第149話 期待する方が間違い

 仕事とは組織で行うもので個人でやるものではない。互いに助け合って協力しながら一つの目標に向け成果を出していくのだ。しかし、現実はそうでもない。例えば誰かが産休もしくは育休を取得したとして、職場全体のフォローなんてされず運悪く隣の席だった者にしわ寄せが行くものである。

 つまり何が言いたいかといえば、研修で数日不在にした程度のフォローなんて期待する方が間違いということだ。

「はぁっ……」

 出勤した亘は自分の机を眺め、まず深々とため息をついた。伝言メモだけでも十枚以上あり、バインダーに挟まれた回覧文書や供覧文書に決裁文書が絶妙なバランスで山積みされている。これがたった三日不在にしただけの机の惨状であった。

「ふうっ……」

 それらを横に退け、作業スペースを確保するとパソコンを起動させる。メールソフトを起動させ、また息を一つ。百通近い受信に気を滅入らせながら仕事を始めたのだった。


 残業時間になって、ようやく普通の仕事に取りかかる。結局、不在時の処理をするだけで夜になっている。

 夕食をカップラーメンですませていると、NATSに移籍するかキセノン社に転職した方がマシな気分になってくる。もっとも、良きにつけ悪しきにつけ、職を変えることに対する忌避感があるのだが。

 そして邪魔も入る。

「おや五条先生がこんな時間まで残業だなんて珍しいじゃないですか。これは一体どうしちゃったんですか」

 やって来た高田係長が開口一番、そんなことを言い出す。少々大袈裟で冷やかすような口調だ。

「……これぐらいの時間なら、いつも働いてますけど」

「ええっそんな。いつもすぐ帰っちゃうじゃないですか」

 まるで亘が定時で帰りでもしているような言いぐさにカチンとくる。実際にはこの時間ぐらいまで普通に働いているのだが。

「何か用でしたかね。研修のせいで、けっこう忙しくて」

 付き合いを控えようと決めた相手なので、あまり深入りされぬ態度で相手をする。つっけんどん過ぎるかと思いきや、高田係長は気にした様子もなかった。

「それですよそれ。いや気の毒でしたねえ、事務所長から急な研修を押しつけられてしまって。で、どんな研修だったんですか。教えて下さいよ」

「まあ警察関係での体験みたいなものですよ」

「おっとぉ、それは凄い。じゃあバンバンバンッで銃を乱射したんですね。じゃあ日本刀から銃に鞍替えで、まさか今度は猟銃コレクターとかっ! 私、蜂の巣ですか!」

「…………」

 こういう軽口への対応が、いつになっても身に付かない。適当に無視すれば良いのか冗談で返せばいいのか分からない。

「あっ、怒っちゃいました? やだなダメですよ、短気は損気ですよ。そんな時は藁でもザクッとぶった斬って、ストレス発散してくださいよ」

 巻き藁は何度か斬ったが、ストレス発散で斬るものではない。バカを言うなという気分だ。ふと思うが、十二時間水に浸した巻き藁は人体と同じ柔らかさになると教えられた。今こそ、それが本当か確認してみたくなる。

 苛々を我慢していると、高田係長がツツッと斜め後ろにつく。そこで椅子の背に手をかけジッとしだす。気になり視線を向ければ、顎を突き出し亘が作業するパソコン画面を凝視している。

「何か?」

「五条先生の仕事ぶりが気になるなあ。あっ、どうぞどうぞ。私めのことなど気にせず、仕事して下さいよ」

「…………」

 相手が微妙に嫌がる行動を行い反応を楽しんでいる雰囲気がある。このままでいれば、飽きて去って行くまで我慢するしかない。


 亘は決意した。異界での戦闘を思い出し、腹に力を入れる。

「そういうの、やめて貰えませんかね……ぶった斬ってみたくなっちゃいますよ。はははっ」

 以前なら到底できなかった拒否だ。精一杯の言葉の最後は冗談めかし笑って誤魔化してしまったが、大きな前進であった。

「おっ何だか食い付いてきましたね。五条先生、どうしちゃったんですか。本当に私をぶった斬る気になっちゃいましたか。おお恐いですね」

 思いもかけず亘が反応したせいか、高田係長は有頂天気味で嬉しそうだ。

 これは少し早まったかと思わないでもないが、もう遅い。愛想笑いを浮かべながらバカ話に付き合うしかなかった。

 高田係長のお喋りは止まる様子もなく続く。

「実は私ですね、この前に私はキセノン社の新藤社長と会ってしまいましたよ。いやあ、あの時はどうしようか参りましたよ」

 思わぬところで知人の話題が飛び出し、亘は意外な思いで眉を上げた。

「へえ、新藤社長と会ったんですか」

「いえね。車で信号待ちしてましたら、横に超高級車が並びましてねえ。その車の窓が開いたら、なんと新藤社長だったのですよ!」

「へ、へえ……」

「新藤社長は私の方へと視線を向け、そう! あれは確実に私を見ていましたね。目と目が合い、お互いの心に何かしら通じ合うものがあったのです。今頃きっと私をキセノン社の重役に迎えようと探しているに違いありませんね」

