第170話 タイミングの問題

 翌日のこと。

 仕事の途中でトイレ行ってきた亘は自分の席を見てウンザリとした顔をした。

 ほんの少し席を外しただけが、マウスパッドに電話メモが何枚も並んでいる。単にタイミングの問題だろうが相手に見張られている気分になってしまう。

 席に着きメモを確認する。

 どれも相手の名前と『電話がありました』とだけメモされている。

(だからどうしろと?)

 口の中で呟き、電話メモを握り潰しゴミ箱へ放り込む。態々、番号を調べてまで電話する気も起きない。必要なら相手からまたかけてくるだろう。

 大臣が来てしまえば、その対応は課長以上の幹部が行う。今頃、視察に随行し汗をかきながら説明しているはずだ。亘たち下の者は通常の仕事で、これまで溜まった仕事を片付けねばならない。

 そして公共事業発注のための金額算出を開始した。

 これが神経を使う内容だ。遙か昔は、それこそ『丼一杯で幾らです』の感覚だったらしいが時代と共に細かくなり続け、今や『精米歩合の損耗率を考慮した米粒が何粒あるため丼一杯で幾らです』と緻密に計算せねばならない。しかも、米一粒でも数え間違っていると不適切となる。

 公共事業は一事が万事、その調子のため進捗は遅れるばかりだ。それを求めるのは世の中だが、進捗が遅れると今度はそれに対して文句が出る。

 今の時代は不寛容というより、自縄自縛な時代に違いない。皆で互いの首を絞めあって苦しんでいるのだ。

「先輩先輩、あのですね」

 面倒な計算に頭を悩ませていると隣から水田が身を乗り出してきた。ちょうど良い気分転換だと手を止める。

「うん、何か問題でもあったかな?」

「そうじゃなくって、お子さん超可愛かったですよね。前に見た子も美形でしたし。そうなると、お母さんたちも超美人なんですか?」

「あのな……そういうことは聞くものじゃないと思うな、うん」

「超気になって寝られないです。昨日の話題は、そればっかでしたよ」

 水田は下原課長が不在ということで、平然と私語をする。重々しい課長の存在も功罪入り混じりということか。

 今こそ後輩を指導する時だと、亘は精一杯の威厳をみせた。

「こらこら。課長がいないからって、あまり気を抜いてはいかんな」

「えー、いいじゃないですか。仕事に集中するためにも教えて下さいよー」

 どうやら威厳というものは簡単には身に付かないらしい。諦めて仕事に集中することにした。横からの期待する眼差しは無視――だが、やはり無視しきれない。

 そちらに意識が行って落ちつかないでいると、周囲の様子が気になりだす。

 いつものようなピリピリとした身の引き締まる雰囲気が感じられない。仕事電話とはいえ躁状態でケラケラ笑っているし、立ち話で冗談を言って膝を叩く者もいた。女性たちは固まって噂話に花を咲かせている。

 上層部不在で職場全体の雰囲気が緩んでいるようだ。

 せめて自分だけでも集中しようとするが、一旦気になりだした周囲の様子はどんどん気になってしまう。 

 ブエックショーンと遠慮ないくしゃみ、プアーンと鼻をかむ音。キィーッと椅子の車輪が軋み、ドドドドッと貧乏揺すりが響く。室内をドカドカと踵を打ち付け歩く革靴。落ち着き無く走り回るパタパタした足音。

「いかんな」

 亘はこめかみを押さえウンザリした。どうにも集中しきれない。電話が来ないことを願いながら席を外すことにした。


◆◆◆


 冷蔵庫の作動音が聞こえるぐらい、給湯室は静かだった。

 簡素な流し台に電気ポットと電子レンジがあるのみで、ガスコンロのような調理器具はない。災害で電気が止まれば、お湯すら沸かせないお粗末さである。

 棚からマイカップを取り出す。

 飲み物は紅茶と緑茶のパックと、インスタントコーヒーが自由に選べる。ただしそれはポケットマネーを出し合い共同購入したものなので、あまり一人でガブガブ飲むわけにはいかない。一日三杯までとマイルールを決めている。

「やっぱ、コーヒーだな」

 目分量で粉を投入しお湯を注ぐ。電気ポットも誰かの寄贈品で、相当な年代物のため蓋が破損して湯の出が悪い。何度か注ぎボタンを押す必要があるぐらいだ。

 流し台にもたれかかると、ようやく給湯室の静かな環境で息をついた。

「ふう。ここは静かで落ちつくな」

 自分が狭量で神経質と思いたくないが、今日はどうにも騒々しい。

 コーヒーを啜る。

 目分量を間違えたそれは凄く苦いものだった。しかし、今はそれが丁度良い。ひと息ついたところで、内ポケットからスマホを取り出してみる。

「神楽、出ておいで」

「喚んだー?」

 声をかけたスマホの画面から、外はねしたショートヘアの可愛らしい顔が現れた。辺りの様子を窺い、光り輝く羽を煌めかせながら飛び出してくる。

 その姿を見るだけで亘は笑顔になった。けれど、まだ物憂げな顔をしていたらしい。小さな手がペタペタ触ってくる。それは心地よい感触だ。

「なんかさ、元気ないね。どしたのさ、嫌なことでもあったの?」

「いや別に。少し疲れたんでコーヒーブレイクってやつだな。それでなんだか神楽の顔が見たくなってな」

「えへへっ。んもー、マスターってばさ。ボクを口説いてどーすんのさ。このこの」

 神楽は袖で口元を隠し、反対の手でペチペチ叩いてみせる。照れているせいか、ちょっと強めだ。そのまま亘の肩に腰掛けると、寄り添ってきた。最近はどうしたことか、以前にもまして引っ付いて来るのだ。

