第126話 危険な存在

 ゆっくりと海法師が歩きだす。亘が見たところ、位置関係からしてどうも間に合いそうにない。距離もあるが、一歩の大きさがまるで違う。

『贄を喰らうてくれる』

 陰々滅々としながら、よく通る声が辺りに響く。喋る異界の主となれば、これまでの経験から厄介な悪魔であることは間違いない。

 青白い足がザブザブと水を跳ね上げ、巻き起こった波がキララの足をすくった。それでバランスを崩したキララが尻餅をつき、我に返ったらしい。キョトキョトと辺りを見回しだす。

「あんれま、ここさどこよ。キララどうしてここに、ってぇええ! 何あれキモッ、キモーッ、それに生臭っこっち来んなぁ!」

『贄、贄の娘よ』

「ぎゃあああっ!」

 青白く巨大な手が、叫ぶキララを捕らえた。そのまま顔元まで運ばれていき、騒々しい悲鳴も気にせず生気のない顔がニタッと笑う。次の瞬間それが憤怒へと染まる。

『なんだこれはぁーっ! 生娘ではないではないかぁー!』

「ほげーっ!」

 放り出されたキララが砂浜へと墜落し、半ばめり込む。いくら砂とはいえ、痛いものは痛いだろう。神楽が回復したので命に別状ないだろうが、倒れたまま足がヒクヒクしている。

 海法師がジロリと辺りを見回し、七海とエルムに目を留めた。すると、憤怒の顔が再びニタッと笑う。その顔は助平な親父顔だ。

『おお、贄が2人もおるではないか』

「えっ。じゃあ2人とも処、ぎゃああ!」

 こんな時にバカを言いかけたチャラ夫だったが、自分の従魔に食い付かれ悲鳴をあげた。最近のガルムによる制裁は厳しく、かなり痛そうだ。


 キララを回収しつつ、しかし亘は戦慄していた。

 この海法師は絶対に倒さねばならない。放置するには、あまりにも危険な存在だ。危険すぎる。そう、とても危険だ。どうやってか不明だが、経験者未経験者の判定ができてしまう。

 それが男に対しても判定できるとなれば。もしチャラ夫の前で判定結果を口にされたとしたら……亘は身を震わせ、海法師を必ずや倒さねばならぬ敵と認定した。

「こいつは危険な敵だ。急いで倒さねばいかん!」

「でも、まずはキララちゃんを逃がした方がいいのではないでしょうか」

「ダメだ! 奴は今ここで倒す! DPとか経験値とか関係ない! 奴は危険だ、早急に倒さねば!」

 亘が目をメラメラさせ言い切ると、神楽が同意して頷く。ただし、真意は曲解される。

「そだね。あいつナナちゃんとエルちゃんに目を付けたからね。異界の外まで影響を与えるならさ、今ここで倒さないと危険だよ」

「ウチらのこと、そないに思って……」

「五条さん……」

 エルムが感動の面持ちで目を潤ませる。もちろん、七海は言うに及ばず赤い顔でテレテレしている。その誤解を否定するほど亘は愚かではない。

「そうだ早いとこ倒さないと、ダメなんだ。さあサキよ、昨日みたいに大狐になってサクッと倒してくれ」

「DP不足。しばらく無理」

「くっ! だったら魔法で集中攻撃だ!」

 亘の指示で魔法が乱れ飛び、海法師へと叩き込まれる。だが――。

「効いてない!?」

「マジッすか」

 爆発の中から海法師が平然と姿を現わす。あれだけの魔法を食らっておきながら、さしたるダメージを受けた様子は見られない。足元の水を跳ねあげながら、一歩また一歩と進んでくる。

 その目は食い入るように七海とエルムを捉えたままだ。エロ親父のような熱視線に晒され、二人の少女は自分の身を抱きしめ総毛立ちながら後ずさった。

「ボクが見るに、効いてないわけじゃないよ。回復してるんだよ」

「水原因」

 神楽とサキが指摘する。注意して見ればその通りで、アルルの放った風の刃が海法師の胴を切り裂き傷を与えると、それが見る間にふさがっていく。なお、ムカデのような存在が傷口の中で蠢く様子が見え、吐き気を催してしまう。

 サキの言葉足らずな説明から考えると、水に浸かっている限りはダメージが回復してしまうのだろう。つまり海法師を倒すには、まず水から出さねばならないということだ。

 それが如何に難しいことか。七海とエルムを囮にして、少しずつ陸におびき寄せるべきだろうが……。

『その女どもを寄越せ』

「くっ、万一にも二人が掴まったら拙い。薄い本的な展開になりかねん」

「薄い本? ねえマスター、それってなんなのさ」

「なんでもない。って来たぞ、避けろ」

 亘は投網のように投げつけられたボロ布を避ける。磯臭さと汗臭さが混じり、腐った海産物系の空気が風圧とともに押し寄せた。


 神楽やサキが魔法で攻撃するが、直ぐ回復されてしまうため怯ませるぐらいの効果しかない。自分の力を過信し過ぎ、あっさり倒せると考えていたのが間違いだったろう。グズグズせず海法師が余計なことを口走る前に撤退すべきだ。

