第93話 安息の気持ちに包まれ
アパートを出た時点では、お出かけする子供のようにご機嫌だったサキだったが、キセノンヒルズを前にする頃には不安な様子となっていた。繋いだ手にギュッと力が入るので、それが分かる。
エントランスに入ったところで、人形のように愛らしい姿のサキの足が止まった。見れば、その顔は泣きだしそうなものだ。
「式主。サキ捨てるか」
「五条さんはそんなことしないですよ」
「本当に本当か」
答えた七海に念を押すよう、繰り返し尋ねている。
その様子に亘は苦笑を浮かべてしまう。確かに今朝までは、サキを新藤社長に押しつけ任せてしまうつもりがあった。けれど今はない。
「……やれやれ、信用ないな。ここにいる新藤社長に少しだけ話を通すだけだ。捨てるとか、そんなことはしないさ」
昼食の時に決意したように、サキはこれからずっと自分の従魔として従えていく。DP稼ぎのためとかではない。純粋に仲間として家族として、一緒に居たいと思っている。それを捨てるなんて、とんでもない。
ただアマテラスとの兼ね合いがあるので、新藤社長に挨拶し筋を通しておく必要がある。それだけだ。
それでも涙で潤んだ目で見つめられると、どうにも罪悪感を覚えてしまう。
「安心しろって」
「多分大丈夫だと思うけどさ、社長は高位の悪魔だから注意してね。あっ、ボクはスマホの中に戻るけどね」
懐からひょっこり顔を覗かせた神楽が不吉なことを言うや、さっさとスマホの中へと引っ込んでしまった。
ますます怯えてしまったサキを七海に任せ、受付の女性に声をかけた。
「すいません。新藤社長に会いたいのですが」
「社長の新藤でしょうか。それでしたら、アポは御座いますでしょうか。アポが無い方をお繋ぎするわけにはいきません。申し訳ありませんが、ご承知願います」
硬い表情をする受付の様子で失敗に気づく。
大企業の社長ともなれば、会いたいと押し掛ける見ず知らずの者も存在するに違いない。考え方が普通の人の範疇から外れていたり、怪しげな詐欺師や害意ある者だっているに違いないだろう。
今の亘は、その類に思われているのだ。
幾ら新藤社長と協力関係にあるといっても、それを受付の女性が知るはずないのだ。まずアポイントを取っておくべきだったと反省する。
「すいません。別に怪しい人間ではなくて……そうだ、秘書の藤島さんに五条亘が来た、と伝えて頂けませんか。もしくは、開発部の主任の法成寺さんでもいいです。それがダメなら、アポを取り直しますけど」
「はあ、そうですか。五条亘様ですね、少々お待ち下さい」
受付女性は警戒しながら、亘のあげてみせた名前に反応し連絡を取ってくれるようだ。多分これで、どちらかは来てくれるだろう。
七海のところに戻り、頭を掻いて自分の失敗を説明してみせる。
「アポ取りしてなかったよ。連絡せず、ふらっと来たのは失敗だったな」
「そっか、そうですよね。社長さんが留守という可能性だって、ありましたね」
七海はさらに不在で会えないという方向にも考えたらしい。確かにそうした可能性もある。
「藤島さんか、法成寺さんに連絡をつけて貰うよう頼んだが、どうかな。来てくれるかな」
「きっと大丈夫ですよ」
しばらくエントランスをウロウロして時間を潰していると、カッカッカッというヒールの音が響いた。現れたのは藤島秘書だ。
その顔は厳しいもので、ちょっと恐いぐらいだ。美人の類なので余計に恐い。
「うわっ、来た……」
思わず呻いてしまう。
以前に引っぱたかれて以来、どうにも苦手意識がある。しかも今日もアポ無しで押しかけたのだから、余計に気後れしてしまう。
きびきびとした足取りの藤島秘書は、受付の女性に軽く手を挙げると、後は自分が引き受けると合図してみせる。そして七海に対しては優しげな笑顔を見せ、亘にはキッと怜悧な厳しい顔をした。
