第108話 半鐘が打ち鳴らされ
テガイの里で飼われる犬たちが吠えだし、木々に休む鳥たちが一斉に鳴き声をあげ夜空へと飛び立つ。
「!」
まだ起きていた里人たちは、文字通り押っ取り刀で武器を引っ掴むや家の外へ転げ出た。寝ていた者は一瞬で飛び起きると、寝間着のまま外へと飛び出していく。
テガイの里では開きっぱなしとなった鍛錬場の異界から、常に前鬼後鬼の気配が流れ出している。それが人払いの結界となって、里に余計な人間を近づけさせない。だが今は、その慣れ親しんだ気配を塗り潰す全く別の異様な気配が噴き出しており、それが里人たちの背筋を粟立たせていた。
危急を知らせる半鐘が打ち鳴らされる小さな広場には、怯え戸惑う里人が集結していた。
「なんだこれは! この気配は一体なんだ」
「場所は鍛錬場の中からで間違いない」
「バカな、鍛錬場に強力な悪魔が出現したとでも言うのか!」
「皆鎮まれ。鍛錬場は前鬼様と後鬼様の御膝元よ、案ずる必要はない」
現れた長老が杖を突き鳴らし、里人を宥めようとする。だが、当の本人でさえが自分の言葉に自信を持てない様子だ。
「トト様、俺たちの里は大丈夫なのか」
「案ずるでない。こんな時こそ冷静になるのだ。それにしても、この気配……まさかそんなはずは……」
家族を従えた藤源次は強烈な気配に、どこか覚えを感じていた。
◆◆◆
「コの糞があああっ!」
瓦礫の中から前鬼の巨躯が飛び出し、身に付いた木片をまき散らし突進する。踏みつけた足の下で地面が削れ、砂塵を巻き上げ進む姿は、大型ダンプさながらの迫力だ。威力も牛鬼のそれと比較にならぬだろう。
だが、亘はそれを片腕一本で止めてみせる。そのまま驚愕に目を見開いた前鬼の顔をぶん殴り、ズッシリした巨躯を、またしても吹き飛ばす。
「ンがああああっ!」
岩壁へと勢い良く叩き付けられた前鬼は、力を失いズルズルと崩れ落ちていく。地面に倒れた身体はピクリともしない。
それを前に、亘が笑い声をあげる。
「はははっ。この程度か、伝説の鬼がこの程度か!」
「嘗めるナァ!」
咆えたのは後鬼だ。青白い肌を怒りに紅潮させ、タンッと地を蹴る。その動きは、残像すら感じさせるほどの素早さだ。美しい顔は怒りに歪み、口からは鋭い牙が覗く。長い髪を振り乱し腕を振るう姿は、まさに鬼女そのものだ。
「遅いな」
亘は軽いスウェーをしつつ、振り回される爪をヒョイヒョイと避けてみせる。その動きには余裕さえあり、目の前に迫る鋭い爪を楽しんでいるようにさえ見えた。
後鬼の表情がみるみる怒りに満ちていく。着物の裾をはだけさせ、艶めかしい足をさらけ出し蹴りを放つが、それさえも掠らない。身の動きには自信のある後鬼に焦りが浮かぶ。
「この人間がちょこまかト!」
「退けい後鬼!」
「んっ?」
声は上から降って来た。同時にニヤリと笑った後鬼が大きく跳び退き、見上げた亘へと前鬼が落下する。組んだ両手がハンマーのように振り下ろされた。
――ドオンッ!
