書籍化記念の章
記念SS第1話 田んぼが一枚
道路は通勤ラッシュで混雑していた。
遅々として進まない状態に苛立ち、少しでも前へと無理矢理交差点へと突っ込み、結果として立ち往生する。それが更なる渋滞を引き起こし、運転者の苛立ちは募るばかりだ。
そんな道路事情を横目に、亘は横断歩道上の車を避けつつ交差点を渡っていく。早足で進んでいく者たちが次々と追い越していく。
朝だというのに爽やかさは欠片もなく、深い深いため息をつく。
「はぁっ……帰りたい」
4月の転勤で配属された部署はとにかく忙しい。それだけならまだしも、様々な気苦労が重なり精神的に追い詰められた状態であった。
まず、係長への昇任。
一般的にはめでたいことだが、肩書きと共に責任がどっと増えてしまった。一番厄介なことは予算を任されたことだ。十桁近くある予算を年度末までに使い切らねばならず、でもどう使えばいいのか分からず不安ばかりが先に立つ。
でもって、新たに採用された新人の面倒を見ねばならない。
水田という子は優秀で物覚えの良いが、やはり慣れないため思わぬミスをしでかす。危なっかしくて目が離せやしない。なにより人付き合いが苦手な亘にとって、どう接すれば良いかが分からず困ってもいる。
そして一番の原因は課長で……でも、考えたくすらないため頭を振って追いやる。
トボトボと歩道を進む。
行きたくないが行かねばならない。そんな気持ちを代弁するように、足取りは重く鈍いものだった。
アスファルト舗装の歩道は所々ひび割れ、雑草などが生えている。ガムや吸い殻、紙ゴミなども落ちていた。それが分かるのは、亘が俯き足先ばかりを見ているからだ。
排気ガス交じりの空気の中に、ふいに新鮮な泥の香りを感じた。思わず顔を上げる。
「んっ?」
田んぼが一枚。
商業ビルの合間に、水を張ったばかりの田んぼがあった。結構な広さがあり、向かい側の路地裏までぽっかりと空いたような空間となっている。、
田舎育ちの亘にとっては懐かしい存在だ。つい足を止め、眺めてしまう。
「気付かなかった……」
これまで何日も、この場所を通っていた。
しかし、今までその存在に全く気付きもしなかった。つまりは、毎日下を向き精神的に追い詰められ、いっぱいっぱいだったということだ。
深呼吸で新鮮な泥、つまりは土と水の香りを吸い込む。
そうすると子供時代が思い出される。楽しいものでなかったが、それでも今思えば幸せだったに違いない。あの頃は良かった。
――いや、これじゃダメだ。
そんな考えを頭を振って追い払う。
いつだってそうだ。後になってから、あの頃は良かったと思うばかり。過去には戻れないなら、今を精一杯頑張るしかないではないか。今を頑張るからこそ、未来が幸せになれるのだ。
一年後には、その時が一番幸せだと思えるようになるため頑張らねばいけない。
「よしっ、行くか」
気を取り直し歩きだした足には力が込もっていた。
◆◆◆
夏も近づき、疲労はいや増すばかり。
青々と育った稲を横目になんとか出勤する。日々見ても変化はないが、気付けば大きく育ちトンボだって飛んでいる。同じように、少しずつ進むしかない。
「頑張らないと……ん?」
職場まで来たところで猫を発見した。歩道の真ん中に倒れ、外傷こそ見当たらないが小さな口から舌がはみ出し、息絶えていることは一目瞭然だった。
道行く人がそれを避けていく。
そこには『死』に対する尊厳など欠片もなく、ただ汚らしく気味悪いものに対する目しかない――ふいに、泣きそうになってしまう。そんな目を向けられる猫が無性に哀れで堪らなくなっていた。
「……待ってろよ」
亘は職場の倉庫に向かい、剣先コップを手に戻ってきた。
公務員だからと書類仕事ばかりではない。昔いた部署では死骸処理をやったことだってある。慣れてはないが嫌悪はない。そっと慎重に優しくすくい上げてやった。
周りを見回す。
「あそこにするか」
職場の敷地内には、ささやかな花壇がある。けれど、雑草が放置されたみすぼらしい状態だ。もはや組織としてのプライドすら捨て、経費削減を優先している。
そこに穴を掘る。本当は勝手に埋めてはいけないだろうが、やらずにはいられなかった。
軽く微笑みながら猫に土をかけてやる。
「恩返しに来いよ、猫耳少女になってな」
それは軽い冗談だが、こうやって猫を埋める優しさに女性が感動し、そこから始まる恋物語については真面目に期待していた。
だから背後から近づく足音に気付き、胸をときめかせてしまう。
「五条係長ね、備品を勝手に使用して良いと思ってんの」
けれど、下原課長だった。
日頃の反応で身が強ばり、表情が消える。気分は急転直下だ。もちろん課長から惚れられることなどなく――惚れられても困るが――責め口調で問い詰められる。
「備品ってものは税金で購入された国民の財産だよ。それを勝手に使用して良いと思ってんの。使えば損耗するでしょ、そこんとこどう思ってんの?」
「……すいません。私の配慮が足りませんでした」
項垂れ謝罪すると、課長は短い鼻息で威嚇する。
「死骸なんか触れては不衛生だ。きちんと消毒するか、洗ってから戻しておきなさい」
「……はい」
課長は踵を返し去って行く。
その背を見やり、ふいに手の中のスコップの存在を強く認識した。これは剣先スコップで、そう剣先だ。鋭く尖った金属の剣……深々と息をつくと、洗い場へと向かった。
◆◆◆
――もう無理だ。
亘は職場のトイレに籠もり心の中で悲鳴をあげる。腹を押さえるのは腹痛だからではない。胃の辺りがキリキリと痛むのだ。
トイレの狭い空間。
ここにいれば上司の叱責もない。クレーマーの電話や、厄介な仕事の電話だって追いかけてこない。職場で唯一安心できる空間だ。
目を閉ざし、少し前の出来事を思い出す。
発端は水田だった。デーモンだかサーモンだか知らないが、通信大手が大作ゲームアプリの開発をスタートし来年公開、などと嬉しそうに話していたのだ。
なのに課長は亘を呼びつけ叱責する。意味が分からない。もう気分は憂鬱を通り越し、灰色で平坦で何も感じられやしない。
これだけ苦しい思いをしているのだから、きっと良いことがあるはず。
そう考え宝くじを買い続けているが末等しか当たらない。外ればかりで、まるで自分の人生みたいではないか。
トイレの入り口が忙しなく開閉された。
――んっ?
