記念SS第4話 妖精さん
「はあ……疲れた……」
すっかり日の落ちた時刻、首都にある官庁街を背広姿の亘が歩いていた。
「今日は散々な目にあったな。これだから出張は嫌いなんだ」
ゲッソリしながら呟く。
午前に開始される会議に出席するため、日の出前にアパートを出発し電車と新幹線と乗り継ぎ遙々やって来た本省庁。しかし予定時刻になっても会議は始まらず、ひたすら廊下の片隅で待機し呼ばれるのを待ち続けた。
本省庁と言えば地方事務所から出向して戻ってくると人格も変わると噂されるほどの激務の巣窟。廊下からそっと伺った様子から、その噂が真実だとまざまざと思い知らされた。
それは兎も角、会議が始まったのは予定時刻から驚きの八時間後。しかし亘の出番ときたら、持って来た資料を配っただけ。発言の機会すら与えられないまま、隅っこで傍聴したまま終わったのだ。
――果たして来る必要があったのだろうか。
考えてはいけない疑問が胸をつく。
なんにせよ、こうして一日が潰れてしまった。いや、一日ではない。帰る事ができない時刻になってしまい、どこかのホテルに泊まらねばならないのだ。よって二日が潰れることになる。
「ふうっ」
夜なのに薄ぼんやりと明るい空を見上げ、その原因の一つである背後を振り向いた。今しがた出てきたばかりの建物は煌々とした光を放っている。この時刻から次の会議が始まるそうで、なんと言うか狂っている。
だがまあ、そんなことより気がかりは自分のことである。
「宿泊費出るかな……」
会議開始を待つ間に連絡をとった、総務担当の言葉を思い出す。
宿泊の可能性を伝えると、事前申請がないとムリだとか予算が厳しいとか、どうにも芳しくない。最後には、ご親切にも翌日は休暇扱いにすると言いだす始末であった。有給休暇の消化率をちょっとでも上げようという魂胆らしい。
しかし出張先から休暇となれば、私事旅行扱いとされてしまう。そうなれば宿泊費と交通費は自腹ということだ。
「これだから出張は嫌いなんだよ」
もう一度呟く。
職場への土産だって買わねばならないし、生活費の範疇にある食事だって別個に必要となる。留守中にも仕事は溜まるし、なにより豆腐が危ない。
そう豆腐だ。
今夜は賞味期限が切れた豆腐の消費拡大で麻婆豆腐にするつもりだったのだ。明日の夕食にするとしても、献立の再検討は必須である。
「というか、泊まる場所どうしよ」
一番の問題はそれであった。
◆◆◆
亘は慎重に左右へ目を配りながら進んでいく。幾つも並んだドアには洒落た数字のプレートが飾られたものだ。そこから自分に割り当てられた番号を探す。
ビジネスホテルだが、ここを見つけるにも苦労した。
大都会にホテルは沢山あるのだが、いざ探すとなるとありすぎて手頃な場所が見つからないのだ。悩んだ末に最終手段として交番に飛び込んだ。
最初は不審な顔の警察官であったが、事情を話すと納得顔で笑われてしまった。どうやら、良くあることらしい。そして紹介されたのが、このホテルであった。
「よし、ここか」
指定の部屋を見つけカードキーをかざす。電子音と共に解錠され、ドアを開けた。入ってすぐのスリットにカードを差し込むと、室内灯が点灯し背後で静かな音でドアが閉まった。
まず鼻をつくのは、染みついた煙草の臭いだ。顔をしかめ立ち竦んでいると、上着のポケットから小さな顔がぴょっこり現れる。
「なんかさ、変な臭いだね」
右に左に頭を振り、くんくんと鼻を鳴らす。それから仰け反るように見上げてくるのだが不満そうな顔だ。
「仕方ないだろ。喫煙ルームしか空いてなかったんだ」
「そだけどさ。なんか落ち着かないもん」
「我慢しろよ。どうせ一泊するだけなんだから」
「むうっ、なんか触ったら手が変な感じ」
神楽はポケットを飛び出し――それこそ文字通り飛んで――あちこち触りながら文句を言っている。身近に喫煙者がいないのだから、そんな反応だろう。
ネクタイを緩め、上着を干すべくクローゼットからハンガーを取り出す。
「あっ、それボクやるからさ!」
気付いた神楽が飛んでくる。
それで上着を任せ、亘はネクタイを外すとベッドに倒れ込んだ。アパートの布団ではできない芸当だ。少し固めのスプリングがギシギシ揺れる。
神楽が言ったように、シーツは表面に薄いパウダーでもまぶしたように上滑りする。そして壁も天井も全てが薄く黄色がかって汚れている気もした。
「まあいいや、早く寝てしまおう」
シャワーだけ浴び、煙草臭がする布団へと潜り込む。
神楽がいつも以上に引っ付いてくるのは、やはり臭いが慣れないからに違いない。もちろん亘も同じ気分であった。
◆◆◆
翌日、さっさとホテルをチェックアウトしたのは当然のことだろう。
外で新鮮な空気を吸い身体の表面を叩いていく。その程度では染みついた臭いは取れないが、気分の問題だ。最後に両手で頬を叩く。
「よし、気分を切り替えよう」