全体重を載せた強烈な一撃が、亘を地面にまで叩きつける。その威力は地面を凹ませるほどでさえあった。確かな手応えで、小癪な人間を叩き潰した前鬼は、ほうっと息を吐く。
「イつつつ。ナんて奴だ。コこまでやられたのは、久方ぶりだ」
前鬼は殴られた顔に手をあて、痛む首を捻りつつ後鬼の方を振り向いた。
動きの素早い後鬼が相手を釘付けにし、そこに前鬼の強烈な一撃を与える。今の攻撃でも、後鬼は焦りつつも巧みに亘の動きを誘導していたのだ。この阿吽の呼吸で行われるコンビネーション攻撃は、夫婦ならではだ。
「やったネ、お前さン」
「オうよ。ナかなかに恐ろしい奴だった……ハっ?」
「お前さン!?」
前鬼は振り向き、今の攻撃が全く無意味だったことを知る。
渾身の一撃で叩き潰したはずの相手が、何のダメージも感じさせない仕草で土埃を払っていた。
「バカな。効いてないだと」
「いや、今のはかなり痛かったぞ。はははっ! これだよ、これ! 思いっきり身体を動かして、全力でぶつかり合う! さあ、もっと戦おう! 心行くまで戦おうじゃないか!」
「ッ!」
楽しそうに笑う様子に、前鬼が僅かに後ずさった。目の前にいる相手は、単に強いとかではない。常軌を逸した、戦いを楽しむ戦鬼である。一番戦いたくない部類の敵だ。
「どうした、足が震えてそうだな。そら、お返しだ」
亘が軽やかにさえ見える動きで突進する。
ついっと伸ばしただけの掌底が前鬼を弾き飛ばすと、ビリヤードのように背後にいた後鬼にぶち当てた。巨躯に遮られ、何が起きているのか判別していなかった後鬼は避けることも出来ない。
「ウごおおぉ!」
「きああア!」
一撃を食らった前鬼よりも、その巨体の下敷きになった後鬼の方が苦しそうだ。
亘はそんな二体の鬼を眺め、首をコキコキさせる。全能感を伴う力を解き放ちたくて堪らない。思う存分に力を振るい全力を出してみたかった。
「まだ足りない。まだ満足できない。まだ暴れ足りない。なあ、もう少し付き合ってくれよ。まだ動けるんだろ」
「クッ、力に呑まれておるのか。ダが!」
前鬼は腹這いの姿勢から必死に立ち上がると、足を引き摺りながら亘へと向かっていく。両手を広げ立ちはだかってみせる。
「ダが後鬼に手出しはサせぬ」
「お前さン……」
懸命に己の愛する者を守ろうとする。悪魔にも愛がある。そんな情景だ。それを亘は冷たい目で見つめ、そして――今までで一番強烈な跳び蹴りを食らわせた。独身男の目の前でラブロマンスごっこをするなど、火に油を注ぐより愚かな行為だろう。吹き飛んで倒れたところを足蹴にしに行くほど、怒っている。
「お前さンっ!」
「興ざめだな。つまらんじゃないか。代わりにそっちに相手をして貰おうか」
「く、来るナ。来るんじゃないヨ!」
後鬼が拒絶の言葉とともに後ずさる。その眼にあるのは恐怖と嫌悪で、それが亘の心へと突き刺さる。
亘は鼻の頭に皺を寄せ不快を表した。今まで自分を相手にもしなかった女たち。時に無視され、バカにされ、嘲笑われ、そして好き放題言われてきた。それらを思いだすと……そいつらを踏みにじってやりたくなるではないか。今はそれができるだけの力がある。
ニヤリと笑った顔は暗く邪悪な表情だ。そのまま、ゆっくりと進む。
「ヨ、ヨせ。ソいつに手を出すな!」
背後から聞こえる前鬼の弱々しい声に、ますます暗い笑みが深まっていく。リア充カップルの片方を痛めつけてやったら、もう片方はどうするだろうか。必死で守ろうとする者の目の前で、その対象を叩き潰したらどんな気分だろうか。想像するだけでゾクゾクしてしまう。
亘は嘲笑しつつ、ダメージで逃げられない後鬼へと足を進めていく――と、そこに小さな姿が立ちはだかった。
「ほう、なんのつもりだ」
それは子鬼だった。おかっぱ頭の粗末な着物姿で、顔立ちは後鬼に似ている。まだほんの子供であり、今の亘なら軽く消滅させられるような、ちっぽけな存在でしかない。
それが目の前で両手を広げ、通せんぼをしてみせる。恐怖で泣きだしそうな顔のくせに、足を震わせながら逃げもしない。
「カ、母チャンをイジメるな。オラがユルサナイ!」
「坊っ、お逃ゲ!」
「ヤめろ、子供だけは。ヤめろ!」
亘は無表情に子鬼を見つめた。それだけで子鬼の前身はガタガタ震えだす。だが、それでも母親を守ろうと歯を食いしばっている。
這いながら叫ぶ父親、背後から我が子を抱き止め庇おうとする母親、それでも両親を守ろうとする子供。なんぞこれ、という感じだ。昔に流行した、家族ドラマでも見せられている気分である。
「母チャンは、オラが守ル!」
そんな声に、亘はグッと拳を握りしめ手を伸ばした。
「…………」
「ヒッ」
