員に連れられ歩きだした。
エレベーターで階を移動し薄暗い廊下に出る。足音が響く静けさの中を進み、物品庫保管庫仮眠室、更衣室にコピー室とプレートの貼られた扉の前を通り過ぎていく。
「どうぞ、こちらになります」
案内の職員が脇に退き、示すのは『NATS本部』と書かれた扉であった。
NATS本部。そこはお洒落で綺麗な広々としたオフィス――ではない。
「うそん……」
室内を眺め回すヒヨは失望の声をあげた。
壁にはガムテープ跡があるし蛍光管は剥き出し。整理整頓と書かれた張り紙の横では、書類束が棚から崩れ段ボール箱が乱雑に積まれている。スチールデスクにはファイルが乱雑に積まれ、箸の突っ込まれたカップ麺の容器が放置されている。
どこかで見たような光景だと思えば、それは自分の職場だ。
――ここも予算不足なのかしら。
ぼうっと考えていると、キリッとした顔立ちの女性がやって来た。
「あら、どうされましたか?」
穏やかな微笑みを浮かべ、軽く会釈する相手の姿は洗練された大人の雰囲気を漂わせ、まるでドラマに登場する素敵なヒロインみたいだ。
純朴な田舎娘の雰囲気を漂わせるヒヨは引け目を感じてしまう。
「いえ、なんだかここも灰色だなーっと」
「灰色?」
「ああっいえ、なんでもないです。それより、あのこれアマテラスの文書保管部門からのお届け物になります」
ヒヨは持ってきた唐草模様の風呂敷包みをカウンターに置くと結び目を解いた。中身は糸綴じ装丁の和装本。希少本ではないがかなりの年代物である。
相手の女性は頷き、紙ファイルを持ってくると本のタイトルと照合しだす。
「確かに、依頼していたもの全部ですね。本来ならこちらから伺うところを、わざわざ運んで頂き申し訳ありません」
「いえいえ、大したことありませんから。ところで正中課長さんは、いらっしゃらないですか?」
「正中ですか? 申し訳ありません、あいにく本日は外出しております。御用でしたらすぐに連絡を取りますが」
「あー、いえ……ちょっと聞きたいことがあっただけなので」
「よろしければ、私が伺いますよ」
にっこり微笑まれ、ヒヨは困った。実は美味しいスイーツ店の場所を聞こうと思っていた程度なのだ、そんな事はとてもではないが言えやしない。
「えーと、大したことじゃないので」
「構いませんよ。私に分かることでしたらなんなりと、お答えしますので。アマテラスの方にはお世話になってますから」
女性の善意にヒヨは困ってしまった。必死に考えを巡らせ、そうだと思いつき軽く手を叩いてみせる。前から聞こうと思っていたことがあったのだ。
「それでしたら、知りたいのは五条亘という――あれ?」
何故か室内がシンッと静まりかえっていた。
そして乱積みされたファイルの山が雪崩を起こした。驚き見やった先で男性職員が頭を抱え叫びだす。
「嫌だあぁっ! もう嫌だああ! 悪魔だ、悪魔はあいつなんだぁよおおっ! 帰して帰して、異界から帰してくれよぉっ!」
他の職員も机に突っ伏し泣きじゃくる。
「……あはっ……あはっ……」
「信じられますか8時間ですよ労働基準法とか馬鹿を言って8時間ですよ僕らはみんな8時間頑張ったのですよ無茶と言うから無茶なんです」
「タスケテ、タスケテ、タスケテタスケテタスケテ」
あまりにも異様な様子にヒヨは目を白黒させた。
「なんぞこれ?」
「すいません。その名はちょっとここでは刺激が強くて。ちょうど仕事の追い込みもあって精神が不安定になってますから……別室に行きましょう」
◆◆◆
会議室でヒヨと女性は改めて挨拶を交わし、名刺を交換した。
「長谷部志緒さんですか。よろしくお願いします」
「まあ、あの高名な一文字さんでしたのね。これは失礼しました」
「いえ、そんな大した者ではありませんから。それより先程の、ええっと……名前を呼んではいけないあの人、何をしたのです?」
婉曲に表現したせいで闇の帝王ぽい呼称になってしまった。いや実際、先程の反応からするとそんな感じなのだが。
