記念SS第7話 蜜柑を一房
職場の仕事とパソコンは切っても切れない関係だ。
マウスとキーボードを操作しながら画面を睨む。横には飲みかけのペットボトルが置かれ、書類束が幾つも重ねてある。全体的には片付いているが、机上に張られたメモや付箋、ボールペンやクリップ類が散るため雑然として見えた。
使った都度片付ければ良いのだろうが、亘にはある程度散らかるまで片付けない癖があった。心の中の、お片付けゲージが溜まると綺麗さっぱり片付け、また徐々に散らかすを繰り返すのだ。
卓上の内線電話が鳴った。
「はい、五条です……あ、どうも。お久しぶりです。ええ、構いませんよ……五年前の件ですか、それは確か当時の――」
最初は暗く固い声となるのは、やはり警戒心からだろう。相手が誰か分かり、さらに軽い用件だと分かり明るめの声となった。
「ふうっ」
満足げな息をつく。やはり誰かに頼られ手助けをすることは、たとえ大したことなくとも、心の充足となるのだろう。
視界の端にほっそりした姿を捉えた。
近づいてくる姿を緊張と心待ちをない交ぜにしながら待ち構える。
「五条係長よろしいですか」
内心では、きたきたと喜びつつ顔と声は平静さを装う。
「はいどうぞ」
「毎週の印鑑ですけど、お願いしてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ」
入省して数年の女性職員から書類を受け取る。
パラパラと中を確認してみせるが、実際の所は確認するまでもない内容だ。経験の浅い者に任せる時点で分かるように、大した内容ではないのだ。
それでも確認するのは仕事としての姿勢でもあるし、何より一番の理由は相手が若い女性だからだった。ちょっとぐらい仕事をしている男の雰囲気ぐらい見せたいではないか。
直ぐ横に立つ相手は押印を今かと待ち、視線を亘の手元に注いでいる。恐らくこんなに期待され注目されるのは、この時ばかりだ。
確認の印を数カ所に押す。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
手が触れたりしないよう注意しつつ書類を渡す。女性を直視できないので、スラッとしたロングのスカートぐらいしか目に入らない。
間近に女の子が来る、この時が亘の密かな楽しみであった。
ご機嫌で印鑑を引き出しに戻していると、彼女は立ち去らず隣の席の水田に近づく。立ち止まると、ちょうど亘のすぐ間近にお尻がある状況だ。失礼にならぬよう席を外すべきか真剣に悩んでしまう。
「水田くん、日曜に洗濯機直してくれたお礼なんだけど。明日とか、ご飯どうかな?」
甘えるような声だ。亘に対する好感度が最小値なら、水田に対しては最大値といった感じだろう。実に露骨ではないか。
「別にいいってば。配管を繋ぎ直しただけの、超簡単なもんだから」
「ええっ、そんなことないから。凄い助かっちゃったから」
「お茶をご馳走になったじゃん。それで超充分ってもんだね」
「えー、そんなんじゃお礼にならないよー」
媚びたような声と笑い声に、亘は無言で席を外すことにした。トイレに行って用もないのに他の階を一回りする。
ちょっとムカつく。
でも、脳裏に一人の少女が思い浮かべ気持ちを宥める。最近知り合った凄く可愛い子で、普通に話せる貴重な相手だ。近々レベル上げのため一緒に異界に行く約束をしている。
余計な下心が皆無とは言わないが、仲良くなりたいと思うぐらい誰にも責められやしないだろう。良いところを見せられるよう頑張らねばなるまい。
職場に調子の良い声が響く。
「はいはい、蜜柑の配給、蜜柑の配給だよ。お一人様二つでござる」