「申し訳ありませんが、社長はただいま来客中です。その後でよろしければ、多少は時間がございます。少々お待ち頂いて、よろしいですか」
「ええもう、それで構いませんよ。用と言っても、この子のことで相談したかっただけですから」
「相談ですか? そのお子さんは一体どうされたのですか?」
藤島秘書の目がスッと細まり、亘はヤバイと感じた。少女誘拐とでも誤解されたら、今度は往復ビンタかもしれない。さすがにここまで心配するのは被害妄想気味だ。
「ちょっとここでは……実はですね」
建物の端まで移動して事情を説明すると、藤島秘書は納得して大きく頷いてみせた。それで亘は息をつき、ホッと安心した。
「……成る程、そういうことでしたか。社長の来客は、恐らくその関係と思われます」
「まさか、坊主どもが来ているんですか」
「アマテラス系列の僧兵ですよ。我が社のアプリの使用する者が妖の調伏を邪魔したと、クレームをつけて押しかけて来ました」
「間違いないあいつらだ」
「アポなしで押しかけてきたおかげで、社長のスケジュールを組み直しですよ。そうですか、原因はあなたでしたか」
不機嫌そうな言葉と共にジロリと睨まれてしまう。
新藤社長ぐらいになれば、スケジュールもびっしり詰まっているに違いない。それこそ分刻みという可能性もある。それを台無しにされたら、秘書として怒るのも当然だろう。
亘はヤバイと身を震わせた。
考えてみれば、新藤社長のスケジュールを滅茶苦茶にするのは、今日だけでない。美術館に学園祭と、散々っぱら社長を呼びだしている。その都度、社長のスケジュールは無茶苦茶になってしまうに違いない。
つまり秘書からすると、亘という存在は厄介ごとを持ち込んでくる頭の痛い奴ということだろう。
「すいませんです」
「まあ、いいでしょう。さて、お待ちいただく間ですが。ちょうどパリの三つ星店のパティシエが、イベント用スイーツを試作中です。よろしければ試食などいかがでしょうか」
その言葉に七海は目を輝かせるが、亘はそっけなく断る。
「自分は遠慮しときますよ。甘いものは苦手なんで」
「私は、えっと……やめておきます」
言いよどんだ七海だが、自分だけ行くわけにはいかないと遠慮しているらしい。これまでの付き合いで、おおよそ性格を知っている亘は軽く笑ってみせた。
なお、亘が断った理由は甘いものが苦手なのもあるが、藤島秘書が苦手な方が主なものだ。
「気にしないでいいさ。せっかくの機会だから、ご馳走になってくるといい」
「えっと、でも……いいのでしょうか?」
「もちろんだとも。ほら、行っといで」
その言葉で七海が嬉しそうにする。やはり食べたかったのだ。
「あの、断っておいてなんですが。藤島さんお願いしてもよろしいでしょうか」
「ええどうぞ。それで、お嬢さんはどうしますか」
藤島秘書はサキの前でしゃがみ込むと、優しげな声を出す。それは亘に対する態度とは大違いではないか。やはり嫌われているに違いない。
けれどサキは亘の腰にしがみ付くと、いやいやと首を振ってみせた。
「サキここに居る。式主と一緒がいい」
「随分と慕われているようですね」
「はははっ、まあ嬉しいことですよ」
藤島秘書はジロリと睨む。なんだか亘が慕われていることに対し、何らかの疑いがあるような様子だ。
「まあ、いいでしょう。それでは舞草さん、参りましょうか」
しかしそれ以上は追及せずキビキビと歩き出す。その後ろを七海が嬉しそうな足取りで付いていく。
「ふう、どうにもあの女性は苦手だな」
藤島秘書がエスカレーターで姿を消したことを確認し、亘はようやくほっと息をついた。苦手意識ここに極まれりだろう。
しかし残ったとはいえ、特に時間を潰すアテがあったわけではない。
「式主、どうする」
「そうだな。まあ、この辺でのんびり待つさ」
