第十三章
第167話 大掃除に大片付け
某省庁某局の地方事務所の会議室では、男性職員たちが額に汗していた。
会議用机の両端を持ち二人掛かりで運び出す。その後ろを折り畳み椅子を両手に下げた者が続く。バケツで雑巾を絞り窓や床を拭く者や、脚立に載って壁に張り付くテープ跡を丁寧に剥がし画鋲を取り除いている。
大掃除に大片付けだ。
「演台はひとまず横に運んで。違う違う、そっちじゃなくてこっちだ!」
「テステス、マイクテス。あーあー、聞こえてる?」
「おーい、誰か壁のパネル歪んでないか離れた場所から見てくんない」
「虫。虫が入ってる、外に出すか殺虫剤で始末しろ!」
「あの蛍光灯、切れてません?」
年代層はバラバラな男性職員たちは右に左にと動き回り大わらわだ。とはいえ、この職場でありがちな船頭多くして何とやら状態のため、少々混乱気味であった。
そんな中で黙々と動くのが、五条亘だった。
背広の上着を脱ぎ、ネクタイが邪魔にならぬようシャツの隙間に突っ込んでいる。埃に咳き込みながら掃き掃除をしたかと思えば、誰かの求めに応じて資材を運んだり、バケツの水を汲みに行ったりと動いていた。
ある程度片付いたところで、パリッとしたスーツ姿の総務課長がやって来た。
「急な話ですから仕方ないですね。ここの窓枠は、もう一回拭いておいて下さい」
小姑みたいに、ツツッと窓枠の桟に指を走らせ指示をする。さらに、いちいち文句を言った後に及第点と呟く。汗を流した者の冷めたい目線など気にもしてない。
「時間も無いので、まあこれぐらいのもんでしょう。それでは全員、身支度を調えて下さい。手は綺麗に洗って下さいよ」
男性職員たちは、無言のまま会議室を出て行くだけであった。
更衣室に行って身支度を調えるが、亘の隣で高田係長が皮肉な笑いを浮かべた。
「いやあ、なんですかね。あの総務課長のあの態度。上から目線で失礼だと思いませんかねえ。五条大先生だってそう思っちゃいません?」
見るともなしに見えてしまう高田係長のロッカー内は、グチャグチャと服やら紙袋が押し込められていた。ついでに雑巾臭や酸っぱいような臭いも漂ってくる。
それに比べると、亘のロッカーは綺麗なものだ。鞄と上着しか入っていない。
「仕方ないと思いですよ。上に立つ人が下から目線でしたら、変でしょうから」
「えーっ。また、そんなイイ子ちゃんぶっちゃって。ガツーンッと言ってやって下さいよ、俺にそんな口をきくたぁ自慢の刀が黙っちゃいねえぞ。ぶった斬ってやらぁ! とかどんなもんですか」
「それ言ったら脅迫ですね」
「大丈夫です、本当に斬ってしまえば脅迫じゃなくなりますから」
「そりゃそうですね」
亘は面倒そうに答えた。まともに取り合わず適当に流せばよい、と最近は思えているのだ。下手に気を遣って、嫌われまいと思うからいけない。相手によっては嫌われたっていいではないか、そんなことを思い出している。
自分のロッカーを閉じると、ボンヤリと立ち尽くす。
それは、動けないからだ。
ロッカーが大量に押し込まれた更衣室は非常に狭く、途中で誰かが着替えていると奥の者は出られやしない。こうして大勢で居ると、入り口に近い人が退くまで間抜けに立ち尽くすしかない。
ピンポンパンポンと尻上がりに放送が入る。
『全職員は会議室に集合。繰り返す、全職員は会議室に集合」
ピンポンパンポンと尻下がりに放送が終わる。
同時に入り口付近の着替えも終了し、ゾロゾロと動き出した。
「よっしやぁ、行きましょか。ほら、五条先生も早く早く。遅れてしまうと、こらーって怒られてしまいますよ」
「そうですか、急ぎますかね」
亘はこっそり、ため息をついて更衣室を出た。
◆◆◆
会議室の中が人で満たされていく。
地方事務所とはいえ、そこに配属された職員は五十人は越える。
隅っこで待機する亘の目の前を同僚たちが次々と通り過ぎていく。目のあった者の中の数人が軽く会釈してくるが、誰も話しかけてはこない。
課長やそれに準じる役職の者たちは、数人ずつまとまり話しだした。仕事の話もだが、年代が年代だけに定年後の情報交換などが話題だ。あとは、意外に農作業も人気のようで野菜の出来などを自慢しあっていたりもする。
突然、きゃっきゃと明るい笑い声が響いた。
若手職員の集団だ。男女で仲良く集まり、お調子者を演じる者にケタケタと笑っている。その中心にいるのが後輩の水田だ。そこに乱入した高田係長と二人して戯けた仕草をしながら皆を笑わせている。
ぽつんと部屋の隅に立つ亘には絶対真似出来ないことだ。
「はい! 皆さん注目。いいですか、きちんと列をつくって並んで。横に六列、横に六列! 等間隔でお願いしますよ」
バンバンッと手が叩くのが総務課長だ。バインダーに挟んだ紙を見ながら、一本ずつラインを引くように手を動かしている。まとまりのない動きで列がつくられだすと、いきなり手を挙げて左右に振りだした。
