第128話 泳ぎの練習
異界の脱出ポイントに向け、亘はトボトボとした足取りで向かう。徐々に異界の崩壊が始まっており、辺りには軽い地鳴りの音が鳴り響いている。今度こそ完全に崩壊するのだ。
亘の手にあるのは、海パンを穿いて不要となった七海のパーカーだ。一度腰に巻いた以上はそのまま返すわけにもいかない。何せ直に触れたのでクリーニングしてから返すか、買って返すのが礼儀だ。
遠巻きにしたキセノン社の社員の中から法成寺が走って来た。
「五条さーん。さっきの力の原因を調べさせて下さいよー。ね、ちょこっとだけ解剖させてよ。お医者さんごっこみたいに優しくするから」
「…………」
「あっもしかして露出系のを気にしてるの? いいですよー、同じ趣味の知り合い紹介しますからー。元気出して下さいよー」
「こらーっ! そこっ、マスターに変なこと言ったらだめ。しっしっ」
「そんな神楽ちゃんが……ああ、でも。これはこれでいいかも」
神楽に犬でも追い払うような仕草で邪険にされるが、しかし法成寺は嬉しげに身悶えするだけだ。怒った神楽に蹴られるが、やはり嬉しそうにぶひぶひ言って這いつくばっている。
いつもの亘なら止めるところだが、今はそんな気分ではない。
「おじさんってば凄いよね。外国の人並みに凄いよ。ねえキララと、お付き合いしようよ。うん、本気で尽くすから。キララとお付き合いしようよ。ねえってば!」
興奮した面もちのキララが駆け寄ってきたが、媚びた甘えた声だ。今にも飛びつかんばかりの様子は異界に入る前であれば、多少は嬉しかったかもしれないが今はウザいばかりだ。
「あっち行け。喰うぞ」
牙を剥いたサキが追い払おうとする。しかし、煩悩の塊となったキララは亘に熱視線を送ったまま去ろうとしない。なお、キセノン社の女性社員にも同じく亘へと熱視線を送ってくるのが何人かいる。流石に迫ってはこないが。
「キララはん、あっち行きなれや。五条はんはそないなこと言われてもあかんで。悪いけどな、ご期待には添えんで」
「そうですよ。五条さんが困ってます」
「なによー。あんたらで独占するつもり? ちょっとぐらいいいじゃないのよ」
「違います!」
顔を真っ赤にした七海が珍しく声を荒げるが、エルムは少し困った顔で亘を見ると気まずく視線を逸らすだけだった。それでもサキまで含めて協力し、キララをブロックして追いやっている。
周囲の振動が強まり、視界が細かく上下しだす。いよいよ異界が崩壊するらしい。
「はい、皆さんが整列するまで三分もかかりました。こんなことでは、キセノン社の社員としての規律が守られていませんよ。大人なんですから、整列するぐらい言われなくたって簡単にできますよね」
「中堂さん、それはいいですから早く異界から出ますよ」
「あ、すいません。あまりにも皆が不甲斐ないんで、つい持ち前のリーダーシップ発揮しちゃいましたよ」
勝手に社員をまとめようと仕切る中堂を藤島秘書が窘める。しかし、シレッとした回答に苛立たしげにこめかみを揉んでみせた。まあまあとチャラ夫が宥めるため、それ以上は何も言わない。
「それでは、脱出しましょう」
ぞろぞろと揺らめく空間にくぐり抜けていく。亘も物憂げに歩き、異界から脱出したのだった。
◆◆◆
燦然とした太陽の輝きの下、浜辺には熱気が満ちている。
辺りは相変わらず水着姿の男女が闊歩し、思い思いに夏のひとときを過ごしていた。そんな誰もが楽しそうで笑いさざめく浜辺だが、亘は膝を抱えドンヨリ落ち込んだままだ。
本当なら布団でもひっかぶって亀になりたいところだが、そうもいかない。両脇には七海とエルムがおり、背中にはおぶさるようにしたサキの姿があり、少なくとも傍目には凄く羨ましい状況だ。
人形のフリした神楽もこっそり声を張り上げる。
「ほら、マスターってばさ元気出しなよ。今更恥の一つや二つ増えたってさ、どうせ変わんないからさ」
「んっ、確かに今更」
「そうやで気にしなさんな。でもな、ほんまパオーンってなるんやな。パオーンって」
まったく慰めになってない言葉で、亘はますますドンヨリ肩を落とし項垂れてしまう。そのパオーンな光景を思い出したのか、七海は恥ずかしげに顔を赤らめている。
「もお! エルムちゃんってばさ、マスターは傷つきやすいんだからね。そーゆーことは、見て見ぬふりして黙ってあげなきゃダメだよ」
