閑17話 世界を呪う

 お昼休みの星稜学園。

 二年B組の教室には大勢の生徒がいた。弁当を食べる者や昼寝をする者。読書やスマホいじり、トランプで賭け事紛い、黒板への落書きと思い思いに昼休みを過ごす姿があった。

 それは、ごく普通の昼休み風景だろう。少なくとも表面上は……。


 舞草七海と金房エルムも、そんな教室の中で雑談に興じている。

 机を挟んだ向かい合わせ状態だが、エルムが椅子の背もたれを抱え反対向きに座っている。女の子として、それはどうかという行儀悪い座り方だ。しかし、悪戯っぽい顔のエルムにそんな姿が似合うのもまた事実だろう。

 優しい顔で穏やかに笑う七海と丁度対になる感じで、静と動が並ぶような様子だった。そんな二人はとりとめもない話をしているが、七海が何気なく教室内を見回してみせる。

「なんだか、今日は妙に人が多いよね。もしかして、お昼から小テスト?」

「小テストって、こないだあったばかりやで。そんなんあらへんて。ニシシッ、今日はあの日やないですか。ナーナさん惚けてからに、いややわ」

「?」

 七海は小首を傾げ一生懸命考え込む。全く思い当たることがなかったのだ。そんな親友の様子をさておき、エルムは教室の中を見回した。

 いつもに比べ人口密度が多いのは確かだ。普段なら教室を飛び出していく男子も今日に限って残っているし、他のクラスの男子も何人か遊びに来ている。用もないのに廊下をウロウロし、通りすがりをよそおい教室の中を窺う挙動不審な男子さえいる。

 その理由は今日が――二月十四日、バレンタインデーだからだ。


 エルムは椅子を傾け机にべたりと上半身をのせ、ますます女の子としてはどうかという姿勢をとる。ニシシッと浮かべる笑みは、この事態を心底面白がっていた。

 ここに集まる男子どもの、反応が面白くて堪らないのだ。

「まー、あれや。皆、そろそろ知りたいんやないか?」

「なにを?」

「つまりな。ナーナが準備したこととかですがな」

 ガタッと身じろぎする音があちこちから聞こえ、教室の中が妙に静まる。おかげで他の教室やグラウンドからの喧騒がよく聞こえてしまう。

 そんな一変した雰囲気に戸惑いつつ、七海はやっぱり小首を傾げる。

「準備って、何の準備? あっ、やっぱり小テスト?」

「もー、嫌やな惚けおって。おほんっ、今日はバレンタインやで。甘くて茶色いもん用意しとるやろ」

「…………」

「ほんで? いつチョコ渡すつもりなんや。もしかして今夜か? 私ごと食べてー、とかやる気かいな」


 その言葉に、ガタタッと身じろぎする音が再度聞こえる。色めきたった男子の様子に、エルムは笑いを堪えた。いくら周囲に無頓着なこの親友でも、さすがに気付いたことだろう。

 からかい甲斐のある可愛い親友が慌てる反応を待った。

「えっ? えっ……え?」

 だが七海の反応は違った。顔を赤くするどころか、唖然として固まっている。しばらく目を瞬かせていたが、その顔がみるみる強ばっていく。そして机に手を突き立ち上がった。

 その勢いでエルムは転びそうになり慌ててバランスをとる。スカートがめくれ健康的な太股がかなり見えてしまっているが、全ての注目は立ち上がった少女へと向いているので問題なかった。

「バレン……タイン……バレンタイン! あああっ!」

「あんた、まさか……忘れとったんかーい! そりゃ女として、どうかと思うで」

 エルムの突っ込みに、七海は悄然となってストンと椅子に座る。その後は両手で頬を押さえ、生まれたての子鹿並にガクブル状態だ。目が完全に動揺し、顔色さえも悪い。

「だ、だって今までバレンタインなんて関係なかったから。ああ、どうしようチョコ作らなきゃ。チョコ、今から間に合うかな。カカオを買わなきゃ……カカオはどこに売ってるかな」

「落ち着きなれ、アンタどっから作る気なんや。そんなんより駅前で、普通に買えばええやん」

「でもだって、手作りじゃないとダメだって聞いた覚えが……」

 手作りでも、せいぜいが板チョコを溶かして型に入れトッピングする程度だ。一体誰が、カカオからチョコを製造しようとするだろうか。しかも、素人がカカオから作っても不味いだけだ。

