第155話 魔手を逃れるため

「おや、どこか出かけるのかい」

 和室に続く扉が開き母親が顔を出した。

 玄関で靴を履きかけた亘は顔を向け、もう起きたかと心配そうに呟く。子供の時分なら、反発めいた言葉を発しただろうが、今はそんなことはしない。

 むしろ申し訳なさを感じてさえいた。

「皆とお宮まで散歩に行ってくる。休んでなよ」

「おや草刈りで疲れた後で大丈夫かい。他の子らは若いからいいけどね、あんたは無理しない方がいいんじゃないのかい。仕事に支障が出てもしらないわよ」

「大丈夫無理しないから。そっちこそ、もっとゆっくり休んでおきなよ」

 実際のところ、亘の身体はDPを得て活性化し若返ってさえいる。さらに適度な運動にストレス発散をしているため、若い頃よりむしろ健康的で体力もあり余っているぐらいだ。

 余裕の態度で気遣うと母親が驚きの顔をする。

「おやまあ、あんたも随分と人間が丸くなったもんだね。歳くったせいかねえ。それはいいとして、今夜はお祭りがあるでしょ。どうすんだい。顔を出してみるかい」

「お祭りか……」

 亘は独りごちて眉をしかめた。

 子供の頃は胸をワクワクさせ参加した祭だが、もう何十年と参加していない。最後に参加したのは中学生の頃だ。その時、好きだった女の子が浴衣姿でトキメキ、けれど男子と一緒だと気付いて多大なショックを受けた。それ以来行っていない。

 やるせない気分で回顧していると、七海が遠慮がちに口を挟んだ。

「私とイツキちゃんの時間は大丈夫ですよ。むしろお祭りに行ってみたいぐらいです」

「そうか……だがな。どうしたものかな」

「あら、いいわねそうなさい。だったら浴衣もどうだい。私の若い頃のでよければ、七海さんに用意するわよ。ああでも、イツキちゃんに合う丈はないわねえ。ちょっと借りてこようかしら」

 母親が話をかぶせて奪ってしまう。きっと亘が断る前に決めてしまおうという魂胆に違いない。いくら親でも失礼だと睨むが、どこ吹く風の顔をされてしまう。

 親子の密かなやり取りなど気付きもせず、七海は顔を輝かせた。

「浴衣ですか、お借りできるなら是非お願いします」

「はいはい、承りましたよ。それじゃあ決定だわね。楽しめるように準備しとくわよ。浴衣を出して、ちょいと風にあてて。あら、でもその前にどこに仕舞ったかしら。すぐに探さないとダメだわね」

 急に元気になった母は家の中へと引っ込んでいく。これから倉庫や蔵に行き浴衣を探すに違いない。ウキウキ動き出した姿に苦笑せざるを得なかった。

 亘は諦めた。もうこうなったら、どうしようもない。せめて祭りで子連れの同級生に会いませんようにと、願うしかないのだ。それはそれとして、七海の浴衣姿を想像し顔を綻ばせる。きっと凄く可愛いに違いない。

「仕方ない。夕方までには戻ってくるとするか」

「はいっ、そうしましょう。五条さんと一緒にお祭りですか、なんだか楽しみでドキドキしちゃいますよね」

「小さな祭りだからな。あんまり期待しない方がいいと思うがな」

「大丈夫ですよ、きっと楽しいですよ。絶対に」

「……うん?」

 玄関を出ようとした亘だが、ドアノブに手をかけた状態で足を止めた。外から聞きたくない声が聞こえた気がするのだ。

 七海が後ろから覗き込むように、背伸びして亘の肩へと掴まる。そして一緒になって外の声に耳をすました。


◆◆◆


「あれれぇ? 僕どうしたのかなっ。五条君の家から出てきて、もしかしてお知り合いかなっ?」

「なんだ? おばさん誰だ?」

「おばっ! このクソガ……お姉さんはっ、五条君の婚約者なんだぞぉ」

 そんなやり取りだ。

 なるほど、と小さな呟きを耳にする。振り向くと思いのほか近い位置に七海の顔があった。ニコニコとした笑顔だが、ドキッとしたのは何故かしら表情に暗さがある気がしたせいだ。きっと薄暗い玄関にいるせいだと、亘は自分に言い聞かせた。

「……婚約者だそうですが、そうなんですか?」

「いいえ、全くの誤解であります。向こうが勝手に言ってる妄想であります」

 亘は背筋を伸ばし最敬礼するが如く答えた。

 外で騒いでいるのは同級生の顔も忘れた山村の姉で間違いない。一時期、亘の母が嫁候補に画策し水面下で動いていたことがある。それは母親同士の軽い会話だったはずだが、何がどうなったのか婚約者を自称しだしたのだ。亘にとっては、いい迷惑であった。

