第165話 夜の帳が下り
「まあ似合うじゃないの。浴衣を残しておいて本当に良かったわ。なんだか若い頃を思い出しちゃうわね」
「半世紀前ですかな」
「お黙んなさい!」
母親の鋭い声に亘は首を竦めた。元気になってくれたのは嬉しいが、ちょっと元気になりすぎだ。家に戻るなり、そのまま七海を着せ替え人形にしようと大はしゃぎしている。後で七海に謝らねばいけないだろう。
けれど、七海は楽しそうにクスクス笑っていた。
手にある浴衣はひと昔どころか、本当に言葉通り半世紀は前のものだ。それだけに手織り手縫いの手染めされたもので、昨今の大量生産品よりずっと質は良いはずである。
横でイツキが拗ね気味に口を尖らせた。
「ちぇーっ、俺も浴衣を着たかったぜ」
「ごめんね。イツキちゃんが着られそうな子供サイズは、残しとかなかったのよ」
「子供……がーんだぜ」
「胸のサイズというより裾丈の問題だわね。着物や浴衣はね、むしろ胸元にボリュームがない方が綺麗に見えるのよ。きっと似合ったのに残念ね」
「嬉しくないぜ……」
イツキは微妙な顔で、自分の胸をペタペタ触っている。最近は大きくなりつつあるが、まだまだだ。亘の母親はカラカラと笑う。
「胸が大きいと襟がはだけて着崩れしやすいのからねえ。そういった意味だと七海さんは困ったわね」
亘はつい七海の胸を見てしまった。確かに着物姿になるには大きいかもしれない。
視線に気付いたのか、七海は顔を赤くして胸元を腕で隠してしまう。
「やっぱり浴衣は止めておいた方がいいでしょうか」
「そうねえ。やっぱり胸の下にタオルを入れるべきね。さあさあ、一度脱いで頂戴な」
「はい……あっ、でもですね」
「おやそうね。いくら付き合っていたって、そういう気持ちは大切よね。ほら、あんたはあっち行ってなさいな。しっしっ」
犬を追うが如く亘は部屋から追い払われた。
背後でピシャリと閉められた扉の音を聞きながら、口をへの字にする。
「実の息子に対するこの仕打ち、酷いとは思わないか」
部屋を出た亘は腕組みし、態とらしく嘆いて見せた。神楽がスイッと飛んでくると肩に飛び乗り引っ付いてくる。なんだか急に甘えん坊になった。
「ナナちゃんの着替えが見たいならさ。後で頼めばいいじゃないのさ」
「バカを言うな。そんなこと言えるか」
「はあっ……このヘタレ具合なんとかなんないかな。アマクニ様にも言われてたじゃないのさ、頑張んなきゃ」
「それか……もちろん頑張るさ」
亘はポツリと呟いた。
もう腹の中では、勇気を持って踏み出し七海に自分の想いを伝えようと決めている。そのための腹案もあるのだ。まず遊園地に誘って雰囲気が良くなったところで――。
思案する様子に神楽とサキが顔を見合わせた。驚きと呆れが混じった珍妙な表情を浮かべた。
「だったらさ、今日にすればいいじゃないのさ。ほら、お祭りなんてさ最高じゃないの」
「んだんだ」
「うるさいな。こういうのは準備して、心構えを持って事に当たるべきなんだ。行き当たりばったりってのはダメだろ」
「あーあ。これだからさ……それで何度チャンスを逃したと思ってんのさ」
「ひのふのみの……」
サキが小さな手で指折り数えだした。
ムッとした亘が手を伸ばすと、それをかいくぐりキャアキャア言いながら逃げ回る。母親が化かされたままなので、両者とも普通に家の中にいられるのだ。亘は柄にもなく神楽やサキと遊んでしまう。
バタバタと遊んでいると、扉が開いた。
「これっ、家の中で騒ぐんじゃありません!」
ガーッと顔を出した母親が怒りの声をあげる。それで神楽とサキは恐れ入ってしまうが、慣れている亘は平然としたものだ。フンッと視線を逸らした。
それで何気に開いた扉へ視線を向けてしまい、口を半開きにする。
浴衣をはだけた下着姿の七海がイツキに手伝って貰い、胸の下へと折りたたんだタオルを当てている。トップとアンダーの高低差がよく分かってしまう。
「「あっ……」」
同時に声をあげる。亘は慌てて後ろを向き、七海はわたわたと焦った様子で隠そうとする。両者の顔が見る間に真っ赤となった。
「これ! 覗くんじゃありません! なんて子でしょうね。母さん、悲しいわよ」
理不尽なことを言い放ったあげく、ゴンッと拳骨を落として扉が閉められる。
亘は廊下で惚けていた。飛んできた神楽が頭を撫でてくれるが、それさえ気にしていない。
素晴らしい。実に素晴らしい。海で下着姿と同じような水着姿を見たものの、やはり下着は下着で水着は水着。興奮のベクトルが全然違う。
