第153話 母親に逆らえるはずがない
「おや、お疲れさんだったねえ」
草刈りを終え家に戻ると、母親が笑顔で労ってくれた。畑仕事用のかぶり物――田舎のおばちゃんがよく被る頭巾――を取った様子からすると、丁度作業が終わったところらしい。
「暑い中をご苦労だったわねえ。ほら、熱中症予防に水分を補給しておきなさいな。今、七海さんに準備して貰ってるから」
「なんでさっきは水だったんだ?」
「若い子にはペットボトルの方がいいかと思ってねえ。あんただって、オニギリは手作りよりコンビニの方がいいとか駄々を捏ねたじゃないの。それで水しかなかったもんでね」
「うっ……」
そんな言葉に、亘はふと学生時代を思い出す。遠足やら何やらでアルミホイルに包まれたオニギリが嫌で、皆のコンビニオニギリが羨ましかった。手作りのオニギリのありがたさを理解できたのは大人になってからだ。
あの頃と比べ、母親も随分と小さくなり、そして年老いてしまった。
「ああ、そうするさ」
少々しんみり気分でリビングのテーブルにつく。懐から取り出したスマホをその辺りに置いたところに、七海が飲み物を運んできてくれた。トンッと目の前に、冷たそうに水滴のついたコップが置かれる。
「はいどうぞ。砂糖とお塩、それからレモンが入ってますから」
「おっと悪いな。ありがたく頂くとしよう」
「俺も貰うぜ、ナナ姉あんがとな」
七海がニコニコと見守る前で、イツキと競うようにコップの水を飲み干す。染みるように身体の中へと消えていくが、思った以上に水分不足だったらしい。
亘はコップ片手に椅子にもたれ、お代わりを注いでくれる七海に礼を言いながら自宅内を眺め回した。
数年前に建替えるまでは築年数が三桁に手が届きそうな、けれど古民家と呼べるほど立派でもないボロ家だった。薄暗く隙間風が酷く床も痛み、年取ってきた母親には辛い生活環境だった。
それを建替え、和モダンな真新しい家とした。
ヒノキ張りの床に無垢材の柱。壁は明るい色合いの珪藻土で、大きな窓から入る光が明るい。機密性が良く床暖房で冬も暖かく過ごせる。もちろんインテリアも拘り、例えばリビングテーブルはノタ付きケヤキの一枚板であるし、LEDの置き時計は木の表面に文字が浮き出すような洒落たものだ。
けれど――亘は苦笑する。
蓄えをはたき苦労して建替えたが、良いことばかりでもない。近所からはやっかみ込みで陰口を叩かれるのが現実だ。実際に無言電話もかかってきて、人の妬み嫉みはどうしたって発生する。
そして何より、建替えたというのに殆ど暮らしていない。
人事担当の連中は職員が家を建てると嫌がらせで転勤させる――そんな噂がまことしやかに囁かれるとおり、建替えた途端に自宅通勤不可能な遠方へ転勤になったのだ。以降は自宅の固定資産税を払いつつ、アパートを借りる生活だ。
次こそは自宅から通える職場に異動したい。
そんなことを考えていると、羽の生えた小さな姿がツイッと横を飛んでいく。さらにトトトッと足音をたて、金色の髪がなびいていく。いつもの見慣れた光景――しかしここは実家だ。
「んなぁっ!」
亘は奇妙な声をあげ目を剥いた。しかも、折悪く母親が居間へと戻ってくる。そして神楽とサキにばったり対面してしまった。
最悪の事態――だが、あに図らんや母親は両者を見て、ニッコリ微笑んだ。
「あら、神楽ちゃんとサキちゃんも、お疲れさんだったわねえ。偉かったわねえ」
「ゴホッゲホッ! ちょっ、何言ってんだ。え、あれ? 初対面だろ? いやいや、なんで神楽とサキがここにいるんだ。出てきたらダメだろ!」
亘が両者を叱ると、母親は目を怒らせ今度は亘を叱る。
