第107話 腹の底からの笑い
「あちぃー、もうだめだ。俺はあがるぞ」
「ふん。ガキだな、この熱い湯の心地よさが分からぬとは」
「うっさい」
ざばっと水音をたて、イツキが湯の中から立ちあがる。瑞々しい肌から、弾かれるように水が滴る。全部が丸見えで、亘は生唾を飲みつつ慌てて視線を逸らした。
イツキは亘の目など気にした様子もなく、ザバザバと湯の中を歩き波を立てる。お尻が交互に揺れながらプリプリしている。
「そうだ兄ぃ、身体の清めは終わってるのか?」
「口煩い奴だ、終わってるに決まってるだろ」
「今夜のお役目の前に、ちゃんと清めておかないとダメだかんな。カカ様に言いつけるぞ」
「うっさいな。ちゃんと終わってると言っただろ」
不機嫌そうなイブキが荒々しく答えてみせる。
「なんだ、イブキ君はこれからの役目があるのか。忍びの仕事もブラックだな」
「ぶらっく? よく分かりませぬが、これも大事なお役目ですよ」
「ほう、そうか。どんなことをするんだ」
「子造りです」
「……え?」
子造りとか聞こえた気がする。多分聞き間違いだろうと思っていると、イブキが心底困ったように、ため息をつく。
「結構面倒なんですよ。もう二人も妊娠させたのだから、少し休ませて欲しいのに。今日からは、キョウカを相手に子造りなんです」
「キョウカちゃんって今日の……」
黒髪の清純そうな女の子だ。亘が可愛いなと思って見ていた娘である。
「キョウカの場合は初めてですからね。いや、初めての奴は厄介なんですよ。どうせなら、思いっきりやりたいのに」
「兄ぃは強引だって、女の中で噂になってるぞ。キョウカは俺の友達だかんな。優しくしてやんないと、カカ様に言いつけるからな」
「…………」
「はいはいっと。じゃあ役目に行きますか。五条の小父さんも湯をあがりますか」
呆然自失としていた亘は突然話をふられ、我に返った。目の前にイツキの裸身があるが、それすら気にならないほど動揺している。
「えっ、ああ。もう少し湯に浸かってもいいかな」
「そうですか、まあ熊は最近仕留めたばかりですから、長湯しても大丈夫でしょう。今日は月夜ですし、戻りの道も分かりますよね」
「じゃあな。お先ー」
イブキもイツキも湯からあがり、身体を拭いて着替えると去っていった。その間、亘は呆然として満月を眺めていた。
明るく白く真ん丸な月の姿は、まるで夜空に空いた穴のようだ。
「あの歳で子供だとか……はっ、はははっ」
岩に頭を載せ足を伸ばし、ぼんやりと考え込む。遥か年下の、高校生程度であろうイブキに子供が生まれる。それも二人も。そして、今夜これから三人目をつくろうとしている。しかも相手は初めてだとか。
彼女すら居ない我が身と比べ、何もかも違いすぎる。
「…………」
月が眩しく照る夜空に星は見えない。深みのある青暗い空には、青白い雲が浮かぶだけだ。
急に滲んできた夜空にタオルで顔を拭って、周りの風景を眺めやる。地上は青と黒だけで染め上げられ、稜線の見える山には木々が群れなしている。そんな風景を眺めていると、寂寥感に襲われてしまうではないか。
「……なんでなのかな」
自分がどうしようもなくダメな人間に思えてきた。彼女すら出来ない自分は、人間としての根本的が欠けているのかもしれない。きっと、人間として必要な部分が足りないため何もかも上手くいかないのだ。
「……くそっ」
ふいに、やり場のない理不尽さを感じ、同じく理不尽な怒りが込み上げてくる。
自分は悪くなどない。堅実に、そして真面目に生きてきた。悪いことなどしていない。なのにどうして認められないのか。どうして結婚してないだけで、飲み会の度にネタにされねばならないのか。どうして他人の顔色に怯えねばならないのか。
色々な感情が入り交じり、イライラ感が湧き上がる。心臓がドクドク脈打ちだし、首筋が熱くなりだす。そうしながら、頭の中は妙に冷えきって冷めていく。そして――眉間の奥で何かが蠢き出す。
「ああ、そうか。この感覚だ。ははははっ、あははははっ!」
煌々と照る月光の下、もどかしい感覚がピタリと収まる。ボケていた焦点がクリアになり、かけ違えていたボタンをはめ直した気分。あるべき物があるべき場所に収まった清々しさ。