「手作りのレベルが違いすぎるわ。そんなん、逆に気持ちが重すぎて引かれるで」

「そ、そうでしょうか?」

「それに、今から失敗したら完全に間に合わんて。そんなんより、ちゃんとしたの買ったほうがええ。ほれ、放課後買いに行こうな。一緒に行ったるって」

「うん、お願い」

「そんなんより、どんなチョコを買うか、決めとかな。チョコでも色々あるんやで」

「うっ……それは……」


 七海を落ち着かせ、エルムは近くの女子グループへと手で合図する。阿吽の呼吸で、言わずとも雑誌が廻ってきた。この女子グループもライバル的意味で七海の動向を窺っていた連中だ。どうやら自分たちの領域外でチョコが動きそうだと気付いたため、とても協力的だ。

 雑誌をパラパラとめくり、開くのは『大人な彼氏の喜ぶチョコ選び』の特集だ。

「ほら、やっぱビター系がええやろな。大人やで、甘いの苦手やろうしな」

「べ、別に、ご五条さんに贈るなんて」

 七海が顔を真っ赤にして狼狽える。しかし、その目は雑誌の『大人な彼氏に最適なチョコ特集』に釘付けで、エルムは笑いを堪えるのに苦労した。

「ウチは誰とも言っとらんで。大体、何を今更って感じですわ」

「ううっ」

 そんなやり取りの向こうで、男子どもが一斉にうなだれ虚脱状態となってしまう。よくあるバレンタインの日常だ。挫折を知って成長するか、二次元へと走るかは人それぞれだろう。

 午後からの七海は話しかけられようが、授業で当てられようが一切耳に入らず、どんなチョコを選ぶかだけを真剣に考え続けていた。そして放課後になった瞬間、エルムの手を引っ掴んで全力疾走したのだった。


◆◆◆


「ないわー、ビターなんてないわー。僕、甘いのが好きなのにビターなんてないですわー。酷いと思いませんか、先輩」

「苦みでも感じろって、メッセージなんだろ」

 五条亘は後輩の水田へと冷たい目線を送った。

 同棲中の彼女から貰ったチョコを、わざわざ職場に持ってきて横でバリボリと食べるとは、実に不愉快なヤツではないか。独身と知っている相手の前でそんなこと、きっと見せつけているのだろう。きっとそうに違いない。

 被害妄想状態の亘はふつふつとした怒りを覚え、仕事に集中する。否、集中しようとした。 

 チョコを貰ったことは母親以外にはない。デパ地下で女性店員から試食チョコを貰い、チョコを貰った気分を疑似体験するぐらいだ。

 そして胸の中にロクでもないバレンタインの思い出が去来してしまう。思い起こせば、初めての屈辱は小学生の頃。クラスの女子が男子一同にチョコを配るが、亘を含む数人だけが配られなかった。酷い話だが、それだけならよくある話だ。

 だが、それに気付いた公明正大なる教師が女子たちに謝らせたことで嫌な思い出へと昇華されてしまった。何故か貰えなかった者が黒板の前へと立たされ、起立した女子がそれに渋々と謝り、貰えた男子たちが自分の席でそれを笑う……。

「ははっ」

 バレンタインの嫌な思い出は、思春期以降の年数分だけたっぷりある。そんな暗い思い出を胸に、亘は暗い笑いをあげながら仕事をこなしていく。

 終業チャイムが鳴ると同時に、さっと立って帰り支度をする。ストレスを発散せねばならない。年度末が迫って仕事が忙しすぎ、全く異界に行けない状況だ。でも、今日という今日は異界で大暴れしなければ、やってられない。

