第89話 即通報即逮捕待ったなし
「日が暮れた時間で良かったな」
現実世界へと帰還した場所は、薄暗い路地裏だった。生ゴミと汚水の臭いに、排気ガスをブレンドした都会特有の臭気が鼻をつく。ビルの間に見える空は狭く暗いが、大通りは人工の光で明るく照らされている。
一瞬ほけっとしていると、懐から顔を出した神楽が急かした。
「マスターぼさっとしないのさ。認識阻害がある間に、少しでも移動しなきゃ」
「そうだった! 行くぞ!」
蹴倒してしまったゴミ入れをそのままに、路地裏から飛びだし歩道を全力で走る。異界の残滓がまだあるのか、多少の身体強化が残っていた。そのお陰で、陸上選手並の速力だ。ただし、みるみる速度が落ちていく。
通りには、夜といえど大勢の人が歩いている。その間を縫うように走るが、誰も亘の存在に気付いた様子はない。
疎らな街灯などよりも、営業する店舗が放つ煌々とした光が辺りを照らし、その前を荷物を小脇に抱え猛ダッシュする。
荷物と呼ぶべきものではないが、大っぴらには荷物としか言えない。なにせ、二枚の上着で包み込んで隠したそれは、裸の少女だから。誰かに見られたら一巻の終わり。即通報即逮捕待ったなしだろう。
認識阻害が効いている間に、少しでもコインパーキングに駐めた車に近づかねばならなかった。こんなことなら駐車料金をケチらず、近くに駐めておけば良かったと後悔しても遅い。
異界の残滓が消えるにしたがい、走る速度は普通より少し早い程度にまで落ちてきた。恐らく後数秒で消えさる。
「そろそろ切れるよ、どっか隠れなきゃ」
「どっかってどこに……ここだ!」
手近な路地に飛び込むが、先客が居てギョッとする。だが、向こうもギョッとしている。そこそこ歳のカップルが暗がりで、けしからん行為に及んでいた。一瞬の気まずい沈黙の後、カップルの方が逃げて行く。
「……まったく、ホテルに行けよな」
「なにか落としてったよ。あははっ、これもドロップ品だね」
神楽が懐から顔を出し、地面を指差す。そこに落ちているのは、肌色でレースやフリルのついたショーツだ。若い女性の品ならまだしも、いかにも年配の女性向けなパンツなど興味もない。亘はそれを無視した。
「周りの様子はどうだ」
「んーっとね、大丈夫だよ。しばらく誰も来ないね」
「よし、ちょっと休憩するか」
亘は服の袖で汗を拭った。気温も低く、運動量も異界での戦闘に比べれば大したことないが、緊張から汗が出てくるのだ。やはり人生がかかっていると、緊張の度合いも違う。
小脇に抱えた荷物がゴソゴソ動き、あーうーの声と一緒に手がはみ出した。真っ白な手が夜目にも目立ってしまい、慌ててそれを包み直す。
「よしよし、じっとしてろよ」
あやすと大人しくなってくれる。
先程のカップルと対面したように、すでに認識阻害の効果は完全に切れている。だから移動している最中に、今みたいに動かれたらアウトだ。時間をかけられない雰囲気に、休憩を切り上げる。
路地をそのまま通り抜け、大通りとは反対の通りへと移動する。
「こっちの方が人通りは少なそうだな」
「そだね。探知で分かる範囲でもさ、あんまいないよ」
「よし、行くか。あと一息だ」
神楽の探知で大丈夫と分かっても、建物の角から様子を窺う。そして意を決して通りに出て歩きだす。走っている方が目立ってしまうからだ。
そして、変にコソコソして挙動不審をするよりも、ゆっくり歩いた方が案外目に付かない。疚しい時ほど堂々すべきだろう。
それでも気が焦り、汗が噴きだすのは仕方なかった。
きっとヤバイブツの運び屋はこんな気分なのだろう。こんなにヒヤヒヤた気分で歩くのは、通勤途中に猛烈な腹痛に襲われたとき以来だろう。
そんなバカげたことを考え、気を逸らしながら歩いて行き、やっとのことで車に到着した。
「つ、着いた……やった、やりとげたんだ」
「おめでとー! パンパカ……」
「おいバカよさないか」
やり遂げた達成感がある。同時に胃が痛くなった気分だ。念のため、神楽に治癒と状態回復をかけて貰って、後部座席に少女を寝かせ車を発進させた。
◆◆◆
「これでもない、あれでもない」
自分のアパートに戻った亘は押し入れを漁っていく。プラスチックの衣装ケースから、服を取り出しては戻すを繰り返す。何のためにそんなことをするかといえば、連れてきた少女に着せる服を探すためだ。
亘の暮らすアパートであるし、少女も裸身を恥ずかしがらない。ロリな趣味はないのだから、そのままでもいいかもしれない。
でも、だ。裸で女の子座りされるのは、幾らなんでもあんまりではないか。いくらまだ子供形状といえど、放置しておくのは人としてどうかと思うのだ。
「あった、これだ」
やっとのことで伸縮性のよいタートルネックを取り出した。これを探していたのだ。これなら袖丈の長さ以外は身体にぴったりだろう。
「ほれバンザーイ、って駄目か。言葉は分かってるようだが……しょうがないな。ほら、手を挙げて」
「マスターってばさ、きっと良いお父さんになるね」
「黙っとけ」
