第186話 今この瞬間を精一杯に
「はいどうぞ。NATSの方が用意して下さった着替えを貰ってきましたよ」
「おっと悪い」
「マスターの着替えは、ボクが手伝うんだもんね。任せてよね」
七海から上着を受け取った神楽が張り切り出す。羽織った襟の位置や、折れを直したりと世話を焼きだすのだが……それをされながら、亘は目線で軽く礼を伝えれば、七海は笑顔で小さく頷いてくれた。
それはそれとして、用意された背広は見るからに吊しのスーツであった。
文句を言ってはいけないが、フレッシュさのある若手には似合うもので三十代も半ばを過ぎた亘には似合わない。今はありがたく着ておくが、普段の仕事では着る機会はないだろう。
「大臣さん、ちょっと怒ってましたね」
「ああいう手合いってのは、他人が自分に従うものだと信じきってるからな」
「流石は小父さんだぜ。殿上人にガツンと言ってやるなんて凄いんだぞ」
「そうだろう、そうだろう。はははっ」
相変わらず勘違いしたままのイツキは感心するような顔だ。尊敬の眼差しがこそばゆく、そして心地よい。
亘は腕組みしながら軽く反っくり返って笑いをあげる。
そこにやって来た志緒は呆れ顔だ。眉間を揉みながら深々と息をつく。
「何を笑っているのかしらね、この人は。よくもまあ大臣にあんなこと言えたものね。まったく肝が冷えたわよ」
「いいだろ。どうせ異界を出れば忘れてしまうんだ。志緒だって、言いたいことを言ってやれば良かったのに。こんな機会なんて、そうないと思うぞ」
だが、志緒の頭は横に振られる。
「あのね、大臣の記憶は消えないわよ」
「えっ?」
寝耳に水並の言葉だ。
「アマテラス謹製の護符があるのよ。知らないの?」
「おい、本当なのかそれは」
「本当に決まっているでしょ。ねえイツキちゃんも知ってるわよね」
「見たことはないけど、知ってるんだぞ。偉い方々に渡すヤツだよな」
「冗談のつもりなら質悪いぞ。なあ冗談だろ。冗談だよな」
亘は青ざめた。
「いいや冗談などでない。長谷部係長の言うとおりだ」
やって来た正中もまた眉間を揉んでいる。NATSの中では、その仕草が流行っているのかもしれない。深々とため息をつき、こちらも心底呆れた様子だ。
亘の中で邪悪な計算が始まる。
上司の上司の上司の……もうどれぐらいか分からない上に君臨するトップだ。身分の差がありすぎ、むしろ直接的な影響はないだろう。けれど大臣が多少でも不快の念を漏らせば、それを推し量って動く取り巻きが存在するのもまた事実。組織とは、そういったものなのだから。
――いっそ、今ならまだ不幸な事故で処理できるかも
大臣の去った方向へと視線を向けると、まるで考えを見透かしたように正中が咳払いをした。
「まあ問題はなかろう。大臣には釘を刺しておいた。NATSとも関係があるように臭わせておいたので、五条係長に対する影響もないはずだ」
「それはどうも、助かります」
亘が頭を下げると志緒が皮肉な顔をする。
「あら殊勝ですこと。今度こそ、これは貸しにしておくわね」
「貸しか……そういえば今回は志緒にも貸しが出来てたな。さらにNATS系列に関係するとされたなら、実際にそう思わせるしかない。こうなったら――」
察しの良い志緒が顔を青ざめさせる。
「ちょっ! それは止めてよ」
「まだ何も言ってないだろ。何にせよ、本腰を入れた訓練を一緒にせねばな」
ざわっ、と周囲でたじろいだのはNATSのメンバーだ。それを代表して志緒が必死の声を張りあげる。
「必要ないわ、必要ないんだから。ねっ、課長だってそう思いますよね」
「……戦力の増強は急務。長谷部係長が貸しをつくった件で訓練となるであれば、私としては口を挟めない。そう、この件は長谷部係長が原因であるのだから」
「課長ぉ! そんなこと言わないで下さい。私が皆に恨まれてしまうでしょ! この人絶対、無茶苦茶やる気ですよ!」
「安心しろ。ちゃんと労働基準法は守って八時間で訓練するから」
「だからそれが無茶苦茶なのよ! それ本気で止めて!」
「むうっ、だったら速成コースで異界の主との戦闘もありか。なんだったら、今からでも一回やっとくか?」
志緒の悲鳴で聞き耳をたてたNATSの面々は、脱兎の如く撤退を始めた。相手が大臣だろうが何だろうが、尻を蹴飛ばす勢いで行動しだしている。
「あのさ。ボクのMPって、ちょっとしか回復してないけどさ。ケガとかしたらどーすんの」
「なるほど確かにそれはそうだな。だが、それぐらいの緊張感があっても良いと思わないか?」