小走りの足音。隣の個室のドアが乱暴に閉められる。カチャカチャと大急ぎでベルトを外す音、そして――亘は耳を塞ぎ、声にならない悲鳴あげる。
世の中で一番聞きたくない最悪の音を聞かされたなら、誰だってそうするだろう。
堪らず逃げ出した。
職場では少しも安堵できる場所などない。そう悟ると感情を消し、何も考えずただ与えられた仕事だけを黙々とこなしていった。
真夜中、ブツブツ呟きながら帰路につく。
「帰る、風呂、寝る、帰る、風呂、寝る」
ふと見ると、外灯に照らしだされた稲穂が重たげに垂れていた。そろそろ収穫時だろう。
――よく、ここまで育ったな。
なんだか一緒に励まし合ってきた戦友を見るような気分だ。なぜだか心に染み入り、無性に美味い米が食べたくなる。
でも食べられない。
コンビニ弁当の米は何か味が違うものであるし、丼物チェーン店の米は腰がなくてグサグサだ。自分で炊くしかないが、そんな時間は無い。
「美味い米を食べられるって、贅沢なことだったのだな」
ポツリ呟き、アパートへと帰った。
◆◆◆
稲は刈られ、田んぼは稲株が均等に並ぶだけの姿となった。それでも、しばらくすると細く青い葉のような茎が伸び出し、もう一度米が採れるのではないかと思えるぐらいまでに成長していた。
その矢先、田んぼが消えた。
「…………」
亘は茫然と立ち尽くすしかなかった。
真新しい黒々とした土が敷き詰められ、大量の土を弄った後の独特の臭いが鼻をつく。もうそこは、平らに均された地面でしかない。
そして何かの工事が始まり、一月もしない内に大きな駐車場のあるコンビニが完成したのだった。
元々人通りの多い、コンビニには最適な場所だったのだろう。いつも駐車場には何台も車があって、たいてい何人かの若者が騒いでいる。店内には常に客がいて商売繁盛だ。
誰もそこが田んぼだったとは思い出さないだろう。仕事の行き帰りに立ち寄る亘だって、数ヶ月もすれば忘れてしまったぐらいだ。
そして月日は流れ。
「さてと、仕事帰りに寄れる異界を探そう」
「了解なのさ」
「まず、この辺りからだが。どうだ、ありそうか」
亘は自分の勤める事務所の敷地内に立ち、辺りを見回す。その肩には小さな女の子の姿があった。時刻は夜のため誰の目にも触れないが、その羽の生えた姿を誰かに見られでもしたら大騒ぎだろう。
「んーっとね。ないよ」
「そうか、だったら移動しながら探すとするか」
「あっ、ほらさ。あそこ見てよ」
「おいこら、神楽。勝手に移動するんじゃない。そっちは歩道だ、人通りがあるだろ」
「大丈夫だもんね。ちゃんと分かってるからさ」
ヒラリと飛んでいく姿を慌てて追いかける。いくら神楽に探知能力があるとはいえど、結構ドジで見落としも多いのだ。
追いついた場所は花壇の前だった。一年ほど前に猫を埋めてやった場所だ。
「ほらさ、見てよこれ。綺麗なお花だよ」
「・・・・・・コスモスか」
コスモスが咲いていた。密集して咲いているため、誰かが意図的にしたことだろう。ここに猫を埋めたと知ってのことか、それとも偶然か。それは分からない。
亘はコスモスを見つめた。
「…………」
しばし沈黙する。
一年前と今を比べどちらが良いか。そんなこと考えるまでもない。こちらを見つめてくれる小さな姿は、心の大きな部分を占めている。
「どしたのさ、何か笑ってるけどさ」
「さあな、なんでもない」
「むう、教えてくれたっていいじゃないのさ」
「なんでもないったら、なんでもない。さあ、行くぞ」
小さな神楽を頭に載せ亘はゆっくりと力強く歩きだすのだった。
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