亘はちょっとふて腐れ気味に答える。本当なら、これぐらいの歳の子供がいたっておかしくない年齢なのだ。でも、お父さんになる前に、子供をつくる行為にすら辿り着いてない現実がある。だから何気ない言葉にも、傷ついてしまう。
襟からスポッと頭を出すと、ニヘッと少女が無垢な笑顔を浮かべた。それは子犬や子猫が全面的信頼を寄せた相手にみせる顔で、古文の「いとうつくし」といった気分にさせられてしまうではないか。
「よしよし」
あまりに可愛くて、つい少女の頭を撫でてしまう。黄金を梳いたような髪はシルクのような極上の手触りで、いつまでも撫でたくなるものだ。調子に乗って手触りを楽しんでいると、少女が口をパクパクさせた。
さらに両手を差し伸ばしてくる。
「ん?どうした」
亘が膝をついて優しく話しかけると、その顔を小さな手が挟み込む。
やや冷たく柔らかな指が頬を触り鼻を触る。もしかすると撫でてやったお礼に撫で返してくれのかもしれない。なんとなく猫に舐め返されるような嬉しさがあり、されるままに任せた。
そうしていると、神楽が頬を膨らせてしまう。
「ぶーっ、その子ばっか可愛がっちゃってさ」
「いいだろ。ん? なんだ」
ふいに少女の両の手が亘の頬を挟み、引き寄せる。思いのほか強い力だ。さらに身を屈めてやると、緋色の眼が真正面から覗き込んできた。
何の穢れもない美しい白目、その中にある緋色をした瞳は光彩の中心に漆黒の瞳孔がある。まるで全てを吸い込む深淵の穴に思わず見入ってしまう。
否、魅入られていた。ただひたすら、その瞳を見つめ続ける。顔を固定していた手が離れても、亘は微動だにすら出来ない。
白く滑らかな指先が、まさぐるように亘の顔を這う。こめかみを撫で、眉をなぶる。そして眉間に触れた瞬間、ズブリと突き立った。
「がっ!」
「マスター!」
皮膚も骨さえも関係なく、まるで豆腐かゼリーに突き込むように、少女の指が亘の眉間へと沈んでいった。痛みはない。しかし中を掻き回される名状しがたい未知の感覚がある。しかも思考が痺れ、何も考えられない。
亘は全身を痙攣させ目尻から涙を零すが、それでも目は少女の瞳に囚われたまま離せないでいた。
「このおっ! マスターに何すんのさ! マスターを放せ!」
神楽が血相を変え叫ぶものの、下手に攻撃すれば亘を巻き込みそうで、魔法を使えず少女の頭を両手で叩くか、金色の髪を引っ張ることしかできない。
突然少女が言葉を発する。そして、付け根まで潜り込んでいた指がずるりと引き抜かれた。
「大丈夫。終わった」
はっきりとした涼やかな声だ。
亘は強烈な目眩に襲われ、四つん這いになったまま動けないでいる。胸を押さえ、下を向き荒い息を繰り返す亘を守ろうと、神楽が少女との間に立ちはだかった。
「マスターから離れろ!」
「大丈夫。契約はなされた。式の神になった。だから安心」
「何言ってんのさ! ボクのマスターに何したのさ!」
「神楽……大丈夫だ。どうやら、こいつと契約したらしい。多分だけどな」
「その通り。力も貰った」
少女の身体が、伸縮性のよいタートルの下で成長しだす。幼女特有のぽっこりしていたお腹が真っ直ぐとなり、身長が頭一つ大きくなる。身体も十を幾つか越した、薄く肉付いたほっそりした女児へと変化していった。顔つきのあどけなさも幾ばくか減り、美人の片鱗が強まっている。
辛うじて顔を上げた亘の目の前に、少女の生足があった。タートルネック一枚だけの少女の前で四つん這いになり喘ぐオッサン。相変わらず拙い絵面だ。
少女はクルリと向きを変えるとペタペタ歩いていく。そのままコタツの上に置かれたスマホを取り上げると、袖をまくり無造作に画面の中へと手を突っ込んだ。
それを見た神楽が文句の声をあげる。
「こらー! 何すんのさ、それ大事なんだからね!」
「カラクリは分からない。でも、術式は大体同じ。だから大丈夫」
「だーかーらー、そうじゃなくって壊したらダメなんだからね」
「すぐ終わる」
「あーもー! 何なのさ!」
神楽の叫びなど無視し、少女は整った眉を寄せ集中しだす。スマホからバチバチと火花放電があがると、アンギャーと神楽が叫びだした。目眩の残る亘は床に座り込んだまま、それを眺めるしかない。
「終わった。これで問題ない」
「問題大ありだよ!マスターも黙ってないで何とか言ってよ!」
「そうだな……何かするときは先に言え。で、一体何をしたんだ」
「ん、登録」
少女が持ってきたスマホを受け取り、神楽と一緒にステータスを確認した。
「なんだ、これ」
「なにさ、これ」
そこにある表示に、亘は天を仰いだ。横から覗き込んだ神楽は、フラフラと墜落していった。
……………………………………………………
No.2
名前:すきによんで
種族:ないしょ
状態:よい
レベル:つよい
経験値:ひつようない
スキルポイント:いらない
HP:たくさん
MP:いっぱい
スキル: いろいろ
所有:ない
……………………………………………………
「これ、お前が入れたのか?」
「そう」
どやっという感じで、少女が薄い胸を張ってみせた。
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