第168話 家庭と健康を考えて
終業チャイムと同時に周囲で帰り支度が始まる。
周囲でパタパタとノートパソコンの蓋を閉じる音が響きだす。それは滅多に見られない光景だ。ご丁寧なことに普段は深夜に流れる蛍の光が館内放送されている。
真っ先に仕事を終了させた水田が心の底から嬉しげな顔をした。
「なんですかね。この曲を聴くと、超帰らなきゃって気になりますよね」
亘は最後の作業をしながら頷いた。あと少しでキリの良いところになる。
「条件反射というか、蛍の光を聞くとそうなるね」
「先輩知ってます? 実はこれ蛍の光じゃなくって、別れのワルツって曲なんですよ。僕って超物知りでしょ」
「へえっ、それは知らなかったな。でも同じに思えるんだけど」
「原曲が同じで、四拍子と三拍子の違いなんですよ。これ、今日のバーベキューで披露するネタなんで、今はまだ超内緒にしといて下さいよ」
「バーベキュー?」
およそ職場では耳にしたことがない単語に亘は思わず手を止め水田を見た。背負いの鞄を机に載せ、私物を詰め込みながら口元をにやつかせている。
「そうなんです。僕ら若手が集まってバーベッキュウッ! ってやつですよ。おビール様を頂いて、焼き肉をハフハフしちゃうんですよね。本当は土日にやる予定でしたけど、折角なんで今日にしたんですよ」
水田は入庁して数年になるが、相も変わらず明るく陽気だ。学生時代クラスに一人はいた人気者といった感じである。亘とは根本的に性格も思考も違う。こんな感じになりたかったと、何度思った事だろうか。
観察する眼差しなど気付かず、水田は手を叩いた。
「そうだ、先輩も良かったら特別ゲストで参加しません? 皆が超びっくりしますってば」
「はははっ、遠慮しとくよ。プライベートが忙しいんでね」
「そのプライベートって何するんですか」
誤魔化そうとした言葉に水田が突っ込んでくる。流石に異界で悪魔を倒すなどと言うことも出来ない。困っていると――タイミング良く総務課長がやって来た。
「本日は定時退庁です。家庭と健康を考えて帰りましょう。一階は全員帰りました、二階もあとはこの課だけです。さあ、帰りましょう。ほら帰った、帰った」
犬でも追い払うような手つきをされる。腹は立つが、そのおかげで会話を切り上げられたのだから、よしとしよう。
「おっと、帰らないとダメだな」
「そうですよね。じゃあ、おっ先でーす!」
水田は鞄を背負い元気に飛び出していった。バーベキューがよっぽど楽しみなのだろう。もう完全に学生のノリだ。
ようやく帰り支度に手をつけだした亘の元へ総務課長が近づく。
バインダーに挟んだ紙にチェックを入れるが、チラッと見えたそれは座席表だ。赤のボールペンで帰宅した者に斜線を入れているらしい。なんと念入りなことか。
「五条係長も、もちろん帰りますよね。帰ってから戻って来て、こそっと仕事するつもりなら無駄ですよ。玄関は完全に施錠しますからね」
普段の定時退庁日であれば、声かけだけで終わる。特別強化週間であっても、食事をしてから舞い戻り仕事をする。だが、どうやら今回はガチモードらしい。
もちろん亘はニッコリ笑って退庁した。
◆◆◆
帰り道に寄るのは安売りスーパーだ。
家族とも言うべき二体の従魔は大食らいで、料理を美味しく食べてくれることは嬉しいが、何かと食費がかかる。少しでも安いにこしたことはない。
だが、スーパーの買い物カゴを提げ亘は激しい後悔に襲われていた。
――なんてこったい。
普段は寄る時間帯ではないため知りもしなかった。
この定時帰りに寄るスーパーとは最高に混雑する時間帯であったのだ。殺気立った人々が野菜の僅かな大小に目を光らせ、タイムバーゲンの品が出されようものなら、どっと押し寄せ奪い合う。恐くて近寄れたものではない。
もっとも亘の後悔は別にある。
「先輩もここで買い物でしたか! 超奇遇ですね!」
別れたばかりの水田が目の前にいた。
考えてみればバーベキュウをやるのだから、その食材を買うぐらいはするだろう。しかも安売りスーパーで大量に買い込むであろうことは予想すべきだった。
亘は買い物カゴをさり気なく横にやった。内容を見られることは案外と気恥ずかしい。見られて拙くはないが、やはり生活の内情そのものなのだ。
「はははっ、なんだな。奇遇だな」
「これから夕食をつくるんですか、だったらどうです。やっぱ僕らと一緒にバーベッキュウッ! に行きませんか」
「別にそれは……」
「いいじゃないですか、行きましょうよ。超スペシャルゲストですよ」
水田は無邪気に誘っているのだろう。
しかし亘が参加したところでビールは飲めないし、楽しい会話もできやしない。そうなると炭火管理と肉焼き係に終始し、皆が楽しそうにする中で疎外感を耐えながら一人ぽつんとするのだ。
穏便に断る言葉を探していると、ドヤドヤと集団がやって来た。
「水っちゃん、ビールのケース確保したよ」
「っしゃあ、全部飲み尽くしたる」
「あっ、五条係長だ」
私服姿の若手連中であった。ショッピングカートの中が見えてしまうが肉肉肉肉野菜の比率で、一人がビールのケースを抱えている。食べる気飲む気満々だ。
そして彼らは亘に対し軽く会釈するが、それ以上話しかけては来ない。若手の女性もいるが、そちらは残酷にも視線さえ向けていなかった。
これまで当たり障り無く接してきたつもりだが、何か悪いことをしたのだろうか。あまりの人望の無さに、亘は自責の念を覚えてしまった。
「先輩も行きましょうよ。超楽しいですから」
「いや、遠慮しとくよ。これからアパートに戻って料理なんでね」
「えー、いいじゃないですか。どうせ料理するなら一緒に行きましょうって」
「悪いが……」
金色の風が吹く。
まさにそう思える様子で、長い金髪を揺らした少女が両手いっぱい商品を抱えながらやって来た。ご機嫌な歌を口ずさみ、スキップするような足取りだ。
幼さの残る顔は見事に整い、白い肌に紅い瞳が良く映える。ゴスロリとまではいかないが、可愛らしい黒のワンピースが素晴らしく似合っていた。その心の底から嬉しそうな笑みを見れば、誰だって心が温まるだろう。
ただし亘は別だ。顔を強張らせ冷や汗までかいてしまう。
――空気を読め、通り過ぎろ!
