記念SS第2話 甘えきってはいけない
「ふぃー、いい湯だった」
アパートの狭い風呂を出た亘は居間に戻った。上下ともガーゼ生地のパジャマ兼用のルームウェアだ。水気は拭き取っているが、すぐまた水のような汗が滲み出てくる。額を腕で拭いながら窓を開け換気をする。
外から流れ込む、ひんやりした夜気が心地よい。
窓際に立ったまま汗が引くまで待つ。排気ガスと煙草、飲食店の油に混ざった草木の臭いと空気は都会近郊の街らしいものだ。人も車も多く、店があって自然が少しある。
徐々に汗が引いていき、窓はそのまま開けてレースと遮光のカーテンを引く。
「ふう……で、いつまで食べてる気だ」
誰の姿もない室内に言い放った。
ただ、コタツ上にあるスナック菓子の袋が独りでにガサゴソと動いている。小動物が入り込み盗み食いしているような様子だ。
声に反応し、ビクッと大きく動いておとなしくなる。そして、袋の中から少女が這い出てきた。赤い縫い刺しラインの入った白い小袖、お腹の前の大きなリボン。そして緋色のスカート。そんな巫女を連想させるような姿の神楽だ。スナック菓子の袋に潜り込んでいたように、小さな姿をしている。
外ハネした短い髪に菓子の欠片が載っているのは、ご愛敬というものか。
亘は軽く苦笑した。
「スナック菓子ばっかり食べるなよ」
不機嫌そうな言葉だが、そこには呆れの方が強く込められている。
「大丈夫だよ。ちゃんと、お夕飯だって食べたじゃないのさ」
「そういう意味じゃない。つまり菓子の食べ過ぎ、あとはジュースもだ。そういうのを、少しは控えろってことが言いたいんだ」
「いいじゃないのさ。だって美味しいんだもん」
亘の言葉に対し神楽はシレッとして答える。ついでに頭の上にあった欠片に気付くと、それを嬉しそうに口の中に放り込み食べてしまう。
「まったく、悪魔のくせになんてやつだ」
ぶつくさと亘が言うように、小さな姿の神楽は悪魔だ。すっかり菓子とジュースにハマっているが、とにかく食べる。夕飯だって、成人男性の亘と同量を軽々平らげてしまうぐらいなのだから。
「このディスポーザーめ」
「なにさ、それ」
「さあな」
亘がふふんと笑うと、菓子を食べていた神楽がむっとする。言葉の意味は分からずとも、そこに含まれた感情は分かるのだ。つぶらな瞳を半眼にして不満顔だ。
「いいもん。自分で調べるからさ」
机の上を歩いてスマホに近寄っていく。
画面に手を突っ込み目を閉じると、そのまま首を捻ってみせたり上を向いたり下を向いたりと、まるで中を手で探っている様子だ。
「ディスポーザー……えっと、なにさこれ! マスターってば失礼だよ!」
ふいに手を引き抜くと、目を怒らせ亘を睨み頬を膨らませる。どうやら――どうやってかは不明だが――ネットで検索をしていたらしい。意味を知って怒り模様だ。
亘は横を向き、ため息をついた。
ディスポーザーは確かに言いすぎだが、何でも食べてしまうのは事実だ。おかげで食費がかさむ一方だ。せめて菓子とかジュースだけでも、なんとかせねばいけない。
抗議を続ける神楽を、亘は片手であしらい呟いた。
「何か考えないとな」
◆◆◆
降りだした雨に追われるように、アパートの玄関先に辿り着く。
「少し濡れたか」
背広の肩などを払って水滴を落とす。
夕方ごろから雲行きの悪さを感じてはいたが、帰るまでは持つだろうと思っていた。職場を出る時点で、前兆を予感させる雨の臭いがあった。きっと、途中で寄り道しなければ間に合っただろう。