エントランスホールのミーティングスペースに移動すると、ゆったりした座椅子へと腰掛ける。隣にサキがちょこんと並んでくる。
そこはハイセンスな空間だ。
床はゴージャスな黒大理石で、座椅子も近未来的デザイン。クラシックの曲が微かに流れ館内に静やかさを演出する。開放的なガラス面の向こうは、シマトネリコの整然とした林とせせらぎの水路があり、まるで絵画のようだ。
なんだか、美術館にでもいるような気分である。そしてセレブリッチなキセノンヒルズの中を歩くのは、上流階級的雰囲気の人々たちで誰も場の空気を乱したりはしない。
その雰囲気に浸っていると、自分まで上流階級みたいな気分になってしまう。椅子に座っているだけだが、我ながらちょっとイケてるのではと、意味不明な自惚れの気持ちさえ湧いてくる。
「んっ、膝のる」
ボンヤリ浸っていると、サキが膝へと上がり込んできた。そのお腹に手をまわし抱きかかえるように膝に載せてやる。そうして、金の髪をした頭に自分の顎を載せてみる。
こうしてジッとしていると、時間の流れも忘れてしまいそうだ。誰かと、くっ付いていることが、こんなに安心するとは思いもしなかった。
思い出されるのは、説明会で見かけたニキビ面の男だ。
亘がしているように、日本人形のような従魔を膝に載せていた。あの時は事案発生としか思わなかったが、きっと違う。あのニキビ面の男も、やましい気持ちなどなく自分の従魔を愛でていたに違いない。それを通報事案だなどと思ったのは、失礼だった。
安息の気持ちに包まれボンヤリとしていたのだが、ふいに響いたドヤドヤとした無粋な足音によって終止符が打たれてしまった。さらに腕の中でサキがびくりと、身を固くする。
「おうっ! そこにおるは、あの時の若造! ここにおったか!」
「新藤の奴め、知らぬ存ぜぬと言いながら、ここにおるではないか。やはり信用ならぬなあ」
「がははっ。そうか、こいつがそうか。お主らの言うような、恐ろしい男には到底思えぬな」
「こんな奴から逃げるとは、情けない」
「いやいや、こんな貧相に見えてなかなかの使い手。各々方、侮りめさるな」
粗野な声と共にガラス面に移るのは、見覚えがある僧形の男たちだった。
考えてみれば、僧兵どもはクレームをつけに来ているのだ。それなら帰りにエントランスを通るのは当然の帰結。こんな所でセレブゴッコして座っていれば、見つかっても仕方がない。
しまったと後悔しても、もう遅い。
それでもセレブな気分は崩さず、サキをそっと横にやって立ち上がる。堂々として優雅な――少なくとも本人はそのつもり――動きで振り向く。
「そう大声を出すな。せっかくの雰囲気が台無しじゃないか」
「ほざけ。さあ、その悪魔を渡して貰おうか」
ガラの悪い男が野太い声で騒ぎ立てるや、怯えたサキが亘の足にしがみ付く。信頼し助けを求められるのは嬉しいが、異界の中のようにAPスキルが発動しているわけではない。今の亘はただの一般人だ。
スマホを取り出しさっと操作する。
「あっ、もしもし。警察ですか、今ですね。変な格好をした集団に囲まれて脅されているんですが……はい、場所はキセノンヒルズのエントランスです。相手は十人くらいです。小さな子供も居るので助けて下さい」
あっさり警察に通報した様子に、僧兵たちが呆れ顔をする。
「お主、情けないとは思わんのか。官憲なぞに助けを求めおって……」
「そのために警察がいるんだ。助けを求めて何が悪い」
通話し終え、亘はスマホを手に平然と答えた。
そうしながら周囲に目をやる。エントランスに居た人々は争いの気配に逃げ出していた。若干興味深げに残っていた者らも、僧兵に睨まれると慌てて逃げていくではないか。
どうやらセレブリッチな方々は荒事が苦手らしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます