閑26話(1) 人付き合いは一種の賭け

「おおっと五条先生は、もうお帰りなんですか。早いよ、早すぎですよ」

 ノートパソコンを閉じ仕事を終了させようとする五条亘に、そんな声が同僚から投げかけられた。相手が高田係長だと知り、内心ウンザリとする。早いと言われても時間的は二十一時だ。

 自分の担当する仕事を自分のペースでやっているのに、どうして文句を言われねばならないのだろうか。しれっとして言い返す。

「あれ、何か急ぎの仕事でもありますか?」

「まだ私が残業しているじゃないですか、五条先生だけお帰りになるだなんて狡いじゃないですか」

「そうですか、でもこちらの仕事は完了してますから帰って良いですね」

「いいな、いいな羨ましいな。早く帰れて羨ましいな。そうだ、私の仕事と変わってくださいよ。先生、お願いしますよ」

 口調に粘っこさがある。前から粘着的気質はあったが、今はそこに棘や悪意があるように思えて不快だ。

 そもそも、文句を言う高田係長の残業を見ていると疑問がある。残業時間になると、まず食事に行って姿を消す。仕事も含まれるが、雑談混じりの立ち話をあちらの課こちらの課でしてくる。そして煙草を何度か吸いにいく。

 機械のようにムダなく働けとは言わぬが、それにしたって仕事のやり方を見直す部分は多々あるのではなかろうか。

「担当業務については、上司に相談して貰えますか。じゃあ、帰りますんで」

 そう言って立ち去ろうとする。上司の下原課長は、いろいろとアレな人物だが、仕事の割り振りを一方的意見だけで変えない良識はある。

「帰って巨乳な彼女とお楽しみですか、いよっ色男。羨ましいですなあ」

「…………」

 イラッとする。

 嫌らしい口調で言い放ち、ジイッと反応を窺ってくる。どうやら、こちらが嫌がる反応を待っているらしい。ここで少しでも嫌がる素振りをみせれば喜ばせるだけでしかない。

 だから余裕ある素振りで肩をすくめてみせるしかない。


 人付き合いは一種の賭けだ。

 最初出会った時に相手の性格は分からない。お互いに取り繕ったまま言葉を交わし、少しずつ仲を深めていく。本来の性格や性質が分かってくるのは、ある程度付き合いが深まってからだ。本当の性格が分かった時点では人間関係が構築されており、すぐに縁を切ることもできない。そうなると我慢しながら相手をせねばならなくなる。だから賭けだ。

 今回の賭けも外れだ。高田係長はニヤケた嫌らしい仕草で顔を近づけてくる。

 人の嫌がる部分を突き、ほじくり返して話題にする。こうした性格の人の常として、しつこく纏わり付いてくるので、そう簡単には縁を切れないだろう。

「いやー五条先生は羨ましいですな。美人で巨乳な彼女に、可愛い子供。私なんぞ、足下にも及びませんよ」

「先輩に子供って……え? マジですか?」

 隣の席で聞くともなしに聞いていた水田が思わずといった様子で声をあげる。それに高田係長が面白おかしく剽げた仕草で答える。

「隠し子ちゃんですけど、実に可愛い子でしたよ。いやあ、こう見えて五条先生も、お盛んなんですよねえ。おおっと、口が滑ってしまいました。でも口封じだからって、私を刀でぶった斬らないで下さいよ」

「…………」

 イライラッとする。

 以前、七海やサキと買い物するところを高田係長に見られてしまい、それを誤魔化すため思わせぶりに説明したのが尾を引いている。誤魔化した自分も悪いが、だからといって話題にすべき内容でもなかろうに。


 高田係長がずいっと寄って来た。身体どころか顔が触れそうな距離で、相変わらずパーソナルスペースに対する感覚が合わない相手だ。

「ところでですね、五条先生のお子さんの名前を教えてくださいよ」

「なんで、そんなことを知る必要があるんですか?」

「いいじゃないですか名前ぐらい。五条係長はケチですねえ」

「ケチとかの問題じゃないと思いますけど」

 名前ぐらいのことだが、逆に言えば何故それを知りたがるのか理解に苦しむ。知ってどうするというのだ。それに教えれば、当分しつこく言われるに違いない。

「じゃあ、最初のひと文字だけでも。ア、ですか。イ、ですか。ウ、ですか。エ、ですか――」

「だから教えませんてば」

 サ行に入る前に止めた。それをケチだケチだと騒ぐ高田係長を見ながら、ウンザリする。いや、それを通り越し目の前の男の行動原理が分からず不快さを強めていく。

 そんな不穏な空気に割って入り、水田が紙を持ち上げヒラヒラさせた。場を取りなそうという思惑もあるのかもしれない。

「お話し中すいません。それよかですね、岩戸係長と御大の結婚祝いの件なんですけど、どうしましょう」

「「ああ……」」

 亘と高田係長は揃って息を吐く。それは、やるせないという表現がぴったりくる。

 御大とは、職場に存在するアラフォー女子の仁王強子さんの渾名だ。性格的には悪い人ではない。だがしかし、何と言うべきか側にいて欲しくないタイプの女性だ。

 その御大が猛烈果敢なアタックで岩戸係長を追い詰め……もとい射止め結婚にこぎ着けた。それで最近の岩戸係長は虚ろな目で仕事をしているが、人生には進退窮まる状況もあるのだ。