玄関扉前でポケットから鍵を取り出そうとして手間取る。いつもなら簡単なことだが、今は白ビニールのレジ袋が邪魔をしていた。重たい品が入り、それは持ち手を引っかけた手首が赤くなっているぐらいだ。
ようやく解錠し扉を開けた。部屋に入り後ろ手に扉を閉めつつ、バタンッとなるタイミングに合わせ施錠する。
それを合図に懐の中から神楽が飛びだす。
「お帰りー!」
一緒に行動しておいて、それはおかしな言葉かもしれないが、こうして挨拶することが習慣となっている。
亘は口元を綻ばせた。荷物を床に置けば、ガラスがぶつかる硬質な音が響く。
「ただいま」
「雨みたいだけどさ、大丈夫だった? ありゃりゃ濡れちゃってるじゃないのさ。待っててね!」
中に素っ飛んでいった神楽はタオルを持って戻ってきた。そのまま亘の頭や肩を拭いてやりながら、白いレジ袋の様子を気にする。
「お菓子じゃなさそだね。ちょっと残念かも」
「でもないぞ。お菓子の材料にもなるからな」
「ほんと! やったね。あぁっと、足の方も濡れてら」
「いいよ足回りは自分でやるから」
亘はタオルを貰い受けた。思ったより雨に濡れていたらしい。タオルはじっとり湿っている。そのままズボンの腿や脛あたりを拭いていく。
誰かに世話されることは心地よい。だからこそ、完全に甘えきってはいけない。
そう考えるのは、ケジメとか立派なものではない。油断すれば、そのまま自分が楽な方へと流されてしまうことを、よく理解しているだけだ。
「なんだかよく分かんないや。この瓶は何が入ってんのさ」
残念そうな声があがった。
亘が真摯に自分を律していると、白いレジ袋に入り込んだ神楽が中身を確認している。そして奥の方を見ようとして、ガラス瓶を倒してしまう。狭い場所で避けることもできず、下敷きになってしまった。
「助けてぇ」
「何をやってるんだか」
ジタバタと暴れ緋色のスカートがめくれている。白い下着が丸見えだ。亘は足下を拭きながら、しばし目の保養を楽しんだ。
夕食後のひと時。
いつもならジュースが出されるところに、自分を潰しかけた瓶を出され、神楽は不審な顔をした。瓶を叩いてみたり、周りを眺めたりと調べている。
「なにさこれ」
「中身は蜂蜜だ」
「ふーん、そうなんだ。そんでさ、これどーすんのさ」
「こうする」
亘はカップに蜂蜜を入れると、お湯で少し溶いて水を入れた。そこに絞ったばかりのレモン果汁を入れ、簡単な飲み物の完成だ。これならジュースをガブガブ飲むよりは身体にも財布にも良かろうとの考えだった。
悪魔の神楽が健康云々を考える必要があるかは分からないが、少なくとも付き合って飲む人間には絶対良いはずだ。間違いない。
亘は自分の分を作りだした。
けれど神楽は不審顔で手をつけようとしない。先程、レモン果汁をひと舐めして全身を震わせた経験からか、それが入った飲み物を警戒しているようだ。
「おいおい、飲んでみろよ。目分量だけど、美味しいはずだ」
「そなの、うーん」
「レモンの酸っぱさが、蜂蜜の甘さと合わさるとすっきりした飲み心地になる」
「蜂蜜ってさ、甘いんだっけ」
「そうだ。ほら、舐めてみるか」
亘は使い終わったティースプーンを突きだした。表面は薄らと蜂蜜でコーティングされた状態で、本当は自分で舐めて綺麗にするつもりだった。
ふんふんと嗅いだ神楽は恐る恐る小さな舌を出し、可愛らしく舐める。
「なにこれ美味しいっ!」
両頬を押さえて陶然とした顔になるまでは良かった。
次の瞬間、バクッと大口を開けてスプーンごと頬ばってしまう。金属まで食べそうな勢いだ。胴体を掴みスプーンを引っ張るが、簡単には抜けやしない。