 亘が逃げようと決断すると、離れた位置で寝かしておいたキララが目を覚ます。贄としての価値がないため、どうせ海法師に狙われやしないと放置しておいたのだ。

「何よアレ、アレ何よ。キララ、分けわかんない。もう嫌ぁ! 良い子にするから嫌ぁ!」

 パニック状態で走って来ると、何故か亘に抱きついてくる。キララは水着姿で亘は海パンだけだ。押しつけられた胸の感触は、つい昨日に見た光景もあって生々しい。

 だが嬉しいより何よりも、今は戦闘中だ。

「おいこら離せ、目の前に敵がいるんだ」

「嫌ぁ、嫌嫌嫌。もう嫌ぁ、皆嫌い。パパ助けてよ!」

「パパでもないし、もっと若い! こらっ水着が脱げてるだろ、ちゃんと着ろ」

 なんとかキララを引きはがすが、その胸が丸見えで亘までパニックになってしまう。そんな隙を海法師が見逃すはずもない。

「マスター危ないよ!」

 そこにボロ布が投網のように投げかけられた。

「くそっ!」

 なんとかキララだけは突き飛ばし逃すが、亘はそのまま避けようもなく網に絡まれつぃまう。周囲をチクチクした粗い繊維に囲まれ、汗と磯臭さに腐った海産物が混ざった臭いに包まれ吐き気さえする。しかもヌルヌルとした水垢のような滑りまであった。

「五条さん!」

 亘は逃れられぬまま水中へと引き込まれていく。後を追い助けようとした七海をエルムが止める。そんなことすれば、飛んで火に入るなんとやらだ。

「行ったらあかん。あん化け物が、手ぐすね引いて待っとるやろが!」

「でも五条さんが!」

「あん人なら大丈夫や!」

「そうっす! 兄貴なら大丈夫っす。それよか二人とも離れた方がいいっす。ついでに、キララちゃんをお願いするっす」

「誰か助けてよ、もう嫌。キララお家帰る」

 泣きじゃくるキララは胸を隠そうともせず、子供のように泣きじゃくるままだ。チャラ夫は不快そうにそちらを一瞥しただけで、あとは海法師を睨んで警戒する。

 そして神楽はサキに捕らえられていた。

「はーなーせー!」

 即座に亘の後を追いかけようとしたところを掴まれてしまい、じたばた暴れながら声を張り上げる。

「水の中、神楽は無理」

「放してよ! マスターは泳げないんだから!」

「「えっ!」」

 予想外の言葉に全員の顔が青ざめる。

 亘は泳げない。子供の頃、従兄に面白半分で川に突き落とされ溺れかけて以来、足がつかない水に入ると身体が強ばってしまうのだ。


 そして――亘は硬直したまま遠く頭上の海面を見上げ、ブクブクと海底へと沈んでいた。


◆◆◆


 異界の中に次々と人影が走り、七海たちの側へと駆け寄る。それは藤島秘書をはじめとするキセノン社の応援部隊だった。戦闘班のメンバーだけでなく、中堂や法成寺の姿まである。

「チャラ夫様、御無事でしたか」

「やあ、お嬢さんたち恐かったかい。僕が来たからには安心してくれていいよ。よしよし、恐かったね」

「キララとっても恐かったのぉ」

 イケメンな中堂の姿をみると、キララはたちまち態度を変えシナを作りながら縋り付いてみせた。もちろん中堂は爽やかな笑顔で肩を抱き寄せ保護している。

 新たに現れた手勢に海法師は警戒し動きを止めた。そのままキセノン社の女性陣をジッと見つめ確認するが喜ぶ様子はない。あくまでも狙いは七海とエルムのままだ。どうやら贄として不適合らしい。

 そんな対象外の一人である藤島秘書がチャラ夫の元に駆け寄る。

「綾さん、来てくれたっすか」

「その呼び方は二人きりの時に。いえ、それより五条様はどうされましたか。姿が見当たりませんが」

 藤島秘書が心配そうに周囲を見回し、チャラ夫は泣き出す一歩手前の顔で答える。

「海に引き込まれてしまったっす。しかも兄貴は泳げないらしいっす! あいつは倒せないし、どうしていいか分かんないっす!」

「五条様がやられたと!?」

「まだです! 五条さんは無事です!」

「舞草さん、落ち着いて下さい……」

 藤島秘書は海法師を倒せない理由を聞き、目に迷いと焦りを浮かべた。

 普段の厳しい態度で誤解されることも多いが、彼女は非情ではない。五条亘に対して悪い感情は持っておらず好人物と捉えている。むしろ軽い友人めいた感覚さえ持っているのだ。つい虐めてしまうぐらい気に入った相手である。

 しかし同時に多数の部下を預かる立場でもある。五条亘のピンチにどうしたものか迷う藤島であった。

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