開放感を感じながら亘は手を握り開きを繰り返す。腹の中には、溜まりに溜まったストレスがある。その捌け口を身体が求めていた。
「さてと、ストレス発散なら異界か……」
のそりと立ち上がると、ジャージの衣服を身に着けた。
◆◆◆
岩窟にある異界の入り口に見張りはいない。異界などに好き好んで入る者が居ないためだろう。そのお陰で、誰にも咎められることなく進むことができる。
コツコツ足音をさせて進むが壁に点々とした蝋燭の灯りがあるため、足下に不自由はない。薄ぼんやりと岩窟内が照らされているが、それは到着した門の前でも同じだ。一人だけで佇んでいると、蝋燭の芯が燃えるジリジリとした音さえ聞こえてくる。
亘は樫の木で出来た門へと手をかけ引き開けた。
「異界に完全に一人で行くのって、初めてだな」
ニヤリと笑うと、門の向こうに現れた揺らめく空間に身を投じた。
一瞬にして、岩窟の中から雲海に浮かぶような台座へと世界が切り替わる。そして、馴染み深いAPスキルが起動する感覚。全身に力が漲る刺激に酔いそうではないか。
不調は完全に解消されている。苛立っている間に突如として不調が解消されたのだ。
「タマモを倒して以来か……三ヶ月ぶりとは、随分と間が開いてしまったな」
お陰で今の亘は凶暴な気分であり、浮かべる笑みも猛々しい。
赤い欄干に囲まれた台座の上で、身体を捻ったり伸ばしたりをする。昼間の戦闘により板張りの頑丈さは確認済みなので、足下で軋みがしても不安はない。軽いジャンプによって準備体操を終えると歩き出す。
「渡る順番は最初を起点に北東西西南だったな」
呟きながら、架け橋を渡り切りきる。そのまま台座の中心まで進むと、キイキイ甲高い鳴き声をあげる小鬼が現れた。数は一体でしかない。
四つん這いのように駆ける小鬼が跳躍すると飛びかかってきた。
「ふん」
腕を一振りすると、勢いがのった拳にぐしゃりと鈍い手応えがある。小鬼は顔面を陥没させ、鼻血どころでない体液を撒き散らしながら板場へと叩き付けられた。ピクリとも動かないまま、DPへと還元されていく。
「物足りない」
そのまま次の台座へと進む。
今度は四方から小鬼が現れると、同時に襲い掛かって来た。それを、一歩前に出てタイミングをずらし、するりと小鬼の間合いに入り込み喉輪を掴む。力を込め、骨が砕けた感触にゾクゾクし、知らず笑みがこぼれてしまった。
ダラリとなった小鬼を片手で吊るし振り向くと、残りの小鬼どもが怯んでいた。そのまま手にした小鬼を振り回し叩き付けて終わらせる。
亘は口角を上げニイッと笑うと、動かなくなった小鬼を無造作に投げ捨てた。
「ああ、この感じ実にいい。これこそ戦いだ」
さらに次の台座へと進んでいく。
イブキたちの時と同様に悪魔は出現している。パターン通りに出るとは限らないが、ある程度予想がついて楽だ。もちろん、パターン以外でも構わない。それはそれで楽しいだろう。
「おっ、出たな」
台座の中心まで進むと、予想した通り鳥顔の鬼が現れた。出現すると同時に、まるでダチョウのように素早く走り出し、蛇行しながら襲い掛かってくる。
あえて、その動きに反応しない。
喰らいつこうと、跳びかかってきた口に腕をかざして噛みつかせる。嘴がガブリと腕に食い付く。だがそこまでだ。昼間の観察により、動きは速いが攻撃は強くないことが分かっている。今もAPスキルで強化された亘の防御力を、突破できないでいる。
「美味しくないだろ」
ニタリと笑ってみせると鳥顔の目が見開かれている。逃げようとするが、逃がさない。頭を掴み台座へと叩きつけると、グシャリと湿った音がして潰れた。板はやはり頑丈で、何ともない。
あっさり戦闘が終わってしまい、亘は不満顔をする。これでは溜まったストレスが、ちっとも晴れないではないか。
「手応えが足りない。次の牛鬼に期待だな」
不満そうに呟いてみせながら、表情は生き生きとしていく。次なる戦いに思いを馳せ、架け橋を渡る足取りも意気揚々としたものだ。
現れた牛鬼を笑顔で迎える。
鼻息も荒く牛鬼が突進し、構えた金棒を振り下ろしてくる。軽く避け地面を叩いた金棒を思い切り踏みつける。それで武器を失った牛鬼に掌を叩き込むと、床の上を転がっていく。