 イツキは適当にあしらうような口ぶりで、ずっと年上の女性を相手している。声だけだが、その光景がありありと目に浮かぶ。

「あのなあ……おばさん、けっこうな歳だろ。自分を『お姉さん』とか言ってるけどよ。なあ大丈夫か? 苦しくないか」

「このクソガキャ、黙っとりゃ調子こきやがって……あら、やだぁ。お姉さん、怒っちゃうわよん」

「大体だな、なーにが婚約者だ。小父さんには、ナナ姉っていう嫁さんがいんだぞ。そらもう、見てる方が恥ずかしくなるぐらいイチャイチャだかんな」

「もう。僕ったら冗談ばっかりね。五条君が女性にモテるわけないんだぞぉ」

 歯に衣着せぬイツキの発言に、山村さん家のお姉さんは図太く怯みもしない。


 聞いている亘の方がゲッソリしてしまう。お宮に行くのは止め、こっそり逃げだそうかとさえ思うぐらいだ。

 無意識に後退した亘を柔らかな感触が受け止めた。

「なるほど、そうですか。以前、美術館で会った五条さんの同僚さんと同じ感じですね」

「あっと、すまない」

 謝りながら身を離し、そういえばそうだと思い出す。職場のアラフォー女性の魔手を逃れるため、七海にデートのフリをして貰ったことがある。その相手もこんな感じで、押しが強く人の話を聞かないタイプだった。ちなみに、その女性は目出度く同僚と結婚しているが。

 どうやら――全く嬉しくないことだが――アラフォー女性にはもてるらしい。

 考えてみれば、世間一般では安定と思われる職業に就き、性格も大人しく従順そうに見える亘だ。実情を知らなければ、お得感があるに違いない。もちろん最後の砦ぐらいの感覚だろうが。

「あの時と同じ対応ですね、分かりました。さあ行きましょう」

「おっ、おい!?」

 七海が意気揚々と玄関を開ける。


 眩しい屋外にいきなり出ると目が眩む。明るさに目が慣れると、玄関を出た少し先に駐めた車の傍らにイツキとサキがいる。どちらもシャツに短パン姿で、少年と妹ぐらいにしか見えない。

 家の前は砂利を敷き詰めた広いスペースがあり、道路までの間に大型バスがゆうに駐められるぐらいはある。傍らにある年季の入った井戸小屋は、ちょっとした農作業道具や小物も置かれている。

 庭木は少ない。後は立て替えの時に全て切り倒した。理由は庭木の剪定や落ち葉の処理など、地味に大変だったからである。

 残したのは柿の木を一本だけ。もちろん実がなるからだ。

 今も青く固そうな実が幾つもなっているが、これが中々に甘く美味い。子供のころは木に登り、その場で食べたりしていた。その熟した柿の味を思い出しうっとりと――つまり現実逃避する。

 あえて視線を逸らし、そんなことをしていたが何の意味もない。

「あっ五条君だぁ」

 媚びと甘えを含んだ声が響く。目を逸らすのを諦め、頬を引きつらせながら仕方なく顔を向ける。

 ファッション雑誌に掲載されるモデルのような派手な服装と髪型の女性だ。もちろん、服と髪だけである。後は口が裂けてもモデルとは評せない。しかも哀しいかな、どう取り繕おうとも仕草や姿勢、何より体型に年齢が出ている。

 おかげで、どうにも似合わない。七五三の子供だって、もっと似合っている。身の丈に合った服を選ぶべきだと、亘は密かに頷いた。

「んもぉ、帰ってたなら声かけて欲しいなぁ。お姉さん、寂しいぞぉ」

「どうもどうも、どうもです。こんにちはです」

 懸命に返事をするが視線を逸らしてしまう。それで相手の鞄を見れば――そもそも見せびらかすように抱えられている――ゴテゴテして実用性の低そうな鞄だ。

 そこにあるマークに目を留め、亘は眉を寄せた。

 パチものでなければ高級ブランドバッグのマークのはずだ。なぜ分るかと言えば、母親が『死ぬ前に一つぐらい欲しいねえ』とか、『親孝行したい子はいないかね』と呟き、目に付く場所にカタログを置いていたからだ。

 けれど亘は見て見ぬ振りして、自分の趣味に金を注ぎ込んでしまった。とんだ親不孝者だと、少々の自己嫌悪と共に覚えていた。

「あっ。気づいちゃったぁ? これママに買って貰ったのよ。似合うでしょ」

「…………」

 軽く目を閉ざし、口を横に引き結ぶ。それは自分への自己嫌悪と、言いしれぬ腹立ちと、なんだか分らない負の感情を我慢するためであった。

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