「五条係長、どうして帰る……あ、いやなんでもない」

 課長が何かを言いかけたが、殺気の籠もった目を向けると怯えた様子で黙る。そうなると、もはや亘の帰りを阻む者は誰もいなかった。


◆◆◆


 そして亘は公園のベンチにいた。ただし異界ではなく現実世界の公園だ。人が通るのは稀で、植栽に阻まれ周囲から隔絶されたような雰囲気がある。

 日も暮れ街灯に薄く照らされたベンチに一人座っている姿は、まるでリストラされ家に帰れないサラリーマンのようだった。

 そこに茶髪の金属アクセサリーをチャラチャラさせた高校生が駆け寄る。

「お待たせしたっす。いやいや、急に呼びだして、すんませんっす」

「いいんだ。お前も今日は色々、辛かっただろ」

 相手はチャラ夫だ。用事があると呼び出されたのだが、きっと哀しいバレンタインの愚痴でも言いたいのだろうと、同志チャラ夫の求めに応じたところだ。

 そのチャラ夫が、ピンク色の紙でラッピングされた小さな箱を差し出してくる。

「兄貴、チョコっす。どうぞ貰って下さいっす」

「お前……お前とは、もう一緒に行動しないからな」

「えっ、なんでっす……ってえぇ!?」

 ざっと距離をとった亘の様子にチャラ夫が慌てた。自分がどう思われたか気づいたらしい。

「ちょっ、違うっす。勘違いっす! これは、志緒姉ちゃんから預かってきたっす!」

「ほう、あいつからだと?」

「ひゅーひゅー、兄貴モテモテっすね」

「はははっ、茶化すなよ」

 亘はたちまち相好を崩し、そのニヤケ顔を堪えながら手作り感溢れる包装紙の箱を受け取った。大事そうに膝の上に置き、まるでそれが宝物箱であるかのように手で覆う。


 満更でもない。口では色々言うが、どうやら志緒もなかなかに可愛いところがあるらしい。これが、嫌よ嫌よも好きの内ということか。バレンタインを機会に、デレ期到来に違いない。

「さあ、さっそく食べるといいっす」

「えっ、もう食べるのか」

「食べないっすか。もしかして志緒姉ちゃんからのチョコは、嬉しくないっすか」

「いや、そんなことないが……」

 なにせ母親以外で初めて貰う、記念すべきチョコだ。まずは部屋に飾り、しばらくそれを眺めて楽しむつもりでいた。第一、まだ写真も撮っていない。

 だが、そんなこと言えやしない。有り難がっているなんて知れたら、まるで初めてチョコを貰い有頂天になっているように思われるではないか。もちろん実際にはそうなのだが。

 どうすべきか躊躇う亘の横で、チャラ夫が鞄の中から別の箱を取り出した。

「じゃあ、俺っちも貰ったチョコを食べるっすよ」

「ほほう、お前も志緒から貰ったのか。まあなんだ、姉がいるといいよな」

 上から目線で、声に愉悦が含まれていた。これまでの自分を棚に上げ、自分の姉から貰ったチョコを食べるチャラ夫に憐憫の情を催しているのだ。

 しかし。

「うんにゃっす。こないだの文化祭で知り合った子に貰ったっす。付き合うって程じゃないっすけど、時々会って遊びに行ったりする子なんすよ」

「…………」

「うちの学校でも二つ貰ったっすけどね、もう食べたっす」

 亘は密かに拳を握りしめた。どうやら目の前に居るのは同志などではなく、卑劣な裏切り者だったのだ。騙されていたのだ。

 しかし深呼吸で心を落ち着かせる。なにせ自分も今日ここで、そっち側の人間になったのだ。怒る必要はない。

 そう頷いた亘は丁寧な手つきで包装紙を開け……そして無表情となる。

「…………」

「うわぁー、これはないっすわ」

 横から覗き込んだチャラ夫がチョコを囓りつつ、気の毒そうな声をあげる。箱の中のチョコには、大きくデカデカとした文字で『ぎり』とあった。

 黒味を帯びたチョコの上に白く描かれた文字が、心に深く突き刺さる。それだけならまだしも、ご丁寧に箱裏にメモまで添えてある。そこには、くれぐれも勘違いするな、と赤線に強調ライン付きで注意書きがあった。

「なんか、うちのバカ姉が申し訳ないっすね」

「…………」

「まあ、こんなの気にしないで下さいっす。どうせ兄貴なら、いっぱいチョコとか貰ってるっしょ。そんな中の一つぐらい、こんなのもあるっすよ」

 憐憫の情が一番胸に堪えてしまう。

「……当然だ。当たり前だ。いっぱいだ。はははっ」

 亘はバキバキとチョコを粉みじんにしてしまった。そして汚れた手を拭きもせず、スマホを取り出す。手荒な操作をすると、画面の中から人形サイズの少女がひょっこり姿を現した。ここでサキまで呼び出さない理性は残っていた。

「喚んだー? どしたのさ」

「……このチョコ、食べていいぞ」

 呑気に顔を出した神楽へと、砕けたチョコの塊を差し出す。優しい、ひどく優しい声だ。俯き加減の表情は闇に紛れて分からないが、声だけは優しい。 

「いいの!? 本当に食べて良いの? やったね」

「ああ。好きなだけ食べていいぞ。欠片も残さず食べてしまえ」

 亘は世界を呪う気分で呟いた。

 しかし呪うと祝うは元は同じ由来の言葉でしかない。どちらも他者へと向ける感情であり、どちらも何かあれば簡単に変わるものでしかない。そんな亘の呪うが祝うに変わるには、息せき切る少女たちの到着を待たねばならなかった。

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