第156話 本物の方がずっと良い

 仕事――朝早く起床し一日の大半を職場で過ごす。泣きたいこともあれば、胃の痛くなることもある。キレたくなることもあれば、投げ出したい時もある。そうした全てを耐えて、堪えて、我慢して。時間と胃壁を対価に給与を得て生きていく。

 遊んで暮らせて、誰かに食べさせて貰えたらどんなに良いことか。

――むかつく。

 ふいに苛立ちが込み上げてきた。

 感情が平坦となって、目の前の女が木偶に見えてくる。黙らせるのは簡単。そう、とても簡単だ。それこそ、異界で悪魔を倒すように打ち倒せば良い。

「五条さん」

 そっと手が取られた。

 暖かく柔らかな感触に、我に返る。自分の思考に気付き、ぞっとした。今少し遅ければ、確実に実行していただろう。

 亘は大いに動揺すると、七海の手を握りしめた。それこそ縋り付くよう両の手で。

 イツキがニヘッと笑い、鼻の下を指で軽く擦ってみせた。

「どうだ、おばさん。見ての通りだろ、いちゃいちゃなんだぞ」

「だからおばさんじゃないわよ! そんなデリカシーがないんじゃね、あんた女の子にモテやしないわよ!」

「俺、女だぞ」

「五月蠅い五月蠅い、あんたたち五月蠅いわよ!」

 ついには山村さんは地団駄を踏みだした。この年齢で子供じみた仕草をされると、ますます引いてしまう。

 皆が辟易としていると、それまで我関せずとしていたサキが鋭く言い放つ。

「黙れ」

 サキは低く呟いた。緋色の瞳を怪しく光らせ、喉の奥から低く獣の唸りをあげる。整った顔は鼻の頭に皺を寄せ、極めて不機嫌そうだ。

 ほっそりとした指が喚き続ける中年女へと向けられる。刹那、陽炎のように揺らめく何かが飛来し、衝突して消えた。


 唐突に山村さんの動きが止まる。そして――焦点の合わない目をしたかと思うと急に表情が急変する。ニタリニタリと粘っこい笑いを浮かべ、どこか頭の線が切れた気味の悪い顔をする。

「五条さんにつきましては大層失礼なことをいたしました」

「は?」

「私としましてはこれまでの行いを重々反省し自戒した上で生活態度を改め清く正しく美しく生きてまいりたいと思う所存であります」

「え?」

 政治家の所信表明ぐらい嘘くさい言葉に亘は戸惑った。しかし目の前の中年女性は大真面目に宣言している。くるりと向きを変えたかと思うと、アスファルト道路の上をキビキビ行進するように去って行く。

 凄く変だ。

「お前は何したんだ」

「んっ、狐憑けた」

「憑けたって、狐憑きってやつか……それ元に戻るのだろな」

「さあ?」

 無責任な返事に、亘はサキの頭を拳骨でグリグリしてやる。キュウキュウとあがる悲鳴は聞き流す。

 なんにせよ、あれはあれで悪くない。少々怪しげでも、今までよりはよっぽどいい。それにどうせ他人事だ。

「まあ、いいか。それよりお宮に行こう」

 亘はサキの両脇に手をやると抱き上げ、肩に担いで歩きだした。七海とイツキは顔を見合わせたが、結局何も言わないことにしたようだ。

 車道と歩道の分けすらない一本道。古いアスファルトは細かな亀裂が無数に入り、端は崩れ穴さえ開いたものだ。古民家寸前の建物が点在し、間を田畑や耕作放棄された空き地が埋めている。

 そんな景色を、からりと晴れ渡った空から注ぐ陽射しが鮮烈に際立たせていた。

 頬を撫でる風は心地よく感じつつ、そんな田舎道をゆるりと進む。


◆◆◆


「もう少しで到着するが、疲れてはないか」

「このぐらい、へっちゃらですよ」

 お宮までの山道を、ゆっくりとした足取りで登っていく。足下の道は山肌を剥いだだけのもので、舗装もされてない。

 地元民が毎日の散策で踏みしめるため道として残るもので、亘が物心ついて初めて歩いた時から何も変わってない。舗装計画が持ち上がったこともあるが、そのままが良いと反対が起き、以来そのままだ。もちろん亘も反対名簿に署名した。

「おーい、あんまり遠くに行くなよ」

 イツキとサキは元気を持てあまし、坂を登ったり下ったりと追いかけっこをしている。片や忍者の娘、片や悪魔と普通ではあり得ない素早い動きで山道どころか山中にまで分け入り回っていた。体力というより気持ちの面で真似できない。

