閑25話 獣耳に尻尾
金髪の少女は男に捕らわれ、しっかり閉じた口を指でこじ開けられていた。その無遠慮な視線から逃れようとするが、押さえ込まれ叶わない。せめてもの抵抗として一生懸命口を閉ざそうとするが、男の力の前には意味をなさなかった。
男がニヤリと笑う。
「へっへっへ、そう嫌がるな。なに、天井の染みでも数えていれば終わるさ」
「むがーっ! むーっ! むっ!」
無理矢理こじ開けられた口へと歯ブラシが突っ込まれる。そのまま何度も繰り返し前後に動かされる。
それは蹂躙だ。声にならない声をあげ、嫌がろうが無駄。手足を振り回そうにも、ガッチリホールドされ無駄。身体を突っ張らせ逃れようとしても、引き戻されてしまう。涙目で屈辱に耐え、ただ嵐が過ぎ去るのを待ち耐えるしかないのだ。
男が満足すると、少女はぐったり力尽き、涎のように白い泡を零していた。
「よし、歯磨き完了。ほら洗面台で口をゆすいでこい」
「ううっ」
大妖の中の大妖たる九尾の狐。その末の身である少女は長い金髪を垂らし、トボトボと洗面台に向かう。お気に入りのヌイグルミの足を掴み引きずっている。
歯磨きは大の苦手だ。
専用に用意された踏み台に乗り、狐の絵がついたコップで水を汲む。口の中に残った白い泡の薬剤を何度も洗い流す。これは変な味と不自然な香りがして大嫌いだ。
悪魔は虫歯にならないと説明しても耳を貸してくれない。それどころか、磨かないでいると捕らえられ、今のように無理矢理磨かれてしまう。なんたる屈辱か。
かつて玉藻御前の名を持つ九尾の狐は、類い希な美貌と知識によって時の権力者の寵愛を受けていた。しかし、それを面白く思わぬ輩の謀により正体を暴かれ宮中を逐われた。そして逃れたところを討たれ、その身を砕かれ封印されてしまう。
長い年月の後、砕かれた身が集まり現世に復活を果たしたが、それもまた滅ぼされてしまった。辛うじて残ったのが、サキと呼ばれる歯磨きの屈辱に打ち震える少女であった。
「むう」
姿見に映るのは、白い肌に紅い瞳だ。容姿は玉藻御前の系譜に恥じぬ美しさがある。白いシャツ一枚の姿だが、むしろその簡素な衣装こそが美しさを引き立てるだろう。
首を傾げると、長く伸びた金の髪がサラサラ揺れる。それを両手で掴んで持ち上げ、左右に引っ張りながら角度を変え眺めていく。
「どしたのさ、ツインテールにでもするの?」
巫女装束の元気よい小さな少女が飛んできた。神楽と呼ばれる小妖精で、サキと同じ人間に使役される仲間である。
不思議そうな顔で覗き込んでくる様子は、あっけらかんとした脳天気なものだが侮ってはいけない実力の持ち主である。並の悪魔では及びもつかぬ魔法の使い手なのだ。
「ふたつ結いのことか。しない」
「似合ってるよ。ボクもやってみよっかなー。どうかな」
「きっと似合わない」
サキは斜め上で浮遊する相手にきっぱり否定する。神楽の外ハネした短い髪では子供っぽくなるだけだろう。正直な評価に小さな頬が膨れる。
「ぶうっ、それってば酷いや。いいもん、この髪型が可愛いってマスターが言ってくれたもんね」
「サキも言われた」
その言葉にますます神楽が頬を膨らませる。サキにではなく、軽々しく可愛いと述べる契約者に対するものだ。
サキが髪を握ったままでいると、神楽がフウと息を吐いて不思議そうに見てきた。
「やっぱりさ、髪型が気になるの」
「違う。魅力ないか?」
シャツをめくりあげ、頭の上に被せてみる。薄く膨らみだした胸と滑らかな腹部が現れる。芸術品のように美しくはあるが、さりとて男が喜ぶ魅力というものではない。しかも白いお子様パンツだ。
神楽は困ったように首を傾げる。
「えーっと、まあ。ボクは可愛いと思うよ」
「でも、式主何もしてこない」
式とは使役することであり、その式の主で式主である。
「……そりゃまあ、マスターはヘタレだし」
タマモ経由で玉藻の記憶を受け継いだ感覚からすれば、髪上げの儀式を行うぐらいの年齢は超した姿だ。つまり子を成す行為も充分に行うことができる。もっとも、ある事情によってそれは、まだ出来ないのだが。
それでも自分の魅力により式の主を夢中にさせ言いなりにさせるつもりが、全くもって籠絡できずサキは自信喪失中だったりする。
「頑張ってるのに」
「確かにね。でもちょっと、おイタが過ぎるかもね」
「う、反省する」
神楽の言う、おイタとは面白半分で誘惑したり、淫夢をみせたりすることだ。それで亘はよく下着を汚してしまい、朝方こっそり洗いに行くはめになる。
その様子を思いだし、サキはキヒヒッと小さく笑った。
「言っとくけどさ、ナナちゃんとの『約束』を忘れてないよね」
「ん、当然」
『約束』は悪魔にとって大切なことだ。人間と違い、よほどのことがない限り守る。しかも、お揚げ食べ放題の条件がついた『約束』だ。サキはきっちり守るつもりでいた。
その『約束』とは式の主との仲を取り持ち、その間は手を出さないというものだ。
簡単に終わるだろうと軽く考え承諾した『約束』だが、上手くいかず焦っていたりする。式の主のヘタレ具合を甘く見すぎたのが失敗だ。まさか、ここまでと誰が想像しただろうか。お陰で本当の意味で手も出せず、せいぜいが寝ている間にDPを頂くだけだ。
サキがため息をつくと、向こうの部屋から声がかかる。
「おい、そろそろ異界に行くぞ。準備しろよ」
「了解だよ。さあさ、早いとこ行こうよ。今日もマスターと一緒に悪魔退治だよ」
「んっ」
もう一度、コップに水を汲み、サキは口をゆすいだ。完全に歯磨き粉が消えたと確認すると、踏み台から飛び降りた。
自らの式の主へと走ったが、頭にシャツを被ったままだったため怒られてしまった。
◆◆◆
異界の地へと侵入すると、存在感を増した亘に満足感を覚えサキはつい嬉しくなってしまう。抱きつき鼻を押しつけ息を吸い、うっとりするのだ。至福の一時である。
しかし邪険に引き剥がされた。
「やめい、くすぐったいだろ」
「むうっ!」
むくれたサキに構わず、亘が歩きだす。DPで出来た棒を実体化させ肩に担ぐ様子は気楽なもので、鼻歌交じりという表現がぴったりくる。
「さあさあ、早く悪魔が出てこないかな。DPどこかな」
「また、そんなこと言っちゃってさ。マスターってばさ、ほんとに呆れちゃうよ」
両手を上に向けた神楽が頭を振り、深々とため息をついている。仕草こそしないものの、サキも同じ気分だ。古の人間たちは異界に行く時点で死を覚悟し、家族と別れを告げさえした。それがどうだ、まるで行楽に行くような態度ではないか。呆れるしかない。
「最近は破壊した異界が、また現れるまで早い気がしないか。それ自体は、ありがたいことだが」
「そうかな。ボク何だか心配だけどさ、サキはどう?」
「ん、これは異常」
玉藻御前が生きた時代にも異界は多数存在していた。だが、一度破壊された異界は長い月日を経ねば復活しなかった。短期間に復活することはない。
そもそも、異界内に存在する悪魔の数が多すぎだ。際限なく湧きだし、異常なほど過密している。
これも全ては人間のせいだ。天敵を失ってしまった人間は異常に繁殖し、その数を際限なく増やし続けている。そして膨大なDPを発生させ、世界へと撒き散らしていく。この異常な異界の数と悪魔の発生は、それが原因だ。
今は丁度、分水嶺辺りになる。
