第164話 もう一度見たかった
境内に戻った亘たちを、アマクニが穏やかな拍手で出迎えてくれた。桜の花びらがはらはら舞い落ち風雅な佇まいだ。
「やあ、ご苦労様だったね。ここから見させて貰ったけど、久しぶりに胸が躍ったよ。君に頼んで本当に良かった」
切れ長な目が嬉しそうに細められる。人とは異なる美貌が笑みに彩られると、同じ女性である七海もイツキさえも照れてしまうぐらいだ。亘なんて言うに及ばずであった。
「まあその、なんでしょうか。そんなに大したことないです。大百足がとっても硬くて早くて苦戦しただけで」
「マスターってばさ、もうちょっと言い様ってものが。まあ、いいけどさ」
だが、アマクニは優しく微笑む。その目は少しばかり遠くを見ている。まるで何かに思いを馳せ、懐かしむ様子でさえあった。
「でも、君は倒した。立派だよ。そう、とても立派な働きだ」
「なあなあ、俺の活躍も見てくれたか?」
天真爛漫な笑顔とともにイツキが遠慮なく口を挟めば、アマクニは視線を向け優しく頷いてみせる。話しかけられただけでも嬉しいといった、ボッチ感のある反応だ。
「もちろんだとも。イツキ君の活躍も見ていたよ。素晴らしい身のこなしだったね。それに、七海君が従える悪魔も大したものだ。もちろん君自身も」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ああ、やはり人間はいいね。実にいいね」
アマクニの呟きは感慨深く、まるで噛みしめるようであった。
「なあなあ小父さん。そろそろ戻んなくていいのかよ。祭りがあるんだろ」
「おっと、そうだった」
戦闘で思ったより時間を取られている。
これから戻って着替えること考えれば、戻った方が良い時刻だ。異界の中にいると空模様もあって、つい時間を忘れてしまう。
「祭に行く予定があるので申し訳ありませんが、これで……」
「仕方ないね。でもその前に、君に話したいことがある。悪いが、他の者は先に外に出てくれないかな」
有無を言わせない口調だ。
「分かりました。七海とイツキは先に家まで戻っておいてくれ」
その言葉に二人は頷き、揺らめく空間へ姿を消す。アマクニを恐れるサキまで一緒に異界を出てしまうが、神楽は当然と言わんばかりに残っている。
ちらっと一瞥したアマクニだが、それ以上は神楽の存在を気にせず亘へと向き直った。
亘は居残りを命じられた気分で少々不安になる。
「なんでしょう」
「君に言いたかったのはね、勇気を持って踏み出すように、だよ。でないと、逃してしまう。意味は分かるね」
「…………」
思いもしなかった言葉だが、分からないはずがない。
けれど亘は唇を噛み視線を逸らした。
それができないから困っているのだ。自分の情けなさは自覚している。きっと他人から見れば、気持ち悪いぐらいだろう。さっさと告白しろとか言うかもしれない。
けれど、けれどそんなこと言えるのは――恋愛経験がある、恵まれた人だ。
今まで一度だって上手くいかなかったことで、過去の失敗経験が積み重なっている。それに何より勇気を持って積極的になるには年を取り過ぎ、どうしたって及び腰にならざるを得ない。
そして、やはり亘の心の奥底には他人を信じ切れない、受け入れられない部分があるのだ。
アマクニの目が全てを見透かすように細められる。
「君の過去は知っている。けれど、もう解き放たれなさい。苦しいのは分かる。でも、だからこそ苦しみに囚われてはいけないよ」
亘は歯を噛みしめた。
憎しみ苦しみは良くないもの。忘れるべきものだと、誰もが口を揃えて言う。
けれど、どうしたって逃れられないから苦しむのだ。囚われた人間にとって、それを否定されることは存在そのものを否定されるようなものなのだ。