 絶好調な高田係長は机の上に半分尻を載せ、文鎮を弄びながら身振り手振りと忙しげに話を続ける。適当に相づちを打つ亘だが、アホらしくて早く終われと思うだけしかない。

 我慢して相手をしていると、またしても耳を引く話が飛び出した。

「そうだ五条先生にとっておき情報を教えて差し上げましょう。なんと、あのアメリア国から来たコンポトンさんですが、ニュースで言っている会議とは別に秘密会議に出たって話なんですよ」

 亘は辛うじて表情を動かさないことに成功した。それから、むしろ興味なさげに呆れた様子をとってみせる。

「あーそうですか、そらまた凄い情報ですね」

「おっと疑ってますね。ふふんっ、いやいや実はですねえ、私の兄が警視庁勤めでしてね。そこから聞いた話なんで信憑性は山よりも高いのですよ。疑われるなんて悲しいっ!」

「それはどうも」

 その口の軽い兄もきっと高田係長のような性格に違いない。この情報はNATSの正中に流してやろう。きっと探し出し、秘密裏に処分するに違いない。恨むなら口の軽い自分と弟を恨めというところだ。

 ほくそ笑む亘の様子に気付かず、高田係長は上機嫌である。

「まあ、それはそれとして。兄も言っておりましたが最近は何かと物騒だそうですから気を付けませんと。あちこちで行方不明が多いですし、猟奇殺人も多いですから注意しないといけませんよ」

「そうなんですか?」

「ニュースでも話題でしょうに。えー知らないんです? おっくれてるぅ!」

 大きな声をあげ、ゲタゲタと笑う。他の席の同僚たちが迷惑そうに視線を向けてくるが、申し訳なく思うのは亘ばかりだ。当の本人は気にした様子もない。

 亘は胃がどんより重くなった気分だ。

「アパートはテレビ置いてませんし、新聞もとってませんから……」

「いけませんねえ。公務員たる者、常に世情を把握しておかねばダメでしょ。君ぃ、そこんとこどうなの。どうです、今の下原課長っぽかったでしょう」

「……ええまあ、そこそこ」

 高田係長が絶好調になるほど亘のストレスは増大していくばかりだった。

「嘘か本当か、それは悪魔と呼ばれる化け物が原因だそうです。しかも、それを倒す正義の味方までいるとか。まあ眉唾もんですね。ああ、家の母ちゃんと子供らが心配で仕方ありません。早くお家に帰りたい!」

 そう嘆く高田係長へと、亘は心の中で突っ込みを入れた。

 残業時間中にあちこちで喋る時間を仕事にあて、さっさと終わらせて帰れば良いのだ。そういえばそろそろ家を建てたいと喋っているのを小耳に挟んだが、つまりはそういうことに違いない。

 高田係長は天を仰ぐような仕草をした。

「ああ家族が心配なこの気持ち、五条先生には分からんでしょうねえ。ほらあの美人で巨乳な彼女と早く結婚しちゃいなさいよ。先生もヤルことヤってんでしょ、子供ができたら親御さんも安心しますよぉ」

「……そうなりたいもんですね。さってと仕事しましょかね」

 そろそろ亘の我慢も限界だった。喋ることも面倒なほどの気分だ。

 パソコンへと向き直り、わざとらしくマウスをカチカチ音をさせ、忙しさを強調する。もう後ろで見物されようが無視で、どうだっていい気分だ。

 しかし高田係長は満足したらしく素直に去っていった。見れば、また別の人の所でお喋りを再開している。

 とりあえず静かになった。

 コッソリため息をついてから仕事を再開する。毎月報告の、さして変化のないデータの時点修正。上層部が会議に使う資料のとりまとめ。最近ニュースになった不祥事絡みで同様事例がないかの調査もの。

 本来やらねばならない仕事と関係ないものも多い気もするが、それらを片付けていく。

 ひと段落したあたりで亘は天井を見上げた。

「そうか噂になってるのか、悪魔に……正義の味方、ね」

 誰に言うともなく、ひとり呟く。別に独り言が格好良いと思っているのではない。そう思っていた時期もあるが、今は違う。

「DP飽和も考えておかないとな……」

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