伸ばされた手に、子鬼がギュッと目を瞑る。だが、その手はポンッと子鬼の頭を撫でただけだ。驚く子鬼が目を開くと、そこには優しい微笑みがあった。
「ただの鍛錬だ。心配しなくていいさ」
そう口にした亘は背を向けた。心の中が妙に静かだ。あれほどまで猛っていた気分は、今は平静さを取り戻している。思い切り暴れたいとか、気に入らない相手を弄りたいといった気持ちは消滅している。
泣きそうな子鬼の姿を見て、何か憑き物が落ちた気分だ。
我に返った気分で、そそくさと去っていく。異界とはいえど、他人の居住空間に押しかけ、家人に暴行し住居の一部を破壊したのだ。今更ながら、拙いと感じていた。
◆◆◆
テガイの里では、鍛錬場に続く岩窟の前に一族が勢揃いしていた。鍛錬場を支配する前鬼と後鬼がどうなったか不明だが、一向に衰える様子のない気配に誰もが緊張の色を隠せないでいる。
そして出現した正体不明の存在に対し、長老が総力戦を決定した。自らの里で、これ程の存在を野放しにするなど、里の名誉にかかわることだ。
かくして藤源次を中心とする討伐対が編成され、戦える者全てが集結した総力戦である。そこには修行中の者さえ交じっており、藤源次は苦虫をかみつぶした顔だ。
これほどの敵を野放しに出来ないことは理解している。しかし、長老の決定は里の面子を多分に含んでいるのだ。年若い者達に目をやり軽く眉を顰めた。
初めての実戦と、異常な気配を前に震えているではないか。これでは、とても戦力になるとは思えない。同時に、そんな中で自分の息子と娘が気丈に振る舞う様子を誇りに思い、しかし妻も含め戦いの場に臨ませてしまうことが辛かった。
「っ!」
気配がさらに強まった。
異界の中から相手が現世へと現れたのが分かる。それは息をするのも苦しい威圧感で、藤源次は厳しい戦いになることを覚悟した。
「あ、ああ! あっ……」
「なんなんだよ、これはっ! なんだよ!」
「こ、恐くないっ。恐く恐くなんて」
混乱をきたした年少組から悲鳴めいた声や喚き声があがり、さらには恐怖のあまり笑いだした者までいる。無理ないことだろう。
長年悪魔と対峙してきた藤源次でさえ、これだけの相手に遭遇するのは久しぶりだ。厳しい戦いに気を引き締める。
「構えっ!」
総勢百を超える忍びが一斉に身構える衣擦れが響き、そして静まり返った。声をあげていた年少組も――こちらは恐怖のあまり――静かになり、岩窟からコツコツとした足音が聞こえだす。
洞窟の入り口に人の姿が現れ、藤源次は総攻撃を命じようとし、思わず脇差を取り落としそうになった。それほど驚愕していた。
「……五条の。お主なのか?」
惚けた藤源次に対し、亘が不思議そうな顔をしてみせる。
「なんだ藤源次か、それに里の人が勢ぞろいまでして。どうした?」
「どうしたも何も、お主のその気配はいったい……」
「ああ、これか。お陰様で不調が回復したんだ。それで、なんで皆で集まっているんだ。あっ、もしかして鍛錬場に勝手に入ったのは拙かったか?」
「いや、そうでない……お主の気配があまりにも酷くて、警戒しておるのだ」
「おっと、そうだった。DPを無駄に消費してしまった」
亘が慌てて操身之術を解除する。ちょうど身に纏っていた異界の残滓が薄れたこともあり、息をするのも苦しいほどの圧迫感が鎮まっていく。
多くの里人は安堵し緊迫した空気も治まるが、藤源次を含めた幾人かは顔を強ばらせたままだ。そんな中で亘だけが笑っている。
「これでどうだ?」
「う、うむ。大丈夫だ」
「藤源次よ、これは一体どういうことだ」
人垣の間から長老が歩み出ると、恐らく里人の誰もが思っていることを代弁してみせる。凄まじい悪魔が現れたと思えば、それが藤源次の招いた客人。何が起こったか問いただしたくなって当然だろう。そして、それを本人に聞くのは恐いため、手っ取り早く藤源次に聞くのも無理もない。
しかし、藤源次にだって分からないものは、分からないのだ。
「いや、それが……我にもさっぱりでのう」
「藤源次、悪いけど、また湯を借りるぞ。少しばかり汗をかいてしまった」
「おい、五条の待たぬか。お主から説明をせぬか、これ。五条の」
珍しく焦り気味の藤源次の声を後ろに聞き、亘は笑顔で歩きだした。
固唾を呑んだ里人の中にイブキやイツキ、そしてサタロウやウタロウ、マサの姿もある。だが、誰もが畏れや驚きで見つめるだけで、声をかけようとすらしない。亘が進むに従って人垣が分かれていく。
亘が鼻歌交じりで温泉へと向かってしまい、残された藤源次は大いに困ることになった。
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