「僕が結婚祝いの取りまとめしていたらですね、いきなり来て『どこが祝いだ!』とか凄い剣幕で怒鳴ってきたんですよ。やんなっちゃいますよ」

「そりゃまあな、うん。人として岩戸係長の気持ちを察してやろうよ」

「さすがの私も同情を禁じ得ませんです、はい」

 濃いメイクをした鬼瓦をドラム缶に載せ、花柄ワンピースを着せる。そして年齢不相応な乙女ちっくな猫なで声で喋らせれば、御大こと仁王強子さんの完成だ。


 その姿を思い浮かべ、亘は背筋をゾッとさせる。

 七海の協力によって死地を脱したものの、最初のターゲットにされていたのは亘だったのだ。ターゲットが岩戸係長へと移ったおかげで助かったが、その人身御供がなければ、今ここで同情されていたのは亘だったかも知れない。

 改めて七海にへと感謝の念を捧げる。

 しかしだ、しかしピコグラム単位さえ御大に興味や未練はないものの、同じ独身がまた一人減ったことは腹立たしかったりする。男心は複雑だ。

「いやあ、またしても先をこされてしまいましたねえ。次は五条先生の番でございますよ。頑張って下さいよ」

「……はははっ、まあそうですね」

 失礼な言葉に何でもなさを装い応えておく。嫌らしい顔で様子を窺ってくる様子で分かるが、相手は意識して抉るようなことを言っている。だから絶対に気にした様子など見せたくはないのだ。

 亘のストレスは増大していく。


◆◆◆


「ああ、うざかった」

 ウンザリした気分が消えない。どうにも高田係長を相手にしていると気分が悪くなる。

 相手の嫌がる部分まで踏み込んできて、品のない冗談を飛ばし笑う。そうした部分にストレスを感じ疲れてしまう。もちろん人間だから価値観や行動基準が違うのは当たり前で、社会生活を営むなら互いに理解し尊重し合わねばならない。

 だけど、『互いに』だ。

 ストレスを感じるウザイ相手に限って、そうしたことに無頓着で傍若無人に振る舞う。結局、大人しく身を引いた方ばかりが我慢せねばならないのが世の常だ。

 おまけに嫌な人が出現する確率は常に一定の割合で存在する。仮に嫌な人がいなくなったとして、また別の嫌な人が現れるだけ。もしくは今まで嫌でなかった人を嫌な人に認定してしまう。結局人は心に仮想敵を持ちながら生きていくしかないのだろうか。

「世の中って、ままならんな」

 亘は呟きながら物陰へと移動し、周囲に誰もいないことを確認する。そしてポケットからスマホを取り出し画面をタップした。

 その液晶画面からヒョッコリ顔が出る。元気良さそうな、外ハネショートした髪型の可愛らしい少女だ。上半身だけ画面から出し縁で腕を組むと、亘に向かって嬉しそうに笑いかけてきた。

「どしたのさ」

「なんだか疲れた気分でな。急に神楽の顔が見たくなっただけさ」

「えへへ。もうマスターってばさ、そんなこと言っちゃってさ。ボク照れちゃうよ、えへへっ」

「悪いけどな、今日はちょっと外食して帰ろうと思うんだ。神楽たちはコンビニ弁当でいいか?」

 本当はアパートに戻り料理をする予定でいた。そして神楽たちと一緒に食事をする予定だったが、なんだか料理をする気が湧かない。高田係長の毒気にやられた気分だ。

「いいけどさ、ボクは洋風幕の内弁当でね。あと、お菓子も付けてよ」

「分かった。サキは普通の幕の内で、お揚げでも付けておくか」

「きっとだよ」

 画面へと引っ込み最後に手が出てヒラヒラする。それを見るだけで、亘の顔が自然とほころんでしまう。やはり、神楽の存在は偉大だろう。

「何を食べるかな。そういや、外食するのも久しぶりだな」

 独りごちてスマホを懐にしまうと、煌々としたネオンの下に向かい歩き出す。

 その時――周囲で影が動いた。瞬時に何者かが勢い良く迫っていると知覚し、すわオヤジ狩りかと身構え、襲ってくる相手へと対峙する。

 以前なら即座に走って逃げただろうが、今はそうしない。異界の外の世界でも、亘は思ったより好戦的になっていた。

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