閑35話 そうなると下着泥棒
素晴らしく晴れ渡った休日の朝。
亘は眩しい日射しに目を細めつつ、鼻歌混じりで洗濯物を干していた。無香料の洗剤を使用しているが、洗い上がったばかりの洗濯物は何とも言えぬ清々しい匂いがする。
台所の勝手口から出た場所の小さなベランダ。
その狭いスペースでカゴから取り出したシャツを振りさばき、手慣れた動きでハンガーに干していく。靴下やパンツは干し道具に挟んで吊るす。その中に女児用の下着も混じっているが、気にする様子もなく無造作に干している。
独り暮らしの場合、平日に洗濯することは困難。仕事後では夜にしかできず乾燥に困るし、何よりご近所との騒音トラブルにもなりかねない。
故に休みの日に一週間分をまとめて洗うしかなかった。
「あー! もうサキってばさ、洗濯終わったのに」
アパートの中から響いた怒りの声に、亘は手を止めひょいと覗き込んだ。
「どうした、何か問題か」
「あのさ、マスター聞いてよね。サキってばさ、マスターのシャツを寝床に持ち込んでたよ。せっかくの、お天気なのに洗えなくってボク残念だよ」
口をへの字にした神楽がシャツをぶら下げ飛んできた。しかし、外から見える場所には来ないように気を付けている。
「さよか。そんなの、来週洗えばいいだろ。前なんて一週間どころか二週間も、洗濯物を溜め込んでた時もあるからな。シャツや靴下を二回や三回も使いまわして量を減らして上手いこと調整して……」
「そんなのボク許さないよ」
神楽はシャツを振り回し声を張りあげる。なにかと世話焼きで、生活指導までするのだから当然の反応だろう。
休みの日でも規則正しい生活をすべきと、ゆっくり寝させてくれず二度寝なんて以ての外。さらには掃除洗濯に部屋の片付けまでも厳しく注意してくる。
おかげで身ぎれいな生活を過ごす亘ではあったが……以前の自堕落な休日が少しばかり恋しく思えてしまうのは我が儘だろうか。
やれやれと息をついて洗濯干しを再開した。
ひと仕事終えた後はコーヒータイムで、行きつけの無愛想な喫茶店で分けて貰った豆を使いハンドドリップする。
ミトンをした手でコーヒーポットを支え、細い口から円を描くように湯を注げば、新鮮な豆はマフィンかキノコのように膨らんでいく。豆の量は一人分にしては贅沢な量だが、マグカップでガブ飲みするためだ。
「……うん、美味い。少し濃いめだが、良い感じだ」
零さぬように慎重に移動し、ゆっくりと腰を落としマグカップをテーブルの上に置く。それから自分も床に座り込むと、コーヒーの蒸気でアロマを楽しむ。
「あのさボクさ思うんだけどさ。そんな苦いの、よく飲めるよね」
神楽が呆れた様子の声をあげる。マグカップの横に立って中を覗き込み、その香りだけで苦そうな顔をするほどだ。
「今回は濃いめだが、甘みも程良く出てるから苦くはないと思うがな。どうだ、騙されたと思って飲んでみないか?」
「ボク騙されないもんね。砂糖入れてなかったじゃないのさ」
「砂糖の類とは違う甘みなんだ。しっかりした味わいと軽い酸味に隠れた甘みだからな。うん、まあ大人の味だからな。神楽には分かるはずもないか」
「むむっ、そんなことないもん。ボクだって分かるもん」
言うなり神楽は熱い蒸気にも負けず、マグカップの中に顔を突っ込む。もちろん結果は、膝をつき四つん這いになって舌を突き出す羽目になってしまう。
「うえーっ、酷いや。やっぱり騙したんだ。ニガニガじゃないのさ!」
「やれやれ、やっぱりお子様な舌だな」
亘は殊更味わうように、ゆっくりとコーヒーを口に含んでみせる。そんな様子を神楽は信じられない面もちで仰ぎ見ていた。まるで泥水を喜んで飲む人を見るような目つきだ。
「きっとマスターがおかしいんだよ。そだよ、サキにも飲んで貰おうよ。きっとボクと同じ意見になるはずだからさ」
「やだ」
ぐてっと床で寝ていたサキが身を起こす。テーブルに顎を載せ怠惰な様子だ。その動きに合わせ、金糸のような長い髪がサラサラと流れるように動く。
薄らと開けた目で緋色の瞳が動き、湯気を立てるマグカップと苦さに顔をしかめる神楽の顔を交互に見やる。
「やだ」
大事なことなのでもう一度言ったらしい。
むくれた神楽を宥めるために、甘いジュースを出す。そして、どら焼きなんぞを追加してやって、機嫌を取っておく。そんなまったりと休日のお昼前であった。
◆◆◆
ガシャンッと大きな音が響き、ぼんやりしていた亘はビクッと驚いた。
「なんだ、どうしたんだ」
様子を見るため立ち上がる。だが、ついて来るのは神楽のみでサキは怠惰にだらけたままだ。呑気にうたた寝する姿に、これを悪魔と誰が思うだろうか。
勝手口を開け確認すると、洗濯干しがベランダの足元に落ちていた。掃き掃除はしてあっても外は外。洗濯物が汚れてしまい、神楽は不機嫌顔だ。
「もう一回洗い直しだよ」
「これぐらい問題ないだろ。それより何で落ちたんだ。どこか壊れたか……ん?」
亘は訝しげに眉を寄せた。そして足元を何度も見返す。
「おかしい足りないぞ。下にも落ちてないし、どこに行ったんだ?」
「どしたのさ」
「いや、足りないんだ。ほら、サキのパンツが」
「なぬ!?」