「これ! あんたってば何てこと言うの。せっかく神楽ちゃんとサキちゃんが来てくれたってのに。ごめんなさいねえ」
「ボク気にしてないよ」
「サキも」
「あらあら、良い子ねえ。そうだわ、亀テンのどら焼きがあったわね。貰い物で悪いけど、食べるかしら」
「「食べる!」」
元気良い即答に母親はニコニコ笑いながら台所へ行ってしまう。どら焼きは東京土産で貰ったそうだ。
亘は勤めて冷静を装う。
「誰か喋ったか?」
少女二人はふるふると否定した。さても犯人は自分の従魔だろうと見当をつけ、またしても冷静かつ穏やかに問いかける。
「どっちの仕業かな。怒らないから言ってみようか」
神楽はふるふると否定し、そしてサキは無邪気に胸を張った。それどころか得意そうに顎まであげ、ツンッとすまして威張り顔だ。
「狐、化かす」
「ほう詳しく聞かせて貰おうじゃないか、ええ?」
昔から狐は人を化かすと伝えられるが、つまりサキがそれをしたということだ。亘は邪悪な笑みを浮かべ、長い金髪を鷲掴みにしてグイッと引き寄せた。キュウキュウとあがる悲鳴は無視だ。
しかし、サキにとって幸運なことに母親が戻ってくる。焼きムラの皮の素朴な見た目のどら焼きを満載させた大皿をドンッと食卓の上に置いた。
「これッ! あんたって子はサキちゃんに何してんの、放したげなさい! まったく、なんて子だろうねえ。さあ皆さんも座って座って。どら焼きを食べてちょうだいな」
亘は不承不承、金髪を手放すしかなかった。母親に逆らえるはずがない。
食卓を皆で囲み賑やかにお茶をするが、亘は不機嫌にどら焼きをかじる。気分はともかく、パンケーキのような皮はフワフワで、粒餡も甘すぎることなく丁度良い。
神楽など机に座り込み、両手で抱きかかえるようにしながら囓りつきながら次を狙っているぐらいだ。
母親は自分は食べず、お茶をすすっている。
「そうそう最近は物騒らしいからねえ、皆さんも注意しなさいよ。ほら、あんたも一応気を付けなさいな。アパートなんだからね、戸締まりはしっかりするんだよ」
「そんな何を今更。戸締まりぐらいしっかりしてるさ」
「あら、最近は凄く恐い話があるのよ。あんた知らないの」
「ほほう寡聞にして存じませんですな」
やや不機嫌気味な亘の言葉に母親は片眉をあげる。だが、それ以上は怒らない。それよりも自分の話が優先のようだ。身を乗り出し、とんでも無い事を告げるように僅かに声をひそめさせもする。
「実はね、あちこちで恐い化け物が出るらしいのよ。なんでも悪魔だって話だわよ、嫌だねえ」
「「「…………」」」
亘に七海にイツキは黙って目の前でどら焼きを食べる悪魔に視線を向けた。
「あら疑ってんのね」
「あーいや、疑ってるわけじゃないが……」
「そりゃねそうよね、こんなこと言ったらおかしいのは分かるわよ。でもねえ、お隣の奥さんの実家のお母さんの従兄弟の子のお嫁さんが、本当に見たそうなのよ。恐いわねえ。はい、どうぞもう一つお食べ」
どら焼きに手を伸ばし欲しがってみせるサキに取ってやり、母親はさも恐ろしそうに身を震わせている。亘としては何と言って良いか困り、笑って誤魔化すしかない。
「はははっ、悪魔だって。母さん何言ってんだ。ボケたか。はははっ」
「親に向かってボケたとか何てこと言うんだい。本当にボケてやるわよ。とにかくね、ここらは大丈夫だけどね。あちこちで悪魔が出てるって噂なのよ。人間なんてバクバク食べちゃうそうよ」
目の前で悪魔がバクバクどら焼きを食べている。
「悪魔が出るだなんてねえ、世も末よね」
「あー、サキばっかずるい。ボクもどら焼き欲しい!」