段ボールの小箱を抱えた男が各机を回りながら、言葉通り蜜柑を配っていく。
それを貰いに行く者もいれば、席で待つ者もいる――亘は後者。自分から貰いに行くのも浅ましく、かてて加えて貰いに行って貰えないと恥ずかしいとか余計なことを考えてしまうのだ。
そして水田は前者。
「蜜柑売りのおじさん、僕にも二つ下さい」
「はいはい、蜜柑の配給ですよ。水田くんは蜜柑好きかな」
「超好物です」
「よろしい。素直な子はおじさん好きだよ。君には特別に三つあげよう」
そんな感じで明るくやっているわけで、亘はそっと下原課長の様子を窺った。きっと職場で巫山戯るなと怒るに違いない。
だが美味しそうに蜜柑を食べている。なんだか、酷い態度の違いだ。
「よっしゃぁ! 蜜柑三つゲット! こんなに超沢山どうしたんです」
「嫁の実家から大量に送られて来たんだよ。皆に食べて貰わないと腐ってしまうのでござる。今日の朝は蜜柑の箱を担いで出勤して大変」
「あっ、それ僕見ましたよ。どこの行商やねんって姿で、超怪しかったです」
「この蜜柑を全て売らねば家に帰れやしない。今日の私は蜜柑売りの少女なのよ。うふっ」
「だーれが少女ですか」
楽しそうで羨ましい。
あんな風に会話をしてみたいが、しかし、職場の中で亘のキャラは確定してしまっている。今更、明るく話しかけたとして、驚かれて引かれるだけだ。
だが数日前のことを思い出す。
あのチャラ夫という少年とは、楽しく冗談めいたことが話せたのだ。やってやれないことはない。今からでも、少しずつ明るいキャラを演じていけばよい。
そんな亘の机に蜜柑が二つ置かれた。
「さあさあ、五条係長もお食べくだされ」
「ありがとうございます。やあ良い香りで美味そうでござる」
でも、話しかけた相手は既に移動していた。誰にも気付いて貰えない。
亘は小ぶりな蜜柑を見つめた。
それこそ本当の蜜柑色をした綺麗で美しい果物だ。剥いてみると薄皮で細かに千切れてしまう。けれど、粒自体は驚くほど甘い。しかも自然の爽やかな甘みだ。かなり上等な蜜柑だろう。
美味い。
けれど心の底から美味いと思えない気分であった。
◆◆◆
亘が帰宅したのは二十時を回ったころだ。
以前より帰りは早くなったが、それでも業務上の支障は無い。むしろ目標時間を決め、きっちり仕上げるようになって効率があがったぐらいだ。
意識を変えてみれば物の見方も変わる。たとえば同僚たちの仕事振りだが、無駄が多いようにも見えてきた。本気で忙しいのは数割で残りはそれに合わせダラダラと……だが、そんなこと言えやしない。
そして早く帰る亘が皆から浮いていることや、ちょくちょくと陰口を叩かれだしていることも気付いていた。しかし、以前のように遅くまで残業する気はない。
そんなことより、今は触れあいたい相手がいる。
「ほれ、蜜柑だ。貰い物だが、甘くて美味しかったぞ」
「うわーい、ありがとね。マスター」
神楽は蜜柑を掲げ大喜びだ。白い小袖に緋色のスカート姿で卓上を右に左にはしゃいで走り回る。元気なものだ。大切な相手を置いてまで仕事をするなど、本末転倒ではなかろうか。
「嫁の実家からでーす、とか言ってみたいよな」
「何か言った?」
「いや何でも無い。気にしないでくれ」
「ふーん。いいけどさ。それよかさ、何かするんじゃなかったの?」
「そうだったな。準備するから、その間に蜜柑を食べておいてくれ」
「はーい!」
元気良い返事を聞きながら、亘は立ち上がった。
卓上に新聞紙を広げ皿やすり鉢を用意する。そして赤い果実のような代物を慎重な手つきで並べた。
神楽は蜜柑を一房ずつ咥えながら眺めている。
「それどーすんのさ。食べるの?」
「ふむ。舐めてみるか」
