第175話 ケチではない
「あなたの身柄は、こちらで引き受けるわ。安心して頂戴。さあ行きましょう」
「い、や、だ」
亘は一言ずつはっきり口を動かし宣言した。腕組みしながら椅子にふんぞり返った横柄で尊大な態度だ。立場の変化を敏感に感じ取り、自分が有利と察知すれば、もうこれだ。
隣のサキも真似して腕を組む。むしろその緋色の瞳に見つめられた事で、正中と志緒が震え上がる。それのみならず、サキの正体など知らぬはずの警官たちまでもが理解不能な恐怖に顔を青ざめさせていた。
それは本能に根ざした恐怖とでも言うべきものか。捕食者に対し人間が持つ根源的恐れなのかもしれない。なにせ見た目は幼い少女であっても、その正体は人を捕食する側の悪魔なのだから。
「こちらの言葉に耳も貸さず、任意とか言って連れてきて、二人がかりで責め立てられてだな。それで腹を立てないほど、人間が出来てないんだ」
「んっ、出来てない」
「黙っとけ」
同意したサキをひと睨みして亘は続ける。
「確かなんだったかな? 公務員の面汚しの屑なんで、自白しなければストーカーみたいに何年でも粘着して、警察権力を使って人生を滅茶苦茶にしてやるって話だったよな」
「そこまでは言ってない!」
正中が署長を、署長が警官を。そんな視線のリレーの先で厳つい顔をした警官が慌てふためいた。
亘は楽しそうに、そして嫌らしく笑った。
「その主旨の内容を言ったことは認めるわけだ。はははっ、それこそ自白だ」
「それは認識の違いで。ちょっとした誤解と行き違いによるもので……」
「でも誤解とはいえ、そんなことをされたら困ってしまうな」
「この件に関しましては、綱紀の粛正をもって対処したいと思う所存でして」
お決まりの文言を述べる署長は額にびっしりと汗を浮かべている。それは亘に対してでなく、隣の正中を気にしてのことだろう。
なんにせよ、亘の求めることはそうではない。
嫌みたらたらと続けるのは、怒りもあるがそれ以上に理由がある。この件の記録を有耶無耶のまま、残されては困るのだ。生活のためにも、ここは引けない。
そんな意図に気付いたのは志緒だ。表情に力を込めると、取調室の安っぽい机に手を突き身を乗り出す。
「安心して頂戴。この件については私の方で対応するから」
「ほう、どんな対応をするんだ? 具体的に教えてくれ」
「その内容は……ここでは口には出来ないわよ。でも、あなたが安心して暮らせるようになるのは間違いないわ。信じて頂戴」
「信じろって? 安心できるって証拠と根拠を示してくれ」
「そんな子供じみたこと言わないでよ。ほら、ちゃんと対応するから。あなたが品行方正で真面目な人だってことは、それなりに分かってるつもりだし……」
「それなり? それなりか」
亘は少し意地になりだしていたが、実のところ引っ込みが付かなくなっている部分もある。機嫌でいるのを止めるタイミングを完全に見失っていた。
だから取調室の入り口から聞こえた遠慮がちな声に一番安堵したのは、亘だったかもしれない。
「あのう、五条さん大丈夫ですか?」
七海が顔を覗かせていた。心配そうで気遣わしげな顔だ。
さらに、横の小窓でカーテンが開くとエルムとイツキが顔を覗かせた。嬉しそうな顔で笑い手を振っているではないか。
それで、ようやく亘も矛を収めることができた。
◆◆◆
平謝りする署長と警官に見送られ、取調室を後にした。正中が残ったのは、この一件の後処理のためで、志緒に任せるよりよほど安心だろう。
階段を一段飛ばしで下りていくイツキを先頭に、警察署内を下へと移動していく。夜間でもなんだかんだと人の動きが多いため、関係者専用の通用口からこっそりと外へ出る。
空は既に闇色に染まり、オレンジ色の光を放つ外灯には大量の蛾が集まり飛び交っていた。その下にスタンド型灰皿が置かれているが、そこで煙草を吸うと鱗粉まで吸いそうなぐらいだ。
辺りを見回すと正面に大型ガレージがあり、細かなシャッターで幾つにも区切られている。波形スレート屋根の小屋もあるが、どうやら物置小屋らしい。通用口の脇をみれば、『ラジオ体操は元気よく』などと張り紙がされている。ここで職員たちが集まって体操をするのだろうか。