そんな心の声は届きもしない。
やって来たサキはぴょんと跳ねて立ち止まるなり、亘の提げていた買い物カゴへ大量のお揚げを投入した。さらには背伸びして中をまさぐると、ピーマンの袋を取り出し、憎々しげに睨んだ後に商品棚へと戻しに行く。
「先輩、今の超可愛い子って……」
聞こえないふりをする。
「バーベキューか羨ましいな。炭火焼きってのは実に美味しいよな。最後のシメはやっぱり焼きそばかな。ビールをかけて、ざっと焼いたらいいなあ。はははっ」
「あの先輩?」
「生焼けの肉は注意するようにな。肉を焼く箸と、食べる箸は別にする必要もある。そうそう、後片付けまでやってこそのバーベキューだから。はははっ」
無かったことにしようと、亘は懸命な笑いをあげ徐々に後退る。けれど、それは無駄な努力であった。戻ってきたサキが今度は大量の菓子を投入したのだ。
亘はその頭を鷲掴みにした。
「お揚げとスナック菓子ばっかり入れるんじゃない!」
キュウキュウとあがる悲鳴を無視し、ギリギリと力を込める。それは半ば八つ当たりだ。
「先輩?」
周囲から可哀想との声もあがっている。さらに先程まで遠巻きにするだけであった若手たちが詰め寄ってくるではないか。
「まさか噂の隠し子!?」「超可愛い」「人形みたい」「お義父さんと呼ばせて下さい!」「金髪ロリや」「遺伝子仕事してないよ」
褒めそやされたと思ったサキは満更でもない顔となり、ふふんと得意そうに腕組みして小威張りポーズをとる。それでまた可愛いとの声が上がった。
誤解ではあるが、こうなってはやむを得ない。このまま、この流れで行くしかないと亘は考えた。
しかし、そうはいかない。
「えっ、でも……この前に見た子と違うじゃないですか……」
水田のひと言で、周りが静まる。
思い出せば、そうだった。以前に別の少女とラーメン屋に行く途中に水田と出くわしたことがあったのだ。その時は説明するのが面倒で勘違いさせたまま放置しておいたが、それが裏目に出てしまったようだ。
内心の動揺を押し隠し、亘はこの窮地を逃れるべく必死に考えた。
もしどちらかを隠し子でないと否定すれば、もう片方の存在理由を明らかにさせねばならない。夜遅くに年頃の少女と歩く理由と、金髪幼女とお買い物する理由。どちらをメインに立てた方がマシか――その時に、天啓が閃いた。
勿体ぶった咳払いをする。
「……水田君ね、つまりあれだよ。ほら、子供ってのは何人でもつくれるんだよ。そういう事だ。分かったかね。はっはっはっ」
おおっ! と反応があがった。
「凄い、超凄い。先輩凄すぎですっ!」
水田をはじめとする後輩どもから尊敬の視線を浴びる。その場しのぎに後悔はあるが、同時にそこはかとない満足を覚えているのも事実だ。何にせよ自棄気味だ。
そして、女性たちの評価は最悪らしい。
女性同僚たちの軽蔑の眼差しはもとより、周囲で聞いていた主婦たちさえ冷ややかな目だ。女性特有の連帯感を持って共通の敵を睨み付けている。かなり恐い。
「じゃ、じゃあね。それとこの件は内緒に頼むよ。バーベキュー楽しんでね」
いたたまれなくなった亘はサキの手を引き、そそくさと立ち去る。
レジのおばちゃんから蔑みの視線を向けられ、もうこのスーパーは来られまいと残念に思うのだった。
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