スプーンは苦労の末に救出された。
「ねえ、蜂蜜もっと頂戴!」
「ダメだ」
「えーっ! マスターのケチ」
「ケチじゃないし、とにかくダメったらダメだ」
しかし甘みに魅入られた神楽は諦めやしない。蓋が開いたままだった瓶へと近づくと、うっとり顔で覗き込む。涎を垂らしそうな様子に亘はシッシッと手で追い払う。
「おいこらダメだろ。食べるな、離れなさい」
「いいもん、食べてないもん、見てるだけだもん」
「もんもん言うな。とにかく雑菌が入るだろ、離れなさい」
「なにさ、それボクが汚れてるとでも?」
言い合いをしながら、神楽は亘の手を避ける――のだが、その拍子に背中の羽が瓶の口に触れてしまう。ドロッとした蜂蜜が付着した。
バランスを崩し体勢を整えようとして、さらに手をついた場所が瓶の口。驚いた拍子に滑り、ついには黄金色した世界へと落下してしまった。
「わきゃーっ!」
神楽は目を極限まで見開き口を開け、ずぶずぶと沈んでいく。それを救おうとした亘が瓶を倒してしまう。卓上にドロッとした粘性体とともに、小さな姿がベチョッと流れ出た。大惨事だ。
「あのさ、スマホ取ってよ。入れば、これすぐ取れるからさ」
亘が机を拭き蜂蜜を吸ったティッシュを片付ける間、神楽は白いパン皿の上で正座していた。全身が黄金色でコーティングされ、小袖もスカートも何もかも身体に張り付いている。足下には滴った蜂蜜溜まりが出来ていた。
反省しているかと思えばそうでもなく、手についた蜂蜜を美味しそうに舐めたりしている。
「ダメだ、電子機器が壊れたら困るだろ。そこを動くな」
「そんなことないからさ。大丈夫だよ」
「とにかくダメだ。もう少し待ってくれ。風呂で洗うから」
「お風呂? なんでさ」
「もったいないからな、そのまま風呂に入れば蜂蜜風呂になるんだ」
大さじ三杯も入れれば、入浴剤代わりになる。つまり神楽が全身に纏った分と、皿に零れた分を合わせれば充分ということだ。このまま捨ててしまうよりは余程良いに違いない。
風呂場に運ぶと、まずは皿ごと湯に浮かべた。そして腕まくりした亘は神楽を掴む。
「よいしょっと。ヌルヌルだな」
「くすぐったいや」
「我慢しろ」
手の平に載せながら首まで湯につけてやる。そのまま足を片方ずつこすり、蜂蜜を落としていく。ちょっと際どい部分まで手が触れてしまうのは仕方なかろう。
その次は指に掴まらせた状態で洗う。下半身から脇腹へ、様子を窺いながら脇腹とか胸までも蜂蜜を擦り落としていった。
幻覚と思ってセクハラした時のような無理矢理でなく、優しくそっと下心を隠しながらだ。そうして粗方の蜂蜜を落としてやった。
神楽は満足顔だが、亘はもっと満足顔だ。
「ありがとね」
礼を言った神楽は手を放すと湯の中へと潜り込んだ。そのまま水中で全部脱いでしまう。風呂桶の縁へと小袖やスカートを引っかけ、自身も縁に掴まり身を湯に浸している。
亘は視線を逸らしつつチラチラ気にするしかない。
「マスターもさ、このまま入ったら?」
「いやしかしだな」
「いいじゃないのさ、蜂蜜のお風呂だよ。ほらさ、背中流してあげるから」
「まあ、そうか。しょうがないな」
不承不承を装いながら、亘はイソイソ脱衣スペースに移動した。時々、背中を流して貰うことがある。けれど亘からは一緒に入ろうとは言えやしない。こうして声をかけて貰えるのを待っているだけだ。
そして残った蜂蜜は入浴剤に使われ、風呂に入る合図となった。
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