「あははっ、こら失礼。でもなあ、あないなるんなら練習しとったら大変やったんな」
「エルちゃん、練習ってなんですか?」
「あっ! ……ええとな……ほら泳ぎの練習やで泳ぎの。五条はんも落ち込んでおらんと、泳ぎの練習しよか。身体を動かせば気分も変わるもんやで。ほな海行こかー」
誤魔化すように笑ったエルムが亘の腕を取ると、海へ行こうと引っ張る。
「……なんでしょうか。何か怪しいです」
腑に落ちない顔をする七海だったが、まあいいかと泳ぎの練習に協力することにした。エルムと一緒になって亘の腕をとる。
水着姿の女の子に両手を引かれる姿は、実に羨ましいものだ。しかし、泳げない亘からすると恐怖の地へと連行される気分である。落ち込んでいた気分もどこへやら、必死に止めさせようとする。
「ちょっと待つんだ、水中というのは人類が生息できない環境だろ。つまり泳ぐという行為は人類として間違った行動だとは思わないか」
「思いませんね」
「思わんで」
「人体は水に浮くように出来ていない。つまり沈むしかないってことだろ。そんな危険な場所にわざわざ近づく必要はない」
「浮きますよ」
「そうやな」
ズルズルと引かれていく。亘が本気になって抵抗すれば、いくら相手が二人がかりだろうが敵わぬものではない。しかし問題は相手が水着という点だ。若さ溢れる女の子の素肌を前に、どうしてヘタレな男が抵抗できようか。下手に抗えば、どこをどう触ってしまうかも分からない。
周囲の羨望を受けつつ、けれど亘は絶望のまま海へと連れ出された。
「いやあ、兄貴も大変っすねえ」
「チャラ夫様は七海さんやエルムさんの方が羨ましいですか」
「何言ってるっすか。俺っちには綾さんがいるっす。今の俺っちは羨ましいより、羨ましがられる方っす」
「もうっチャラ夫様ったら……でしたら、背中にオイルを塗って下さい」
「了解っす!」
チャラ夫は脳天気にサンオイルを塗りだした。こちらもこちらで、周囲から羨望を受けているのだった。
亘は足がギリギリつく深さで悶えていた。波の動きで身体が押し上げられ、そうなると足がつかない状態となる。早いところ立ち泳ぎをすればいいのだが、固まってしまってそれどころではない。
泳ぎの練習相手をする七海が手を持って引っ張り促すが、全くダメだ。
「ムリだ、これ以上はムリ」
「そうですか、うーん。まずは、この辺りで少し慣れましょうか。恐かったら私に掴まって下さいね」
「ウチでもええで。ほんら、掴まってええんやで」
エルムも軽やかに立ち泳ぎしながら周囲にいてくれる。泳ぎの練習としては、素晴らしく恵まれているに違いない。
そこに浮き輪姿のサキがバシャバシャと泳いできた。跳ね上げられた海水を目や鼻に浴び、亘は完全に怯えてしまう。
「あわわわ、もうダメ。溺れる、助けてくれ!」
そのまま恥も外聞さえなく、亘は手近な七海へとしがみ付いた。
水中で軽く抱き合う状態だ。冷たさのある海水の中で温かな体温を感じ、七海は触れあう素肌の感触に恥じらいつつ嬉しそうな顔となった。少しばかり海辺のビーチで浮かべるには難あり表情にも見える。
面白くなさそうな顔をしたエルムは、サキの浮き輪を掴んで押しながら泳ぎだした。サキに握られた人形のフリする神楽が情けなさそうな声を出す。
「マスターってばさ、なんて情けない姿なんだろね。ボク悲しいや」
「仕方ない」
「ナーナ、あんた深いとこ誘導しとらせんか」
「気のせいです」
キリッとした表情で七海は否定してみせた。しかし直前の表情を見たエルムがそれを信じることはない。そのまま浮き輪を押しながらスイスイと泳ぎだす。少しばかり拗ねた顔になる。
「まあ、ええんやけどな」
「速い」
「エルムちゃん凄いや。もっと沖まで行こうよ」
サキがきゃっきゃと喜びの声をあげ、神楽も人形のフリを忘れ手を挙げ歓声をあげている。
「ようし、そんなら行ったろやないか」
「溺れる――」
「大丈夫ですよ。あっ、そんな強く……」
七海に抱きつく亘は何も分かっていない。浜辺から見れば海でいちゃつくバカップルに見えるかもしれないが、しかし少なくとも亘は助かろうと必死であった。
主観的には恐怖の水泳練習ではあるが、亘は生まれて初めて青春ぽい夏の海を過ごしたのだった。
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