「ああ……うん、そだね。まあマスターの感覚からするとそだろね」
「だろう、そう思うだろ」
「思わないから! それ絶対に思わないから!」
志緒の叫びが異界に響くばかりであった。
◆◆◆
異界を出れば夜の闇が押し寄せる。
空気は埃っぽさや煙草の臭いを含み、ぬるりと暖かだ。車のクラクションや歩行者信号のメロディが響き、店のドアが開閉すれば笑い声と共に曲が漏れ出す。賑やかなネオンや電球が明滅し、街の中というものは五感全てを刺激し騒々しい。
ホストっぽいキメキメの男、大声をあげる酔っ払いなど、教育的によろしくない連中の姿があるが、認識阻害の効果によって亘たちに気付いた様子もなかった。
とはいえ、そう長く続くものではない。
やはり、七海たちの帰宅に付き添ったことは正解だったろう。
異界で戦闘するよりも、少女たちを送り届ける方がよっぽど重要だ。NATSの訓練を別日にしたことは正解に違いない。
亘は頷き、そして落ちつかなげに上着を弄り靴先を舗装で叩いた。
「いかんな、これは。サイズは合っているはずなのに、どうも微妙に合わないんだよな」
折角NATSが用意してくれたが、どうにもフィット感が悪い。
「そら、そうやん。サイズは同じやろけど、その上着って細身系やら。靴だってドレスシューズ系やんな。そら合わんはずやって」
「サイズは同じでも、デザインが違うと合わないものなのか。あまり気にしてなかったが、なるほどそうなのか」
「そうやん。あとはメーカーによる違いもあるもんやでな。たとえばや、ウチらがしとるブラなんてメーカーが違うと普通に一サイズも違うんやで」
「なるほど……ブラ? ブラ、ブラ……ブラ!」
何度か呟き意味を悟り、亘は片眉を極限まで上げ動揺した。
「そうやんな。だから試着してみんとフィットするか分からんもんやで」
胸を強調されるような仕草をされてしまうと、常にもまして目のやり場に困る。しかも装着する真似までされては、とっても困ってしまう。
エルムはウィンクをしてみせた。
「なんやったら、今度違いを見せたるわ。楽しみにしときなれや」
「エルちゃん、いい加減にしましょうね。五条さんが困ってるじゃないですか」
「わー、ナーナが怒ったんな」
「ナナゴンが怒ったー」
イツキも交えてはしゃぐ少女たちの間で亘としては困るしかない。しかも、認識阻害が薄れだし周囲の衆目も集まりだしていた。
両腕を七海とエルムに取られて引っ張られ、背中をイツキに押され移動する状況だが、何だか一段落してほっと気が緩んだ気分であった。
左文教授の件は懸念すべき事項だろう。
しかし今ここで気を揉んだところでどうなるものでもない。そんなことより、今この瞬間を精一杯に楽しむべきだ。せっかくの満ち足りた時間なのだから。
正面から来ていた酔っ払い集団と鉢合わせしそうになり、少女たちに引きずられるようにして軌道修正する。
「すいませ――あっ」
「なんとっ、五条先生ではありませんか!?」
それは同僚たちだった。
しかも高田係長をはじめとする合コン参加集団だ。どうやら憂さ晴らしの二次会を終えたところなのか、相も変わらず男だけで盛り下がりながら歩いていたらしい。亘の姿に目を見開き顎を落とすように口をあんぐりさせている。
「なんで女子高生と! しかも、さっきの女性は!? どうして五条先生なんかがモテモテなんです!」
亘は冷静に我が身を振り返った。
夜の繁華街を制服姿の女子高生と歩いているわけで、しかも両側から挟まれるように腕を取られている。さらには背後からも抱きつかれている。見知らぬ他人に見られても構わないが、これを職場の同僚に見られてしまうと非常によろしくない。
不幸中の幸いはサキをスマホに戻しておいたことだろう。そう思って自分を慰めることしか出来ないような状況だ。
「いやあ、あはははっ。はははははっ、はぁっ……」
もう笑って誤魔化すしかない。亘は痛いほどの視線を浴びながら逃げだした。強引に引きずるので、余計に密着し寄り添うように見えると気付きもしなかった。
大臣の去った翌日から、職場では亘が大の女好きといった噂が流される。それには大弱りであったものの……仕事はスムーズにいくようになった。
なぜなら、上司たちに決裁の印鑑を貰いに行くと、絡まれる事も嫌みを言われる事も渋られる事もなく、素直に押印をしてくれるようになったのだ。異界の記憶は残らずとも、恐怖の記憶は魂に刻み込まれているらしい。
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