「随分と自然が豊かな山ですよね」

「猪とか鹿に野兎もいるな。熊は聞いたことがないけど、雉を見たことがある。キノコは結構生えていてな、うちの持ってる山でも……」

「えっ! 山を持っているんですか!?」

「あるぞ。土砂災害危険区域に指定されてるけどな。林業が盛んだったころならともかく、今じゃ大した価値もない」

「それでも凄いですよ、山を持ってるなんて」

「はははっ。実はここだけの話、松茸も採れるんだよ。うちの母さんが場所を知ってるから、採れたら食べさせてあげよう」

「それでしたら、今から楽しみにしちゃいますから」

 景色に目をやり散策するようなペースで進む。風も心地よく、話も弾み最高の気分だ。

「そういや、新しい写真集が発売されたみたいだな。売り切れ御礼の大人気だそうじゃないか。ネットで騒ぎになってたぞ。凄いもんだな」

「えっ! た、大したことありませんよ。偶々です。ちょっと品薄になっただけです」

 急に話が出たせいか七海は顔を赤くして慌てふためく。そうしたことを自慢したり得意になれる性格ではないのだ。

「大したことあるだろ。数量限定の特別バージョンなんて、オークションで凄い値段だって聞いたぞ」

「あうう……本当に大したことないんですよう……」

「しかし残念だな」

 七海は顔を真っ赤にしながら手を振り、大したことないと主張していたが、亘の残念そうな呟きに目を瞬かせた。

「あの、どうされましたか?」

「いやなに、実は買いそびれてしまってな。手に入らないんで、残念に思っただけさ」

「そうですか……えっと、それなら大丈夫です。献本用がありますから、それを差し上げます……恥ずかしいですけど」

「いいのか? 献本だと知り合いとかに配るんじゃないのか」

「誰にも配ってません。恥ずかしいから……でも五条さんならいいですけど」

 七海はもじもじしており、本当に恥ずかしげな様子だ。


 困ったなと亘は苦笑した。

 プレミア付きの高値なので、手に入れたらオークションで売り捌くのも良いかと思っていたのだ。けれど、こんな反応をされては出来やしない。

 これは永久に保存するしかないだろう。

 もともと写真という代物自体への興味が薄かった。その一瞬を記録として残すには良いものだ。それは認めよう。

 しかし、ともすれば写真を撮ることばかりに気を取られ、自分の目で見ることを忘れてしまう。それでは本末転倒だろう。さらに撮った写真を見る機会は少ないだろうし、過去の思い出に浸って後ろ向きな気分で見るばかりだ。

 だったら、一期一会の精神でその瞬間を心に刻んだ方が良いに違いない。

 その辺りは日本刀の鑑賞と一緒だ。博物館で必死になって写真を撮る者もいるが、実物の持つ輝きや存在感なんて素人写真では半分も残らない。見ましたというだけの記録写真を撮るぐらいなら、じっくり鑑賞して心に焼き付けた方がずっといい。

 その思いをぽつりと呟く。

「写真を見るより、本物の方がずっと良いんだよな」

「えっ……」

 心の中で考えることは誰にも伝わらない。別事を考えて呟いたって、相手は話の前後で意味に捉えてしまう。それに気付いたのは、耳まで真っ赤にした七海を見てからだった。

 しかも折り悪く聞かれたくない相手も戻って来ているではないか。。

「おおっ、小父さんがナナ姉を口説いてるぞ。凄いぞ」

「凄いびっくり」

「お前らは黙ってろよ」

 驚きの声をあげたイツキとサキをしっしと手で追い払う。いつもよりぞんざいな仕草なのは、恥ずかしさを堪えているためだった。

 それからは何となく言葉が出ず、山頂まで黙ったまま歩いて行く。しかし言葉は不要で、沈黙は辛くもなんともない雰囲気であった。


◆◆◆


 山頂に到着し石柱の鳥居をくぐると、間に渡された注連縄を避けるため自然に頭を下げることになる。子供の頃は、それが嫌で鳥居の横をすり抜けたりもした。些細なことに拘り反発した子供時代を思い出すと、どうしてそうだったのか不思議になる。

「さあ到着だ」

 小山の頂きを切り開いただけの、敷砂利もなく固い赤土が剥きだしの境内。

 腰高の簡素な石垣の上に小さなお宮があるのみで、灯籠や手水舎もない。傍らに一本の山桜と、注連縄を締められた小岩があるぐらいだ。

 周囲は杉林に囲まれているが、一角が切り拓かれた展望台になって麓の集落や住宅団地までも一望できるスポットとなっている。

 イツキとサキが歓声をあげるため今は賑やかしいが、麓から離れた山の上ということもあって、人工の音が届かない静かな場所だ。

「んっ!?」

 楽しげに走っていたサキが急に足を止めると、大慌てで亘の元へと駆けてきた。そのまま服の裾を掴むや、お宮を指さす。

 その格子状になった扉のから、真っ白い腕が突きだしゆらゆらと手招きしていた。ただし格子の向こうに人の姿はない。

 パッと見て明らかに怪奇現象だが、それを恐がる者はここにいない。

「手招きして呼んでますね」

「あれって海外だと逆の意味になるんだよな。まあここは日本だから呼んでいるのだろうけど。さあ行こうか」

「はあ……五条さんって本当に神様と知り合いなんですね……」

「なーんだ、ナナ姉ってば疑ってたのか。そんなん今更だぜ、だって五条の小父さんだぜ。なんでもありだろ」

「別に疑っていたわけじゃありませんよ」

 女の子たちの会話を背に聞きながら、お宮へと向かう。なんだかイツキからの評価には不当なものを感じてしまうが、問いたださないことにした。

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