「すいません! その前に並び方を指示するのを忘れてました」
「マイク使ったらどう?」
「そうですね。マイクテス、あっあっ。よろしいですか、最前列に幹部職員。次に女性職員。それから男性職員ですが、若い人を前に」
「見栄えの良いやつが前か、あはははっ」
誰かの茶々に会議室に笑いが沸いた。
なんだか和気藹々とした職場のようだ。一番後ろの隅っこから眺める亘からすると、そこはかとなく面白くない。ふと見れば、周りにいるのは自分と同じような――つまりは独身中年――ばかりが集まっていた。いずれも、むせっとして協調性のない顔であり自分も同じなのだろう。なんだか、凄くやるせない。
「はいそこっ! 五条係長もしっかり並ぶ!」
「あ、すいません」
「真っ直ぐ、真っ直ぐ。ちょい前の右で、オーライオーライ。そこ、よしそこっ」
総務課長は列を真っ直ぐにさせようとチェックしているのだ。
なんとも細かいことに、バインダーを目視の定規に使ってまで、縦方向横方向の列が揃っているかを確認している。こうまで神経質なことをするのも無理なからぬことで、何故かと言えば――。
「大臣の車が到着されました」
会議室に飛び込んだ総務係長が声を張り上げた。
大臣来訪。
僅か数日前に突如連絡があったもので、それから事務所中が大騒ぎであった。
視察して貰うのに相応しい場所を話し合い、それが決まれば移動ルートや昼食場所の選定。実際に車を走らせ下見を行い、予定通りになるか時間計測。そんなことを限られた時間の中で行わねばならず大わらわだった。
亘も大臣が視察する以外の場所を念のためとかで点検に行かされ、さらに事前説明資料や当日用資料作りなど余計な仕事を振り分けられた。おかげで、普段の業務がストップしたぐらいだ。
「大臣のご入室です。一同、気を付け!」
総務課長の号令で全員が背筋を伸ばした。こんなことするのは入庁式以来だと考えながら、亘もそれに倣う。
前方でドアの開く音がした。
どやどやと足音をさせ何人もが入室して来るが、最後尾からは見えやしない。十人かそこらはいるだろうが、その中には玄関先まで迎えに出た事務所長も含まれているはずだ。
大臣の姿を見たい気もするが……しかし前の方で身体を揺らし、ひと目見ようと列を乱す姿に気付き大人しくする。そんなミーハーなことはしたくないし、どうせ見たところで何の足しにもならない。
マイクがゴトゴトと音を拾い、事務所長の声が流れた。
「皆さん、雲重大臣がお見えになられました。こうして、この事務所に大臣をお迎えすることが出来たことは、誠に光栄なことであり我々職員一同としましては――」
少々緊張気味の声ではあるが、はきはきと歓迎の言葉を述べている。
キャリアである事務所長と年齢は十も離れていない。だが、果たして自分が同じ年齢になって同じことができるだろうか。きっと無理だろう。
そんなことを考えていると、事務所長の話が終わった。
「――それでは、雲重大臣よりお言葉を賜わりたいと思います」
「一同、傾聴!」
「あー、大臣の雲重になります。そうも畏まらず楽に聞いて頂ければと。えー、日頃は行政の推進にご尽力頂き、まことにありがとう御座います。皆さん職員の方々が身を粉にして働かれているからこそ、行政という組織が成り立っているわけでありまして、私としましても感謝しておる所存であります――」
偉い人の話は長い。
それを証明するような語りが始まった。
迎合するように頷くのは前方に並ぶ幹部職員たちぐらいで、他の者はぼーっとしながら聞き流すだけだ。これなら後ろで良かったと、亘は天井を眺めた。
そして、今夜をどう過ごすかを考えだす。
大臣来訪で唯一良かった点は、その期間中が定時退庁になったことだけだ。
総務課長曰く『定時になったらブレーカーを落とす勢いで電気を消す』だそうだ。それは、生活と仕事のバランスが取れている、と大臣にアピールするためらしい。下らない理由でも、早く帰れるにはありがたいことである。
もっとも、後でその分だけ揺り返しで忙しくなるだけなのだが。
――夕飯の買い物に行って料理して、異界に行ったら風呂に入って寝るか。
亘は雲重大臣のありがたいお話しを聞き流しながら、とりとめもなく退庁後の流れを考える。
当たり前の生活に含めるにはおかしい、『異界』といった言葉が混ざるのが亘らしいところだ。なにせそれは、悪魔の出没する特殊な世界を指す言葉なのだから。
それを当然として考えてしまうほど、それが生活の一部となっていた。
「一同、気を付け! 礼!」
鋭い声に亘はビクッとなり、周囲に合わせ頭を下げた。
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