自分の職場より、よっぽど健康に留意しているではないか。亘が微苦笑していると、志緒がくるりと振り向いた。
「課長が来るまで、ちょっと待ちましょうか」
「志緒はん、ありがとうな。お陰で助かったんな」
「わざわざ来て貰って、すみません。ありがとうございます」
「あら、そんなこと気にしなくていいのよ。素直な子ばっかりで嬉しいわ」
志緒は態とらしく亘を見つめた。どうやら、先程の意趣返しのつもりらしい。
ふんっと鼻で息をついて視線を逸らす。
「そりゃそうと家出少女ってのは、イツキのことか?」
小柄な身体がギクリとした。そそくさと七海の背に隠れ、きまりが悪そうに顔を覗かせる。何か後ろめたい様子だ。
「えぇっとな、俺はお話しのつもりだったんだ。ほら、優しそうなおばさんだったし、余計なことなんて言うつもりじゃなかったんだぞ」
七海に背後から抱きついた姿は仲の良い姉弟みたいだ。
「私から注意しておきましたから、できれば怒らないであげて下さい」
「別に怒る気なんてないさ」
「そっかぁ、小父さんはやっぱし優しいな」
「注意はするけどな」
「うげっ」
呻いたイツキへと亘は語りかける。
「いいか、これからはもっと人を疑え。どんなに優しそうで親切そうでも、簡単には信じるな。他人を信じることは大事だが、悪いやつは悪い顔をして近づいたりはしない。だから人を疑え。信じても信じきるな」
強い口調でないため、イツキは小さく笑いながらしっかり頷いた。
「うん、分かった」
亘が怒らない理由は、優しいからではない。それは怒れないからだ。生の感情をぶつけることが苦手なのだ。
そんなことを知らない志緒は呆れ顔だ。
「まったくもう。あなたってイツキちゃんに甘いのね」
「そりゃそーだぞ。なんたって身内だかんな」
へへんと笑って、イツキは七海を離れ今度は亘に抱きついて得意そうな顔をした。それを追い払おうとするサキと、じゃれ合うように牽制しあっている。
そんな様子を皆で笑っていると、つい先程まで取調室で人生の危機を迎えていたとは思えない和やかさだった。
「まあ、なんだ。礼を言うのが遅れたが、助かった。ありがとう」
助けられたことは事実であり感謝はしている。取調室で少し意地になったことも含めての礼のつもりだ。
「あなたに貸しがつくれるなんて最高だわ」
「今までのことで相殺してくれ」
「あら、もっと感謝されると思ったのに。あなたって、随分とケチね」
志緒はニッコリと笑うが、そこには冗談めかした雰囲気が漂っている。実のところ亘には何度か助けて貰っており、命の恩人でさえあるのだ。貸し借りで言えば志緒は借りっぱなしの状態だ。この程度で貸しなんて思ってやしない。
完全に冗談気分の志緒に対し、亘は批判されていると捉えムッとした。
「そんなことない。ケチではないだろ」
「あらそうなの。今までの行動や言葉を見ると、どうかしらね」
「いいだろう。だったら、NATSの訓練に無料で協力してやる」
そこで態々、無料と付けた辺りにケチさが漂っている。
しかし、志緒はそんな突っ込みを入れる余裕すらなくギョッとした。オレンジ色した外灯の中に照らされた顔が引きつっている。
手を振り懸命に最悪の訓練を辞退しようとする。それが自分のせいで行われるとなれば、同僚たちの恨み辛みを一身に受けてしまう。もちろん、自分だって受けたくないのだ。
「そ、そんなことして貰わなくたっていいから」
「遠慮は不要だ。今度は前と違って本気で訓練をしよう」
「やめてっ! というより、なんなのよ! 前のあれ本気じゃなかったって言うの? まさかあれで? 嘘でしょ」
「嘘なんて言わない。あの時は時間がなかったからな。今回やるなら腰をしっかり据えて、八時間付きっきりで訓練するさ」
「八時間って何なのよ、それは……」
「もちろん労働基準法に基づくものだ」
「そういう意味じゃなくって。八時間? あれを八時間もする気なの?」
志緒の悲鳴のような声は大きなもので、それは何事かと署内から人が出てくるほどであった。
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