室内で怠そうにしていたサキが跳ね起きた。血相を変えやって来ると、亘が手にした洗濯干しを見上げ確認し、それから足元をキョロキョロと見回す。
無いものは無い。
「そーいえばさ。落ちる前に人の気配がしてたよ」
「なるほど、そうなると下着泥棒か」
「なぬ!」
サキの目が見開かれた。
「探す!」
「そだよ犯人追跡だよ!」
「戸締まりしてからな」
亘は宣言すると、今にも飛び出しそうなサキの長い髪を掴んだ。
サキが苛々としている。
どの臭いが犯人かも分からないため、頼りになるのは神楽の探知による感覚のみ。幸いなことに犯人は探知範囲から出てないようで、亘は軽い早足で移動する。
「疾く疾く」
サキは手を引き急かすが、亘はそうも急ぐつもりはない。
「慌てるな。どうせ神楽の探知内だ、逃がしやしない」
「あのさ、マスターさ。下着を盗られたんだよ、急ぐに決まってるじゃないのさ」
「そうは言うが、下着を盗られた経験は無いんでな」
確かに男の下着を盗むような上級者はそうはいまい。
亘はぶつくさ言いながら、しかし足を速める。
「んっとね、斜め右前の方向で、マスターの足なら百歩ぐらいの位置に居るよ」
神楽は周囲の地形までは把握していない。そのため、住宅など周囲の地形を勘案し道なり進む。この場合は右に曲がって左に曲がるだけだ。
そして放置された草だらけになった空き地に出た。ついでに、その一角にしゃがみ込む小柄な男の姿を見つけ、念のため確認しておく。
「あいつか?」
「うん、そだよ。間違いないよ」
「あっ!」
サキが声をあげた。
男がポケットから何か白い物を取り出したのだ。広げられたそれは、見覚えのある女児用パンツであった。
サキは目を見開いた。
男がそれを広げて天にかざして眺める。
サキは歯をカチカチ音をさせた。
男がそれに顔を埋める。
サキは全身から怒りのオーラを立ち上らせずんずんと歩きだした。
亘が引き留めようと手を伸ばしかけたが、懐から顔を出した神楽が身振り手振りで制止する。触らぬ神になんとやらという事らしい。
「ん? なっななな、なんだお前は!」
男が狼狽するのは痴態を見られたからか、それとも物理的な圧力すら持つ怒りを感じたからかなのは不明だ。なんにせよ、白い布越しの声はくぐもっていた。
サキは怒りに顔を赤く染め全身をプルプル震わせる。
「寄越せ」
「えっ? これの事?」
「やっぱり要らぬ」
「もしかしてこのパンツの持ち主。素晴らしい、ああなんて素晴らしい。こんな可愛い子のパンツが、今ボクの顔――ぶぎゃあっ」
無言で放たれたサキの一撃が男を吹っ飛ばす。倒れたところを蹴り、さらに蹴る。見た目は子供だが、その力は凄まじい。
「ううむ、そろそろ止めた方が良いような」
「その必要ないとボク思うよ。好きにさせたげなよ。あんなことされたらさ、そりゃ怒るに決まってるもん」
「洗濯した後のだろ。そこまで怒らなくたってな」
「そーゆー問題じゃないよ。マスターときたらデリカシーがないんだからさ」
「さよか」
亘はとりあえず納得したフリをしておいた。これ以上この件に口を挟むほど愚かではないのだ。どうせ犯人は自業自得であるし、何より他人事である。黙って眺めておくことにした。
その間にもサキは留まらない。地面に落ちた白いパンツを一瞥し、穢されたそれを青白い炎で浄化してしまう。口角を極限まで上げ緋色をした瞳を炯々とさせており、そこにはまったり過ごしていた時の怠惰さは欠片もない。
元が美しく整った顔立ちだけに、怒りに満ちた顔の恐ろしさは倍増する。
「ひっ! くっ、来るなぁっ!」
「死すら生温い」
言うなりサキは男の足を掴む。
引きずったまま道路に出るが、不思議なことに途中ですれ違う誰も目すら向けない。腑抜けた顔をするばかりで、ボンヤリしている。
「また何か術を使ったようだな」
「そだね、ほんとにもう。芸達者なんだからさ」
雑談する亘と神楽は、男を引きずるサキの後を追う。
アスファルト舗装にしがみつこうとする男の抵抗は無意味なもので、爪が剥がれ肌が削られていく。昔の刑罰にひきずるものがあったそうだが、何だかそんな雰囲気を醸し出している。
そして街角にひっそり佇む祠に到着した。
赤い前掛けを着けた狐の象が狛犬代わりに置かれた稲荷の祠であった。
何をする気がと思いきや。
えいやっ、と掛け声をあげたサキが男を祠に向かって投げつけ――そして男は消えた。
消えた。
亘と神楽は顔を見合わせる。
「あそこに異界があるのか?」
「ううん、ボク何も感じないけど」
「だったら何をしたんだ。分かるか?」
「分かんないけどさ……聞く気ある?」
「……ないな」
亘が肩を竦めていると、サキが戻ってきた。少しばかり不機嫌さは残っているが、そこはかとなくやり遂げた感もある。
そして、とんでもないことを言い出した。
「式主、新しいパンツ買って。今すぐ」
「今からか?」
「今から」
その要求にどう答えるか亘は思い悩む。
今から下着売り場に行き、子供用とはいえパンツを買うのは――何とも言えない気分だ。
そして亘は助けを求めるためスマホを取り出すのであった。
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