「黙れ……」
黒い感情を剥き出した亘がアマクニを睨み付ける。相手が神だろうがなんだろうが、どうだっていい。胸の中で蘇る憎しみと苦しみの捌け口を、ほっそりとした姿にぶつけようと手を伸ばす。
「願ったって頼んだって……誰も助けてくれなかったのに。何を今更……」
亘の顔が悪鬼のごとく変わる。
持てる力の全てを解放。憎しみが変換されるよう生み出された力は、大百足と戦った時よりなお凄まじい。あふれ出たDPが雷光のように這い回り、全身を光り輝くように染める。驚いた神楽が思わず飛び離れるほどだ。
しかしアマクニは恐れるでもなく、そんな亘を優しく抱きしめた。美しい怜悧な顔が近づき、芳しい桜の香りが押し寄せる。
「こんなことしかできない存在なんだ……ごめんよ」
アマクニがぽろぽろと涙を流していた。顔を押しつけ泣いていた――誰のためでもなく、それは亘のためだけに。
「うあああぁっ……」
亘は怯えた。
哀れまれているのでも、同情されているのでもない。これは慈しみだろうか。分からないが、心に涙と桜の香りが染みてくる。この辛い感情が認められ受け止められたことが分かった。
亘の全身から力が抜ける。そのままアマクニに抱きしめられ続けるのだった。
「…………」
その傍らで小さな巫女姿の少女は、思い詰めた顔をしていた。
◆◆◆
アマクニが離れると、亘は清々しい顔で笑った。気恥ずかしさを誤魔化すため、あらぬ方を見やり足先で地面を弄っている。
「では、これで失礼します」
「また遊びに来ておくれよ。来てくれないとマジ麓に災いでも起こしてしまうよ」
「ちゃんと来ますよ、必ず。だから災いとかやめてください」
「はははっ、分かったよ。寂しくなったら使いを送ろう、桜の花を持たせて」
アマクニに見送られ揺らめく空間に向かう亘だったが、ふいに足を止めた。神楽が動かないのだ。見れば、漂いながらもじもじしている。
「あのねボクね。ちょっとね、アマクニ様とお話ししたいの。だからマスターはさ、先に出ててよ」
「お話しってなんだよ」
「えっとね……いいじゃないのさ。女の子同士の秘密のお話しするんだよ。マスターってばさ、デリカシーないんだから」
神楽は顔を赤くし、両腕を振り回し怒りだした。小袖がバタバタと旗のように振られる。何だかよく分らない反応だ。
それよりアマクニまで含めて女の子とかちゃんちゃらおかしい。瞬間、亘の背筋がゾワッとした。見ればアマクニが冷ややかな目で睨んでいる。笑顔なのが妙に恐い。
「君、なにか失礼なこと考えたね」
「いえ全く何も考えていませんです。はははっ」
亘は揺らめく空間へとにじり寄ると、大急ぎで飛び込んで逃げ出した。
神楽は腕をひと振りさせ異界をまたぐ扉を閉ざす。これで、誰にも聞かれない秘密の話ができる。
「さて話とは、何かな」
それまでと打って変わってアマクニの表情と口調は冷たいものだ。まるで路傍の石に向けるような態度だった。それは本来の神――長い刻を生きた存在の目だ。
けれど神楽は怯まない。
強大な力を持った存在へと問いかける。
「あのねボクね、大きくなりたいの。だからさ、どうやったら大きくなれるか教えて欲しいんだよ」
そんな言葉にアマクニは少し目つきを軟化させた。興味をそそられたらしい。
「ほう、大きくなってどうする気だい」
「マスターにね、もっといろーんなことをさ、したげたいの」
「それは、子でもなしたいとでも言うのかね」
「うーん。それもいいけどさ、ちょっと違うかな。ボクね、もっともーっとマスターの役に立ちたいんだよ。ご飯だってつくってあげたいしさ、お風呂で背中流してあげたい。泣いてたらさ、さっきみたいに抱きしめてあげたいの!」
神楽は両腕を精一杯に広げ、気持ちの大きさを懸命にアピールしてみせる。
