第172話 宇宙の彼方
非常階段を見つけた少女たちは、そこを選んで上がっていく。薄茶色したカーペット仕様の階段は足音こそ響かないが、笑いさざめく声は隠しようもない。
何階か移動したところで、七海が足を止めた。
「えっと、さすがに同じフロアに出たらマズいですよね。どうしましょう」
「そらそうやんな。ウチらが顔を出したらバレバレや。しかも制服やし」
今更ながらの言葉だ。ほとんどノリと勢いで来たため、どうやって監視するかまで考えていなかったのが実態だ。
「だったら、俺に任せてくれ。ちょっと様子を見てくるかんな」
「さっすが忍者や。ええけど、見つからんときや」
「ふふん、俺の忍びの技は完璧なんだぞ。ちょっと様子を見てくるだけなら、任せてくれよ」
「そんなら、ここのフロアで待っとるから」
「合点承知の介だぜ」
イツキは言い置いて軽い身のこなしで階段を上がっていく。元気よく階段を駆け上がるのだが、はしゃいだ子供みたいな動きで隠密風ではなかった。
「やっぱし、イツキちゃんの完璧っちゅうのは完璧やないんやな」
エルムは呟くと、七海と一緒に非常階段からフロアに移動した。
そこは空調の音しか聞こえないほど静かで、金属扉の閉まる音が大きく響くほどだ。廊下は他に誰の姿もなく、エレベータ扉の向こうから駆動音だって聞こえる。
白い艶のある壁も、薄茶色したカーペットも高級感を感じさせるものだ。制服姿の女子高生が居るには相応しくない雰囲気である。
幸いなことに前方のエレベータスペースに歯科医院の案内表示を見つけ、さもそこに用があった素振りで近づき待機することにした。
静かすぎる雰囲気の中、七海は憂慮する顔をしながらションボリしている。
「どうしたんな?」
「五条さんがモテモテだったらどうしましょう」
「何かと思えば、そんなことか。そりゃあ公務員ちゅうんはモテるらしいでな。今頃モッテモッテかもしれんな」
現実を知らぬエルムは訳知り顔で頷いた。そして想像するのは、両側に女性をはべらしワイン片手にソファでふんぞり返る亘の姿だ。
「やっぱし、ありえんわな」
苦笑するエルムは手をパタパタと振った。恐らく、この世で最もあり得ない光景だろう。しかし七海はますます気を落とす。
「五条さんが誰かと付き合っちゃうとか……大丈夫でしょうか。もしそんなことになったら……」
「そんなん心配しすぎやって、大丈夫なはずやんな」
「そうでしょうか?」
「だってウチが――いんや、女の人が誘っても何もできん人やで。大丈夫やろ」
言いかけた言葉を、少し急いで言い直す。さらには視線も彷徨わせているが、そんなエルムの不自然さにさえ気付かないほど七海は悩み込んでいる。
「でもですね。押し切られる可能性があるのでは……」
「海でキララちゃんに迫られとっても大丈夫やったろ。心配しすぎやってば」
「だったらどうして、合コンに来たのでしょう?」
「そらぁ、まあ……なんでやろ。そら、分からんけどな」
まさか憧れの興味本位とは誰も思うまい。エルムは首を捻り、何気に視線を転じた。そして気付いた――ここに居てはダメだと。ちょっとどころか、かなりマズい。
「あちゃぁっ、やっばぁ。あかんわ」
時同じくして、エレベータの扉が開き男性が姿を現した。
制服姿の二人を見るなりギョッとして足を止めている。さらには、不安そうに思い悩む七海の様子を見るや、まるで世も末だとでも言いたげに頭を振るではないか。その様子は歯科医院へと姿を消すまで続いた。
「あかんわ、ここはあかんで。ほら、階段に戻ろか」
エルムが促すものの、七海は暗く沈鬱な顔をしたまま動こうとしない。
「どうしましょう。このままだと、もうダメです」
「ちょっナーナ止めなれ。その台詞マズいって」
「だって私、これからどうしていいのか分かりません」
「あかんて、洒落にならんて」
エルムは顔を引きつらせると、七海を非常階段前まで強引に引きずって行った。そして文句を言いたげな友人に対し、それまで自分たちがいた場所を無言で指し示す。そこは――レディースクリニック産婦人科の前だった。
七海は最大級に目を見開いた。
「いえーい、戻ったぜ」
イツキが現れたのはまさにそのタイミングだ。非常階段の扉が開くと、元気よく飛び込んできた。得意そうな顔を見れば上手くいったことは一目で分かる。
「へっへん。どんなもんだい、やっぱし俺の忍びの技は完璧だったんだぞ。あのな――」
「待って下さい。場所を変えましょう、場所を」
「そやで。ビルの外に出た方がええわな」
七海とエルムは二人がかりでイツキ抱えると、連行するように引きずりだした。
「ちょっと離せよー! 二人がかりなんて狡いぞー」
そのまま大急ぎで階段を駆け下り、商業ビルを出る。夜の始めに差し掛かった時刻の人通りを避け、路地へと飛び込むように入った。そこで膝に手をやり乱れた息を整えだすと、その傍らでイツキは服を直しながら頬を膨らませている。
「なんだよ、二人とも酷いぜ」