牛鬼はそれでも立ち上がる。小鬼などより、よほどタフで頑丈ですぐに終わらないので嬉しくなる。頭部の湾曲した角を前に突きだし突進してくるのを、あえて避けない。
「いいね、実にいいね」
そのまま角を掴んで受け止め、台座の上を滑りながら踏ん張る。ついには力が拮抗して動きが止まる。角を掴まれた牛鬼が驚きの唸りをあげ力んでいる。しかし、亘はまだ余裕だ。
「相撲みたいじゃないか。楽しいなあ、おい」
そのまま、つかみ投げのように放り投げる。
投げ飛ばされた牛鬼は悲鳴をあげ、赤い欄干にぶち当たると、そのまま乗り越え台座の外へと転落してしまった。耳を澄ませるが、落下し衝突するような音は何も聞こえてこない。落ちたら助からないとイツキが言っていたが、それは底無しという意味なのだろうか。
「あらら、これで終いか……しまったな。これでは物足りないじゃないか……あとは前鬼か。うん前鬼と鍛錬するか」
昼に弱いと言われたのを覚えている。今の状態なら、弱いとは言わせない。自分の強さを認めさせてやりたいではないか。
亘は架け橋を渡り次の台座へと移動した。
足を踏み入れた途端に風景が変わり、広い岩窟の中となる。昼間に来た時と変わらぬ、朱塗りの冠木門がある。もちろん昔ながらの門に、呼び出しチャイムがあるはずもない。大声で呼ぶのは、ちと恥ずかしい。
門を破って入ろうか考えていると、都合良く内側から開きだした。逆立つようなざんばら髪に太い角が生えた大男が顔を出す。
前鬼だが、亘を見るなり訝しそうに顔を歪め、呻り声をあげる。
「アんだ、オめえ……『藤源次』の客人だな。何しに来やがった」
「鍛錬に来た。どうだ、昼よりは強くなってるだろ」
「ハあ? バカ言うんじゃねえよ。ナんで俺が里の外の人間と鍛錬しナきゃいけないんだ」
「ダメなのか」
「アたりめえだ、コのボケ。トっとと帰れ」
「なんだイなんだイ、想像しいネ。何を騒いでるんだイ」
門の中から、着物姿の美しい女が現れた。額に二本の小角があるため鬼と分かるが、黒く艶やかな髪に青白い肌をした、妖艶で蠱惑的な美女である。
「お前さん五月蠅いヨ。坊やが起きちまうだろうガ」
「母ちゃん、スまねえな。ダけどよ、コの人間があんまりにもバカなんでよ」
「はッ! お前さんにバカと言われるなんテ、よっぽどバカな人間なんだろうネ」
「ソれがよう。里の外の人間の癖によ、俺と鍛錬したいんだと」
「そりゃとんだバカダ。キハハハッ!」
大口開けて笑っているが、恐らくこれが後鬼なのだろう。確か伝説でも前鬼と後鬼は夫婦とあった。会話からしても夫婦なのは間違いないだろう。
「坊やに……夫婦……」
暗く呟いた亘を余所に、鬼同士の会話は続く。
「当代の『藤源次』の客らしいんだがよ。ドうしたもんかね」
「いいじゃないのサ。喰っておしまいヨ。約定と外れた人間ダ、それを喰ったところデ、文句は言わせないヨ」
「ナるほど、ソりゃそうだ。ジゃあ喰うか」
「腕の一本はアタシにおくれヨ。あと坊やにゃあ柔らかいとこでも、残しておくんナ」
「アいよ。サてと悪ぃけど逃がさねえからな、オ前を喰わせて貰うぞ」
前鬼がのしのしと重厚感ある足取りで近づいて来た。
鬼どもを眺める亘は、高揚していた気分が冷えていくのを感じていた。どんよりとした寂寥感が襲ってくる。こんな悪魔でさえ、夫婦をしている。子をなしている。
溜まっていた鬱憤がマグマのように心の中で湧きあがる。ジワジワ込み上げてきた怒りが臨界に到達すると、一気に燃え上がった。
亘に手を伸ばしかけていた前鬼が異変に気付くが、もう遅い。
「ブぎゃっ!」
「お前さン!」
大男の前鬼が妙な悲鳴をあげ、宙を飛んで門扉に激突する。その巨躯が扉をぶち破る光景に、後鬼から悲鳴が上がった。全ては、亘の振るう一撃が起こした惨状だ。
「はははっ、あはははははははははっ!」
呆然として身を起こす前鬼の前で、亘が腹の底からの笑いをあげた。
その眼に朱色の燐光が宿り、全身から放たれた力が陽炎の如く揺らめく。溢れ出たDPが稲妻のようにパリパリと光を放ち、膨れ上がる気配は収まるどころか、とどまるところを知らない。
前鬼も後鬼も唖然として、それを見つめていた。
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