じきに満ちすぎたDPが異界を弾けさせ、その内部で異常発生していた悪魔が世に溢れだすだろう。DPの濃い異界から外に出された悪魔は、水から出された魚が水を求めるようにDPを求め行動するだろう。DPを蓄えた生物、つまり人間を襲うのだ。
「これから大変」
その時に、自らの主を守らねばならない。守る必要がないほどの強さはあるが、絶対の存在ではないのだ。実際に先日も死にかけていた。
タマモを倒す実力があるくせに、その力を使わず人間の女を庇って死にかけるという、実に愚かな行動を取った。そんな主だからこそ、愛おしく守らねばならない存在なのだ。
それにしてもだ。
あの時はサキ自身でも思わぬほど頭に血が上った。大蛇を引き裂き、滅ぼすことしか考えられなくなってしまったほどだ。それで溜め込んでいた力を解放してしまった。
どうやら思っている以上に、この主に入れ込んでいるらしい。七海との『約束』が完了した時が楽しみでならない。DP摂取のためではなく、手を出せること自体が待ち遠しい。待てば待つほど、その時の喜びは大きいだろう。今は我慢だ。
その頭にコツンと棒が当たる。
「ボサっとしないで行くぞ」
「痛い、叩いた」
「なんだ軽くだろ。そう痛がるな」
亘は文句を言いながら、それでも小突いた頭を撫でた。金の髪をぐしゃぐしゃと掻き回すような適当な手つきだが、それでもサキは嬉しげにキヒヒッと笑った。
撫でる動きが止まり、サキは訝しげな顔をした。
「なあ、サキは大狐になれるのだよな」
「うっ、うん」
その言葉にサキは身を強ばらせた。あまり聞かれたいことではない。
「だったら……」
少し言い淀む亘に対し、サキは気付かれないよう肩を落とす。
多少DPは溜まってきている。その力を使うのは、やぶさかではない。使えと命じるのならば従おう。ただ、利用されるのが少し残念だ。
利用されたあげく、最後には逐われ滅ぼされた玉藻の記憶。それがあるだけに、そうして利用されることが悲しくもあった。結局のところ、人間とは他者を利用するだけなのか――。
「じゃあ、狐になるのを途中で止められるか。具体的には、耳と尻尾を出したあたりで」
「は?」
耳を疑った。長きにわたる玉藻の記憶でも、そんなことを言われたことはない。瞬きして自らの主を見つめるが、その顔はとても真面目なものだ。
「サイズも他の部分も今のままでな、耳と尻尾だけを出すんだぞ。さあ、やってくれ」
「マスターってばさ……サキできる? これ言いだしたら聞かない顔だよ」
神楽が呆れたように深々とした息を吐く。その言葉の通りに、亘は自分の素晴らしい思いつきに、ワクトキしながら目を輝かせている。
そんな変化は考えたことすらなかったが、出来ないことはない。集中し変化を途中で止め、言われたように耳と尻尾を生やす。尻尾は一本だ。
「……こうか?」
「よっしゃああ、キター! 獣耳に尻尾!」
その瞬間、亘が叫びをあげる。サキの頬を両手で挟み揉みくちゃにすると、そのまま抱き上げ一緒にダンスするよう足を踏みならす。かつて、ここまで変な様子は見たことがない。
「ぐえっ」
「マスター落ち着いて、落ち着いてってばさ。サキが潰れてるよ」
強く抱きしめられたサキは白目を剥いていた。慌てて神楽が止めに入るが、喜ぶ亘はお構いなしだった。
もみくちゃにされ獣耳の先を噛まれ、しかしサキは嬉しかった。このバカで愚かしい人間が主で良かったと心底から思っている。ただまあ、なぜ裸身より耳と尻尾に反応を示すのか。そこだけが、解せぬのだが。
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