 そして無言のまま穏やかな時を過ごす。


 一杯のコーヒーを飲み干すころには、亘のウンザリ気分はすっかり消えていた。だが、不意に神楽がピクッと反応し素早く飛び上がって棚の上に隠れてしまった。

「これは五条大先生では、あーりませんか」

 現れたのは高田係長だが、軽いノリの声で妙に機嫌が良さげだ。あまり相手をしたくない人物だが、神楽を置いていくことは出来ない。やむなしと話をしだす。

「お疲れ様です」

「おやおや五条先生も休憩ですか、優雅なコーヒータイムってやつですね」

 冗談めかした相手の口調に、亘は気取った仕草でマグカップを掲げることで応えてみせた。そんな様子に高田係長もニンマリ笑う。

「いやはや、今日はどうにも浮ついてますよねえ。これじゃあ仕事の効率が落ちるってもんです。まったく、大臣が来るなんていい迷惑ってもんでしょ」

「その前の資料づくりからして、大変でしたからね」

「まったくでございます。ああもう残念だな、大臣にフラフラ出歩くなとガッツーンと説教したかったなあ。大臣なんて飾りです! 偉い人にはそれが分からんのですか! なーんてね」

 小芝居する姿がウザイ。折角の静かな環境が台無しだ。

 大臣にガツンと言いたいなら、折角のチャンスのだから突撃して言えばいいのだ。突き放した思考をしながら、騒ぐ高田係長を見つめる。

「そういや、若い子らから聞きましたよ。いやはや、五条大先生がそこまで女にだらしない方だとは思いもしませんでしたな。いよっ、憎いよ色男」

 どうやら昨日のことが、もう知れ渡っているらしい。

 あいつらめ、と水田を筆頭とした後輩どもの顔を思い浮かべ心の中で罵る。なんて口の軽さだろうか。もしかすると今日の浮ついた雰囲気の一因はこれだったかもしれない。

「そんな噂が流れてますか、困ったな」

 亘は大人の対応っぽく、気にもしない様子で答えてみせた。もっとも、情けない困り顔が全てを台無しにしているのだが。


「ところでですけど、五条先生ってば今日の夜は時間空いとります?」

「定時退庁しないと総務課長に追い出されますよ。打合せなら早いとこすませましょう。今からで構いませんけど」

「ノーノーっ。仕事じゃなくってプライベート。五条先生ってば、社畜根性が染みついてますね。嫌ですなあ」

 もちろん亘だって、その程度は分かっていた。話の流れからプライベートと察して気付かないフリをしただけだ。なにせ高田係長に誘われても面倒なだけで嬉しくないのだから。

 はっきり断ることは苦手だが、精一杯に予防線を張っておく。

「それは哀しい。でも、飲み会のお誘いでしたら残念ながら……」

 しかし高田係長は大袈裟に手を振ってみせた。

「違いますって、飲み会違います。なんと合コンでございますよ」

「えっ」

 亘はマグカップを口に当て動きを止めた。カップの飲み口に歯をたて噛んでしまうほど戸惑っている。ゴクリと呑んだのは生唾だ。

「合コンって……あの合コンですか」

「いっえーす。いっつ合コン、男と女の出会いの場。実は一人ドタキャンで空きができたんですよ。私を助けると思って来て下さいよ。お願いしますよ、五条先生」

「合コン……」

 亘はぼうっとした顔で呟いた。

 大学時代に皆が行く様子を羨ましく眺め、就職してからもそれは同じ。誰も誘ってくれなかったし、当然ながら自分で開催するなんて天地がひっくり返っても不可能。そんな、これまで想像するしかなかった伝説の集まり。

 現金なことにウザイと思っていた高田係長が素晴らしい友人に思えてきた。いや友達になりたいとは思わないが。

「五条先生に彼女がいるって知ってますけど。折角、母ちゃんの目をかいくぐってセッティングした合コンなんです。お願いプリーズ、参加して頂戴な」

「合コン……」

「それに五条先生が女性関係で遣り手なら、丁度いいですよね。どうです! 新しい彼女を見つけに来ましょうよ、合コン。うわっ、熱っつ!」

 紅茶をこぼした高田係長は熱湯を浴びた手を振りだした。

 その間に亘は考え込む。今更合コンで出会いを求める気はないが、だがしかし。なんだかとっても胸がわくわくする。子供の頃、本屋に行けば何か凄い発見があるのではないかと期待した気分に近い。ちょっと顔を出すぐらいなら……。

「どうですか、行っちゃいましょうよ。合コンですよ、女の子いっぱいですよ」

 そんな二人の男を、棚の上から小さな姿が覗いていた。

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