「その前に、どうしてアマテラスが彼のことを知りたいのかしら」
「アマテラスというより、私の個人的興味なんです」
「個人的興味?」
「だって、あの人に対する問い合わせや後始末で苦労させられているんです。どんな人なのか知りたくって」
NATSの正中課長である従兄から、怒らせるな敵に回すな程度しか教えて貰ってない。さらに聞くと遠い目で視線を逸らされてしまうのだ。
だからやらかした事件の断片から推測するしかないが、よく分からなかった。
「そうなの……ところで、訓練と称して悪魔の群れに放り込む人をどう思うかしら」
「なんですそれ。そうですね、普通にオカシイと思います」
「そうね。で、それをやったのが彼よ。さっきの反応も、それが原因なの。無理矢理悪魔の群れと戦わされて、私たちがどれだけ恐ろしい思いをしたことか。あれこそ鬼よ悪魔よ」
突然、志緒が情けない顔で愚痴りだした。さっきまでのドラマのヒロインぽい様子は台無しになるが、けれどヒヨは感を抱いた。この人となら友達になれそう、とさえ思っている。
「酷い人なんです?」
「ごめんなさい、今のは半分愚痴よ。酷くはないわ、良い人よ。本当に困ってると身体を張って助けてくれて、私にとっては命の恩人ね。ただ、ちょっと人付き合いが不器用なのよね」
「はあ……」
「だからきっと、あんな訓練をするのね。いくら自分の従魔の魔法でケガが治せるからって、足とかお腹を囓られて最悪だったのよ」
その言葉を聞き咎め、ヒヨの顔色が変わる。
「……ちょっと待ってください。使役悪魔は、そんな事が出来るのですか!?」
「ええ、そうよ。それが何か」
不思議そうに尋ね返されるが、ヒヨは答えることも出来ず背筋をゾッとさせた。
アマテラスにも治癒術師は存在する。けれど、大半は軽傷しか治せない程度だ。命に関わる傷を治すことができるのは、ほんのひと握り。しかも一度に何人もなんて到底無理だった。
それが出来るなんて、アマテラス側が想定していた以上の力だ。
「もう一体従魔がいるという情報ですけど。そちらも凄いですか?」
「金髪の可愛い子のことね。確かに強いけれど、あまり分らないわね」
「まだ大したことなさそうで、よかった……」
「でも、うちの弟から聞いた話ですけど。尻尾が五本もある大きな狐に変身できてるそうよ。凄い悪魔を簡単に倒したって言ってたけれど、本当かしら」
「それぇ! 五尾化してるじゃないですかぁ! もうやだぁ!」
半泣きになったヒヨは机に突っ伏した。驚きながら慌てた志緒が宥める。
「大丈夫よ。怒られて頭をゴンッて拳骨される程度なんだから」
「…………」
志緒は暢気に笑っている。しかし、それはヒヨにとって衝撃的な話だった。
悪魔は力関係に敏感である。拳骨して大丈夫なんて、普通にありえない。何それ状態だ。それが出来るのは五尾の狐が完全に服従しているからに他ならない。
「ううっ、お腹痛い。どうしよう、五尾の狐のこと報告しないと……考えただけで、お腹が痛いよう。もうダメー」
ヒヨは机に突っ伏したまま足をばたばたさせた。それが自分の弟の姿と重なってしまい、志緒は優しく慰める。
「ごめんなさい。一文字さんに、余計なこと言ってしまったみたいね」
「ヒヨと呼んで下さい。私も志緒さんと、お呼びしますから。それで、志緒さんは悪くありませんよ。悪いのは全部、そう全部あの男なんです」
志緒は目敏く頷いた。
「確かにそうね、全部あの男が悪いわよね。私もそう思うわ」
わいわいと盛り上がりだす。話の種は五条亘が原因となった苦労話だ。その様子は、世話になった厳しい教師の悪口で盛り上がる感じに似てなくもない。
愛憎入り乱れるとまでは大袈裟だが、そんな雰囲気がある――かもしれなかった。
そして奇妙な縁により、志緒とヒヨは意気投合した。
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