幸いなことに快晴だ。
強制的とはいえ、せっかくの休暇。観光ぐらいしたところでバチは当たるまい。というよりも、どうせ旅費が出ないのなら旅行に来たと思わねばやってられやしないのだ。
「では行くか」
嬉しそうに笑い、目的地に考える場所へ向け歩きだした。しかし、途中で気付いてATMの場所を探す。なにせ日帰りの予定だったため、財布の中身はたかが知れていたのだから。
「なにさあれ! すっごい綺麗だよっ!」
目的地の博物館の一室で驚きと感心の声があがった。確かに、目の前にはそれに相応しい貴重な工芸品が展示されている。
亘は懐から響いた声にビクビクしながら周囲を見回す。
誰かに聞かれやしなかったかと心配するが、一番近くにいる人も熱心に展示物を見学しており気付いた様子もなかった。
ホッとしたところで、改めて展示物に目を向ける。そこには光を浴び輝く蒔絵螺鈿の手箱がある。角度を変える度に色合いが微妙に変化する綺麗なものだ。
しばらく眺め亘は次に移動する。
「まだダメ。もちょっと見るの」
「へいへい」
小さく息をつく。
もう少し、もう少しとせがまれ動けやしない。相当気に入っているようだ。
――仕方ないか。
亘は優しい笑みを浮かべた。
ここに来た理由は神楽のためなのだ。
この世界に誕生して――スマホから登場して――間もない神楽へと、少しでも珍しいものや素晴らしいものを見せてやりたかったわけで、そのために一番ふさわしいと思ったのが国立博物館なのだ。
その目論見は大成功といったところだろう。
神楽は見たこともない品や、珍しい物に大はしゃぎであった。博物館に案内するなんて、爺むさいか心配だったが大正解のようだ。いつか女の子とデートする機会があったら、博物館や美術館も良いかもしれない。
起こりえそうにない未来を想像しつつ気を紛らわせていた。
子供の声が響いた。
「妖精さんがいるっ!」
「ん?」
そんな声に視線を向ければ、傍らの足下に目をまん丸にした小さな男の子の姿があった。幼稚園児ぐらいだが、亘を――正しくはその懐を見ている。
つられて下を見れば、なんと神楽がポケットから大きく身を乗り出しているではないか。自分が気付かれたとも気にもせず、頬に手をやりウットリ螺鈿工芸品に見入っている。
「あっ、やばい」
「むぎゅうっ」
亘は神楽を素早くポケットの中に押し込み、足早に立ち去ることにした。
背後で妖精の存在を主張する子供と、それを窘める親の声が聞こえてくる。ややあって泣き声が響いた。嘘じゃない、と必死で訴える声が可哀想だ。なにせ嘘ではないのだから。
その妖精さんは、人のいない休憩室に来るなり不機嫌な顔で文句の声をあげた。
「なにすんのさ。ボクせっかく見てたのに酷いや」
「仕方ないだろう。というより、見つかってただろ」
「ちょっとぐらい、いいじゃないのさ」
ぶんぶん手を振り回す勢いはいつもより激しい。
女の子なのでキラキラした物が好きかもしれないが、別の理由も思い浮かぶ。たとえばカラスは光り物が好きだ。
「ねえ、戻ろ。今のもっと見たいんだもん!」
「また今度来たときにな」
「やだやだ、今見たいんだもん!」
駄々を捏ね続ける神楽を宥めるには苦労した。お菓子を用意する約束をして、必死にご機嫌をとったぐらいだ。
博物館の中を一巡りした後、屋外へと出る。
くつろげる場所に移動するが、目立たぬ別施設の前に水鏡が張られた場所だ。メインから離れた場所で人は来ず、来たとしてもすぐ分かる。
ベンチに座った亘が余韻に浸れば、神楽は細い柵の上を両手を広げバランスを取りながら歩いてみせた。
「ところでさ、なんでここ来たの?」
「そりゃもちろん……」
言いかけて亘は口ごもる。神楽のために来たわけだが、そんなこと恥ずかしく言えやしない。だから適当に誤魔化しておく。
「凄いものがいっぱいあるだろ」
「そだね。ボクさなんて言うかさ、迫力とか存在感っていうの? なんか圧倒されちゃったもん」
肩書き抜きにして、素直に感じられたなら素晴らしいことだ。
「あの綺麗な箱さ、ボクまた見たいな」
「そうだな。休暇が取れたらな」
「きっとだよ」
ふわりと飛んできた神楽は亘の肩に腰掛けた。投げ出した足を揺らし、すっかりご機嫌だ。
――旅費とか、もうどうでもいいや。
出費は出費だが、そんなことより神楽が喜んでくれたなら何よりだ。それは何ものにも変えがたい素晴らしいことで、この時この瞬間を与えてくれた出張に感謝せねばなるまい。
亘は穏やかに水鏡を眺め、新たな課題を考え込んだ。
それは職場へのお土産だ。行き先を強く主張するだけの品は趣味じゃないし、大人らしいセンス良い品を選ぶ必要がある。それも出来るだけ安くだ。
あれこれ考える亘に腰掛け、神楽は満足げに伸びをしていた。
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