「イツキちゃん、ごめんな。ちょーっと、あの場所はあかんかったんや」
「ごめんなさい。えっとね、それで五条さんの様子はどうでしたか?」
「まあ別にいいけどよ……小父さんの様子か。俺が思うに、あんなら大丈夫だぜ」
「どうしてです? モテモテだったのでは?」
「だってなあ。あれをどう言ったものか……そう、あれは猟で追い詰めた時の兎みたいな目だったよな、うん」
七海とエルムは顔を見合わせた。そんな例えをされても、さっぱり分からないのだった。
◆◆◆
バカだった――亘は激しい後悔に襲われていた。仕事で追い詰められた時とは、まったく種類の異なる窮地に陥っていたのだ。
どうして自分は合コンなんて楽しみにしたのか。嗚呼、何と愚かだったか。昼間の自分に会ったら、首を掴んで言い聞かせてやらねばなるまい。バカなことをするな、早まるなと。
己を呪う亘の傍には二人の女性が取り憑き……もとい、付いていた。
「いつもお食事はどうされているんですことの?」
「え? まあ自分で適当につくってるだけですが」
「えーー、まーーそーなのーー、凄いですわぁー。感心しちゃいますわーー」
頭の天辺から出るような甲高い声で、語尾が長く引きのばされる。ふぉーん、ふぁーん、と鋭く吹けあがるエンジン音のように響き渡る声が頭に響く。
横からまた別の女性が身を乗り出してくる。
「うんうんうんうん、そうなんですの。あたくし、感心しちゃいますですわ」
こちらは大袈裟な身振りで相槌を打つのだが、まるで暴走バイクが猛る空吹かしのように勢い込みヴォンヴォンヴォンと騒々しい。
亘はゲッソリしながら、モソモソとサラダを食べる。レディース暴走団に取り囲まれた気分だ。無理して上品ぽく取り繕った甲高い声と言葉にウンザリしていた。
恨みを込め高田係長を見やる。
そちらは他の同僚たちと一緒になって顔を緩ませ、頭上でハンカチを振り回し変なダンスを踊るなど大はしゃぎしている。凄く楽しそうだ。
「…………」
そして同僚たちの話が漏れ聞こえるが、不思議なことに誰も彼もが重大事業を任され職場のエースとして大活躍。上司に頼られ部下に慕われ大忙しで、趣味に仕事にと人生をエンジョイしている……のだそうだ
亘は物凄くバカバカしい気分になり、物憂げにキュウリを囓る。
だが、そんな仕草に二人の女性は歓声をあげる。動物園の珍獣の食事シーンでも、ここまで興奮されやしないだろう。
「うんうんっ! お野菜ちゃんがお好きなんですのっ? 健康志向で偉いですわ」
「ええまあ」
「ほーーんふぁーーん。そーなんですのーー。私もお野菜大好きなんですのー、トマトちゃんとキュウリちゃんを育てますのよ。きゃあ、趣味が合うかもぉ」
「うんうんうんうん。そんなの、あたくしもですわよ。有機野菜の無農薬でなくっては、恐くて食べれないですもの。その程度なんて当然のことですわ」
「あんらーー。私なんて、お水にもこだわってますのよーー。天然の綺麗なお水をあげてますのよー。ふぉっふぉっふぉっふぉっ」
「凄いですわ。でも、あてくしなんて水素水ですことよ。ふぇっふぇっふぇっ」
亘は宇宙の彼方を見るように目を細めた。
田舎育ちからすれば、何が無農薬で有機野菜だろうかという気分だ。
せいぜいが減農薬程度ぐらいまでで無農薬なんて言ってられやしない。もちろん放置して無農薬も可能だが、そうなると虫食いだらけでレース状になり、水に沈めたり調理前に手で摘まんで虫を取り除かねばならない。
そんな野菜を食べてきた身としては、何がトマトちゃんで、キュウリちゃんだろうかと腹が立つ。田舎の子を舐めるなという気分だ。
去りたかった。とにかく、ここから去りたい気分だった。席を立って出て行けばいいのだろうが、それが心理的に出来やしない。なんと情けないことか。もしも、ここから連れ出してくれる者がいれば、なんでもしてやろう。
そんな願いが通じたか――スマホが曲を奏でだす。
電話のない生活が長かったせいで、マナーモードが身についてない。だが、この場合はそれが幸いした。着信があったことを高らかに周囲へと知らしめてくれる。
亘は笑顔を堪えつつ、神妙な顔をしてみせた。
「おおっと、これは誰からかな。いやはや、参った。急用じゃないといいけどな」
「うんうんうん、そうなんですの。お仕事大変なんですわね」
「お仕事に頑張る人って、とっても素敵ですわーー」
言いながら女性二人は視線をぶつけ合い威嚇しあっている。
だが、亘にとってはどうだっていいことだ。とにかく、イソイソと席を外す。
「そうですね仕事関係かもしれませんね。ちょっと席を外します」
これは急用の電話。出なくたって決まってる。誰がなんと言おうと、これは急用で今すぐ帰らねばならない用件。ちょっと離れて話をしたら、焦って早足で戻ればもう完璧。自由へとエスケープだ。
電話の相手に心底感謝しながらスマホを耳にあてた。
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