「あらごめんなさいね……あら? あら?」
「ありがとっ!」
どら焼きを神楽に取ってやりながら、そこで初めて奇妙さに気付いたらしい。母親は人ならざる小さな姿を見つめキョトンとする。お礼を言われたところで目が見開かれ、驚愕へと変化していく。
大声をあげる一歩手前となったところで、サキがキヒヒッと笑いをあげた。ジッと見つめ、指を突きつける。
「どこもおかしくない」
「あら? あら……そうね」
母親は目を数度瞬かせ頭を振る。どこかボンヤリと虚脱したように疲れ顔だ。酷く眠そうな、気怠そうに額を押さえ辛そうに息をつく。
「おや、ごめんね。目眩がするなんて歳かしら、嫌ねえ。せっかくあんたが、皆さんを連れて遊びに来てくれたってのにねえ」
「……ちょっと奥で横になって休んだらどう?」
「あら、でもねえ。せっかく皆が来てくれたのに」
「母さんには苦労かけてきたからな。いいから休んでくれよ」
「おやまあ、あんたがそんな殊勝なこと言うだなんてねえ。それじゃあ、お言葉に甘えて休ませて貰おうかしらね」
亘はそのまま母親を奥へと連れて行った。部屋を出る前に、二体の従魔をジロリと睨むことは忘れない。
神楽は腰に手をあて説教モードでサキを睨む。ビシッと指差し、さも自分は悪くないと主張する。
「だからさ、やり過ぎはダメだって言ってるじゃないのさ。マスターのお母さんに負荷かけるなんてダメだよ!」
「サキ悪くない。神楽のせい」
「そんなことないもん。ボク悪くないもん!」
顔を見合わせ、イーッと白い歯をみせ威嚇しあう。叱られる恐怖という切実な問題があるため、責任の擦り付けあいだ。
七海とイツキが笑いながら仲裁する。
「まあまあ、そんな喧嘩したらだめですよ」
「そうだぞ。チビ悪魔もドン狐も喧嘩は良くないぞ」
その言葉に二体の従魔はピタリと動きを止め、揃って目付きを恐くする。
「チビ悪魔ってなにさ」
「ドン狐とな」
「あっ、やべ」
イツキは慌てて口を押さえるが、神楽とサキはジロリと睨みあげ、恐い目をしてジリジリ寄っていく。つまり恐怖の矛先を怒りに変え誤魔化そうという魂胆もある。
「何やってんだ。おい」
「あっ、マスター!」
神楽はサッと飛んでいくと、精一杯しおらしい顔をする。
「ねえねえマスター、お母さんの様子はどうだった?」
「うん? 横になったら、すぐ寝てしまったな。どうも疲れが溜まってたみたいだな」
「それさ、きっとサキに化かされた負荷もあるね。サキのせいだね。あっ、そだよ。治癒と状態異常回復の魔法をかけてきたげるよ」
「そうだな、それがいいな。頼めるか」
「うん。ボクにお任せ-」
神楽はツイッと飛んでいく。いつもより素早い、例えるなら小走りするぐらいだ。残されたサキは歯噛みするが、亘を前に身を小さくするしかない。既に腰が引けており、首をすくめ震えている。
しかしサキもさるもの。怒られないための奥の手を使い、狐耳と尻尾を出し軽く首を竦め上目遣いをした。
「ふむ」
はたして亘は金色の髪に手を載せると、かき混ぜるようにワシャワシャ撫でた。いつもより少し優しいぐらいの手つきだ。ペタッと左右に倒れた狐耳をコキッコキッと弄りながら、ため息をひとつ。
「次からはあまり負荷をかけるなよ」
「んっ、分かった」
目を細め、してやったりとサキは心地よさそうに喉をならした。そんなやり取りを微笑ましく眺める七海が食卓の上を片付け始める。
イツキは手伝いながら助かったと安堵していた。
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