第134話 ムリってなんだろう

 そんな志緒の様子をチラリと見ながら男は続ける。

「先日ですね、長谷部係長の同期が結婚したんですよ。その結婚式に職場の皆も招待されましてね」

「同僚の結婚式ね、そりゃまた迷……目出度いことで」

 亘は結婚式にこそ呼ばれたことはない。そんな付き合いのある関係者はいないのだ。けれど、これまで同僚たちの結婚祝いを一方的に支払い続けてきた。結婚祝いに出産祝いのダブルコンボも加えると、それはかなりの額になる。

 いつか自分も貰うからと快く支払っていたのは、もう遠い昔だ。

「当然二次会がありますよね。で、長谷部係長は既婚者の同期に囲まれ、『彼氏をつくれ』や『いつ結婚するの』と言われ続けたわけですね。私もその場にいましたけどね、それはもうしつこく絡まれ気の毒なぐらいでしたね」

「それセクハラじゃないかよ……誰も止めなかったのか」

「女同士の会話に口なんて出せませんよ。しかも酔っ払った女性ですよ。恐いでしょ」

「そりゃ確かに」

「で、長谷部係長は場の雰囲気を壊さぬよう耐えておられましたが、ついにキレたのですね。で、『結婚前提で付き合ってる人が居る』と言い出したわけですよ」

 哀れみを伴った視線が集中する中で、ヤサグレた女が小さく毒づく。

「結婚したからって何が偉いのよ……私は頑張って仕事してるのよ……結婚しないだけなのよ……独身が羨ましい? はんっ……良い人がみつかる? はんっ。だったら紹介してみなさいよ……」

 志緒は暗い顔でブツブツ呟いていたが、亘と目が合うと下唇を噛みながらそっぽを向いてしまった。

「流石にみんな気の毒になりましてね、信じたフリをしてあげたのですがね。ただまあ、同じ独身仲間の桃川係長だけが、空気も読めず嘘だと言いだしまして、はい。それで証拠として、スマホの写真を見せたわけですよ。バカですよね。あれ? どうされましたか」

「何でもない……何でもないんだ」

 男が不思議そうにする前で、亘は目頭を押さえてしまった。どこかで聞いた話で、もう志緒を責める気はない。むしろ応援さえしてやりたい気分だ。志緒は悪くない。

 だが志緒は顔を赤くし、頬を膨らませる。逆ギレ気味だ。

「勘違いされないよう言っときますけど、偶々よ。偶々選択した画像があなただったのよ。そうでなければ、誰があなたなんて選ぶものかしら!」

「この女めが……」

 亘が顔をしかめ、男性陣も呆れたような顔をする。まあまあと背を撫でてくれるエルムの存在がなければ、亘は回れ右して帰っていたところだった。

 憤りを鎮めようと深呼吸していると、古びた冷房からの埃臭さを強く感じてしまう。さらに香水などとは違う、エルムとイツキの年若い少女らしい甘やかな匂いを感じる。


 少し気が落ちついたところに、ガチャリと会議室の入り口が開き廊下の熱気が流れ込んでくる。桃川が戻ってきたが、先ほど志緒にノックがどうこう文句を言ったくせに、自分もノックなしだ。

「課長から、早く訓練に行きなさいって伝言よ……それで、少し聞こえたけど。あなたたち本当に付き合ってるのかしら。もしかして、嘘だったのかしら」

「うぐうっ」

 桃川の顔は相手を追い詰め、糾弾する嬉しそうな顔だ。

 困った志緒が助けを求める目をしてくるが亘は無視した。都合の良いときだけ利用されるほど、お人好しではない。そっぽを向いてみせ、こんなバカバカしい茶番に付き合うつもりがないことを表明しておく。

 やけになった志緒は声を張り上げた。

「も、もちろん本当よ! 嘘じゃないんだから!」

「あーら、どうかしら。疑わしいものね。そうね、嘘じゃないなら、今ここでキスしてごらんなさい」

「キ、キスですって!? な、何でそんなことを……」

「あらあらあーら、嫌ねえ。キス如きで動揺するなんて、やっぱり嘘なのね。長谷部係長ったら嘘はいけないわよ。おほほっ」

「くっ! いいわよ、見てなさい。キスぐらい簡単よ!」

 頭に血が上った志緒が突進するように向かってきた。さすがに無関心でいた亘も心を動かされる。

「こら面白いで、キース! キース!」

「「「あそーれ、キース! キース!」」」

 エルムが声をあげると、それに合わせ男性陣が手を叩きだす。周りに囃したてられながら、亘は近づく志緒の顔を見つめた。


 キス、それは唇と唇を合わせる行為。愛し合う男女が行うファーストステップにして、全ての始まり。特別な行為。もちろん、まだ経験はない。亘はゴクリと唾を呑んだ。

 目の前にある志緒の顔。小憎たらしいヤツではあるが、しかし美人の範疇に入る顔立ちだ。桜色した唇も可愛らしく見えてくるではないか。これは志緒を助けるのための行動であって、決して疚しいものではない。この機を逃せば、いつキスが出来るか分からない。いや、これはあくまでも人助けのキスで人工呼吸と同じだ。