目に焼き付く光景に亘が顔をニヤつかせると、神楽とサキは今度こそ呆れ顔になる。
「やっぱさ、ダメかもしんないね」
「うん」
◆◆◆
夜の帳が下りだす時刻に、小学校を訪れる。
「学校か、何もかもみな懐かしい……」
亘は感慨深く自分の母校を眺めやった。
もっとも懐かしいと口にしても、記憶は朧気でしかない。卒業してから随分と時が過ぎ去り、見知らぬ場所のように思えてしまうぐらいだ。ここで何があって、どう過ごしたかは思い出せない。書き留めたメモのように、楽しくなかったことだけ覚えている。
思い出せないことは置いておき、投光器により明るく照らし出されたグラウンドへ視線を向けた。
中央に赤白布の巻かれた櫓があり、色とりどりの提灯が下げられている。周囲には幾つもの屋台のテントが並び、大勢の人で賑わっていた。
祭り会場だ。
和太鼓演奏が行われ、ねじり鉢巻き法被姿の男女が威勢良く祭太鼓を叩き会場を盛り上げる。それを楽しむ者もいれば、周囲に並ぶ屋台を品定めする者もいる。子供たちが駆け回り、笑い声や興奮した叫びが響いていた。
浴衣姿の女の子も多く、思い思いに可愛く着飾っている。どの娘も目にも鮮やかなピンクに赤や、青に緑と原色そのままな色合いで存在を力強く主張していた。
「ふむ……」
亘は隣をチラリと見やり、顎を擦り満足げに頷く。
そこに浴衣姿の七海がいる。藍白生地にさらりと空色のツバメ柄が入り、茜色した帯と白の帯締めが存在を引き立てる。七海の穏やかな顔立ちと、落ち着いた佇まいとが合わさって清楚で凜とした大和撫子の見本みたいだ。
彼女の可愛らしさに亘は顔を赤らめ、わざとらしく腕組みしあらぬ方を眺めやった。
「その、なんだな。浴衣似合ってるな……可愛いな」
ボソリと呟くが、辺りに響く太鼓の音には紛れぬようハッキリと口にしている。
無論、亘はこんなことを自発的に言える性格ではない。お節介な神楽から何度も念押しされたからこそだ。口にしただけで、変な汗をかくほど緊張してしまう。
「ありがとうございます」
七海は頬を染め嬉し恥ずかしで下を向いてしまう。亘もまた負けず劣らず、腕組みして上を向いてしまう。通りかかった初老の夫婦が顔を見合わせ、微笑ましそうに笑っていった。
照れた亘はそれを誤魔化すため、殊更厳めしい顔で祭り会場を眺めやった。
「んー、おかしいな。こんなに規模の大きな祭りだったかな……」
わざとらしく話題を変える。
「凄く賑わってますよね。もっと小さな規模と聞いてましたけど」
「そうなんだよ。屋台なんて、この半分もなかったはずだがな。なんでだ……ああ、そうか。団地からの参加が増えたせいだな。それで祭りの雰囲気も変わったのだな」
亘の記憶にある祭りといえば、もっと猥雑で暗いものだ。暗さが蔓延した会場には薄汚れた屋台が妙な存在感を放って居並び、その店主はパンチパーマに腹巻き姿といった柄の悪い親父。裸電球の下では、クオリティの低い商品がそれこそ宝物のように輝く。焼きそばなんて、世界で一番美味そうな食べ物に見えたぐらいだ。
それがどうだろう。
目の前にある祭り会場は投光器で明るく照らし出され、昼とさして変わらない。小綺麗なテントが並び、商工会議所やPTA組合、野球クラブ、各種愛好会などの保護者たちが売り子をしながら楽しげに笑っている。もちろん売られている物も普通のものだ。
とても明るく健全だが、なんと言うか――
「なんだか祭りって感じがしなくて、これはそう。イベントだな」
「そうですか? 私の近所のお祭りも、こんな感じですよ」
「さよか……」
ポツリと呟く。
目の前で行われているのは、イベント事であって祭りではない。そう思えてしまうのは、亘が歳を重ね感性が擦れてしまったからなのだろうか。分からなかった。
なんにせよ、子供の頃に感じた見知らぬ異境を垣間見るような特別さは感じられない。それが妙に残念で寂しかった。大切な何かを失ってしまった気分だ。
「ん?」
手が差し出された。
「さあ、せっかくです。お祭りに参加しましょうよ」
「そうするか」
気恥ずかしさに照れながら、勇気を振り絞って七海の手を取る。
柔らかで温かな手。こちらからだけでなく、向こうからも握り返してくれるのだ。触れ合う部分から、温かな何かが心へと染みてくる。
これからもっと頑張り、手を握るどころじゃない関係になってみせると決意しているのだ。この程度で怯んでなどいられやしなかった。
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