「いいの、ボク味見してみる!」
何も知らない神楽は亘の手についた汁に舌を這わし――喉を押さえ倒れ込んだ。
「ケホッ! カハッ!」
予想以上の反応に亘は大慌てだ。もうちょっと、辛いと騒ぐ程度に思っていた。
「しっかりしろ! 神楽、しっかりするんだ! 蜜柑だ、蜜柑を食べろ」
「うっ、ケホッ……ケホッ……ううっ、なにさこれ……」
「ハバネロってやつなんだが。今度、異界行く時に使おうかと思ってな」
「ううっ、ボクもうダメ」
神楽はぐったりしながら蜜柑で舌を癒やしている。悪いことをしたと反省する亘は大人しくハバネロを刻みだした。みるみる、まな板が赤く染まっていく。
「手がヒリヒリしてきた。というか、このまな板大丈夫か? 辛さが染みついてそうだな。買い直さないとマズいかも」
刻んだそれを皿に載せ、電子レンジで加熱し水分を飛ばす。チーンと鳴り扉を開けた途端、蒸気を浴びてしまう。それはカプサイシン交じりだ。
今度は亘が顔を押さえ倒れ込む番である。
「ぐはっ、がはっ! 目が、目がぁ」
「マスタァッ! しっかり! ほらさお水だよ、お水!」
「す、すまん」
神楽が水道を全開にしてくれる。流し台に縋り付きながら立ち上がり、手ですくって飲――自分の手が赤く汚染されている事実に気付く。やむなく頭からつっこんで水を浴びた。
「くそっ、ミスった」
流しの台にもたれかかり、ズルズルと座り込むと苦しい息をつく。すかさず神楽が持って来てくれたタオルを顔や髪に押し当てる。
「ねえ、もうこんなこと止めたらどうなのさ? 危険だとボク思うよ」
「そうだな……」
神楽の言葉はもっともだ。
けれど、今度の異界は一人で行くのではない。チャラ夫と七海も一緒だ。その二人に少しでもDPを稼がせてやらねばならない。頼られたなら、全力で応え鍛えてやるしかないではないか。
「いや、これはやらないといけないんだ」
「でもさ」
「というか、買った以上は使わないと。それとも、これを食べる気があるか?」
「ムリ、それさボクにはムリだよ」
「だったら、やるしかないだろ」
それから押し入れを探しゴーグルを取り出す。花粉避けに買い、結局使う必要がなかったものだ。さらにマスクもする。最初からこうすべきだったに違いない。
赤い危険物をすり鉢に入れ、ゴリゴリと削っていく。
「神楽は別の部屋に行った方がいいと思うが」
「いいよ。ボク、マスターと一緒に頑張……クシュンッ! クヒンッ!」
「おいムリせず、あっちに行ってろよ」
「大丈夫だもん!」
頑固に言い張る神楽だが、ボロボロと涙を零し鼻水まで出ている。酷い有り様ながら亘の傍を離れようとはしない。それが嬉しい。
「分かったよ。ほら、ビニール袋を取ってくれ。あと、あっちの白砂も」
「了解だよ」
「気を付けろよ。手で顔とか触るなよ」
四苦八苦しながらハバネロ粉と細砂の袋詰めをしていく。赤と白が混じった粉が出来ると、神楽と一緒に満足そうに眺める。気付けば手が赤く染まっていた。
「これは、ウェットティッシュが必要そうだな」
「ねえ、マスター。あっちの箱のは何さ」
「あれか……つい買ってしまったものだが。いかんな通販とかだと、その場のノリで購入できてしまうからな」
「で、なにさ。食べ物!?」
「まーた、すぐ何でも食べ物に結びつけるやつだな。食べ物系ではあるが食べられないと言うか……まあ、一応武器? みたいなもんだ」
「ふーん」
神楽は小首を捻りながら段ボールの小箱を眺める。ガムテープで厳重に梱包された中に、禍々しい銀色の缶詰があることをまだ何も知らない。
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