 志緒を引き寄せ、顔を近づけていき唇を触れ合わせ――。

「やっぱりムリ!」

 ドンッと突き飛ばされた亘はたたらを踏んだ。もちろんファーストキスは不発に終わる。

 そして志緒が泣きながら全てを白状しだす。そんな騒ぎに仮本部からも女性職員が集まってくる。そして事情を知るや、囃したてた男性陣が折檻されだした。ただしエルムは要領良く逃げて素知らぬ顔だ。

 賑やかとなった会議室で、亘は悄然としていた。ムリってなんだろうと肩を落とした。

「嘘ついて、ごめんなさい。私、私……悔しかったのよ……」

「いいのよ。こっちこそ追い詰めてごめんなさい。こんなのとキスさせようだなんて、可哀想なことをしてしまったわ」

 桃川が志緒を抱きしめ慰める。互いに謝りあい、自分たちが意固地になってしまったことを謝りさえしている。麗しい友情が育まれる様子に、周りの女性たちは軽く拍手して祝福していた。


 そして桃川がキツイ目で亘を睨んだ。

「それにしても許せない男ね! 人の嘘に便乗して無理矢理キスしようなんて、見下げ果てた男ね。このセクハラ男!」

 理不尽すぎる言葉だが、亘には言葉を返す気力もなかった。頭の中では、ムリってなんだろうと悩んだままだ。代わりにエルムとイツキが憤っている。

「ちょっと待ちなれや。五条はんは、そないな人やないで。据え膳も食べれないぐらいヘタレなんや。きっと人助けと思うたはずや」

「そうだぞ、小父さんを悪く言うな」

「これだから、お子様は……いいこと、男なんてのは下劣なの。女の弱味を見つけたら、そこにつけ込んでイヤらしいことをしてくる狼なのよ!」

「いいや五条はんはムリやで。凄いヘタレなんやで! 女の人キスだってしたことないぐらいのヘタレのはずなんや!」

 桃川とエルムが言い争う横で、亘は自分の心が冷え込んでいくのを感じていた。怒りとか悲しみとか全部ごっちゃになって、すっかり平坦な気分だ。

 しかも周囲のNATSの皆さんの亘を見る目が、何だか可哀想なものを見る目になっているではないか。凄く傷つく。

「少し外の空気を吸ってくる。出発の準備が出来たら教えてくれないか」

 ため息をつくと、会議室を後にした。


◆◆◆


 一階の受付の前を通り、奥まった位置にある休憩スペースの自販機へと行く。辺りは静かで、管理人室から微かにテレビの音が響く。

 銀色の穴あき硬貨一枚を自販機に投入し、押したボタンは当然ブラックコーヒーだ。軽い音がして紙のカップが落下したことを確認すると、液体が注がれていく光景を無言で眺める。

 小さな電子音がしたところで、プラスチックの扉を開けカップを取り出す。一口すすったところで、イツキが軽い身のこなしでやって来た。

「小父さん、あんなのが言うこと気にすんなよ」

 頬を膨らせ、憤った様子だ。

 亘は熱くなった手を持ち替え、また一口すする。Tシャツにハーフパンツ姿のイツキを上から下まで眺めた。多少は女らしいが、その姿は中学生ぐらいにしか見えない幼さがある。

「別に気にしてないさ。それより何か飲むか」

「えっと、じゃあ。シュワシュワするやつが欲しい」

「シュワシュワね」

 もう一口すすり、紙カップを置ける場所を探す。見つけた場所に置くと、硬貨を入れ炭酸飲料のボタンを押した。

 先ほど同様、紙のカップが落下しそこに液体が注がれる。それをイツキがしゃがみ込み、食い入るように見物した。小さな電子音がすると、プラスチックの扉を開け嬉しそうにカップを取り出している。

「あの女、失礼すぎだぜ。俺は、あいつら嫌いだ。ケプッ」

「炭酸を一気に飲むなよ」

「ううっ、今日は恥ずかしいとこばっか見られてるぞ」

 可愛らしいオクビと、車に酔って胃の内容物を吐いたのを見ただけで、随分と大袈裟なものだ。しかし年頃の娘からすると、恥ずかしいものに違いない。

 どう返事をしたものか口の端を歪め亘が困っていると、タイミング良くエルムがやって来た。どうなったかを聞く気はないが、何も言わない様子からすると亘に対するセクハラ疑惑は一応の決着をみたらしい。

「五条はん、そろそろ出発やで」

 明るいエルムの声が公民館の中で良く響く。

「おっとそうか出発しないとな。それで、どこに行くんだっけ」

「何を言うとりますかな、訓練やがな。ボチボチ行かんと時間やんな」

 エルムの指摘に壁の時計に目をやると、確かにそれぐらいの時間だ。これから異界に赴き、NATSメンバーを鍛える予定である。あの桃川も志緒も含めての訓練だ。

 ピタリと亘の動きが止まり、表情がみるみる邪悪に歪んでいく。

「ああ訓練か……訓練、そうか訓練か。ハハハッ、訓練かあ」

「なんやろな、嫌な予感がするのはウチだけやろか」

「奇遇だぜ。俺も嫌な予感がしてるぞ」

 エルムとイツキが困り顔をする先で、亘がニヤニヤと笑う。それはもう嬉しそうな顔で口角を上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る