沈黙するアマクニの肩が小刻みに揺れだした。それは次第に大きくなり、堪えきれなくなって笑い声となる。
「……ふふっ、ふふふふっ」
「何がおかしいのさ。幾らアマクニ様でもボク怒るよ」
「いや悪い、勘違いしないで欲しい。バカにしたわけではないよ。ええと、名前はなんだったかな」
「ボク、神楽だよ。マスターがつけてくれた最高の名前だよ」
胸を張って神楽が言い放った。
アマクニはようやく、神楽という悪魔の存在を認めた。態度も亘に対するほどではないが、柔らかなものとなる。
「神楽か。望みはいいが、その前に言っておこう。悪いことは言わない、人間にあまり入れ込んではいけない」
「なんでさ」
「悪魔と人間とでは寿命が違う。DPを吸収した人間の寿命は多少延びるがね、それは多少でしかない。だから、入れ込むほど後の別れが辛くなるだけだ」
その言葉を告げる声は悲しみの色を帯び、目に満ちたものも同様だ。
「もしかしてアマクニ様も、そーいう経験あるの?」
「そうだね、昔々私がまだ苗木のように弱かった時代のことだ。あの大百足が現れ、私は滅ぼされそうになったよ。その時にね、私を助けてくれた人間がいたのだよ」
「…………」
「彼が大百足に立ち向かう勇姿、それはもう胸をときめかせたものだよ。その後も異界に遊びに来てくれたりしてね。毎日が賑やかで楽しくて、それは素晴らしい日々だった」
うっとりとした声は穏やかで、舞い落ちる花びらのように哀しげだ。
「けれど楽しい時間は、すぐ終わってしまう。残された者は、思い出に浸りながら生きるしかない」
「…………」
「あの子に大百足を倒させたのは、もう一度見たかったんだ……人間が大百足に立ち向かって打ち倒す光景をね。ああ、あの子をこの異界に囚らえ留めたいものだ。その誘惑を堪えるのは苦労したよ」
そっと顔を押さえる手の下で、怜悧な目が我執に満ちたものになった。しかし、それは一瞬のことだった。すぐに諦観したものへと変わってしまう。
「寂しいの?」
「もう慣れたよ。今はその者の子孫を見守るだけで充分だと思っている」
「…………」
神楽は沈黙し、いつか訪れるであろう別れを想像した。そして、メソメソと泣き出す。まるで初めて死を意識し家族の死を恐れる幼子のようにだ。
その様子にアマクニは悲しげな微笑みをみせた。
「さて大きくなる方法だったね……諦めなさい。君はピクシーという概念に縛られている。君が君でいられるのはピクシーだからだよ」
「グスッ。じゃあ無理なの?」
「私だってね、叶うものなら神という概念を捨て去り、自由にどこかへ行きたいものだよ。けれど、それは出来やしない。あらゆる者は制約された中で、精一杯生きるしかないんだ」
「そっか、そだね。ボクも出来る中で精一杯頑張るよ」
神楽は涙を拭い決意した。それをアマクニが眩しげに見つめている。
◆◆◆
神楽は揺らめく空間を通り抜け異界を出た。
本来は明るく快活なはずの顔は思い詰めたもので、外はねしたショートの髪すら、どんより下を向きそうな様子だ。哀しげにため息をついたところで、慣れ親しんだ存在を感知する。
ピンッと顔を上げ、大急ぎでお宮から飛び出すと、境内の端から麓を眺めていた亘の元へ一直線に向かう。
「マスター何してるの?」
「戻ったか。ほらな、アマクニ様から言われてただろ、人間の営みの凄さを見るようにってな。神楽を待つついでに、ちょっと見てたんだ」
少し照れた様子で頭をかく亘へと、神楽は飛びついた。
「おいおい、なんだよ」
風のない穏やかな日差しが注ぐ山の上。木々に囲まれた静かな環境の中で、神楽は今この時の喜びを心に刻むのであった。
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