第74話 エントロピーの意味さえ分からない
校舎外の生徒たちが安全のために校舎の中へと誘導されていく。ある程度固まって教室に入ってもらい、それをキセノン社の社員が護衛をする。まだ異界化が解けないため、異界の主が出た場合に備えての措置だ。
なお、最後まで抵抗したエルムだが、それも七海の説得により何とか校舎内に行ってくれた。
残ったのは、亘たち『デーモンルーラー』に関係した面々と、渦中の人物となった三原少年、そして世話をするため残った養護教員だけだ。
「――と、いったわけです」
亘が自分の推測を交え事情を説明すると、新藤社長が嬉しそうに手を打ち鳴らし、抑えた笑いを上げた。
「くくくっ、その少年が異界を発生させたのですか。実に面白い話ですね。どうですか法成寺君、何かわかりましたかね」
「あ? はいはい」
ハアハアした雰囲気で神楽を追い回していた白衣の小太り男が立ち止まる。
その隙に神楽が亘の元へ、まっしぐらに飛んで来た。追い回されたせいか半泣き顔で、そのまま亘の懐へと潜り込んでしまった。
羨ましそうな顔をしながら、法成寺がやってくる。
「その少年から特に強い反応はないのね。でも測定結果だと異界核の要素は少し反応してるんでー、正直よく分かんないですねー」
法成寺はチラチラと亘を――その実、懐から顔を覗かせた神楽を見つつ応える。もちろん神楽は目が合うなりピュッと顔を引っ込めてしまう。
ふざけた態度に藤源次が鼻をならす。
「ふん、お主らは異界の研究を行っているのではないのか。それなのに分からんか」
「うーん。まあ結局は異界ってのは空間エントロピーを、正と負で相殺させた定常状態に保持された不可逆的情報体として解釈するしかないんだよねー。理論的に言えば、状態エントロピーが最大になった場合に局所条件で確率的には存在するはずなんだけどね」
「…………」
法成寺がツラツラ話すと、藤源次は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。横でチャラ夫が宇宙人でも見るように目を瞬かせ、七海も同じような顔だ。そして亘は腕組みしながら、分かったような顔して頷いてみせた。
「つまり分からないってことだ」
「さすが五条さん、分かってるじゃないですかー。そうなんですよねー、そもそもDPはエントロピー上で確率存在なのに普遍存在なのが謎なんですよ。いやもー、謎だらけで分かんないですよね」
「そうだな謎だな」
エントロピーの意味さえ分からないまま亘は頷いて見せた。絶対分かってない、と懐から神楽がジト目で見上げる。
それで法成寺がハアハアし出すが、気付いて神楽がピュッと引っ込むと大人しくなる。
「でもですねー、DP関係じゃ最先端行ってる研究で、大規模な異界をつくれないじゃないですか。なのに、こんだけ大規模な異界を発生させられたなんてねえ……正直、信じらんないですよ。あ、疑うわけじゃないですけどー」
「ふむ、確かにそれはそうだ。少なくともお主らの技術は、かなり進んでおるようだからのう」
「アマテラスの人にそう言われちゃうと嬉しいなー。その研究で分かったのは、異界を発生させるには核が必要ってことなんだよねー。詳しい説明は省くけどね。異界ってのは大量のDPを吸収できて、その負荷に耐えられる存在を中心に形成されるわけね。つまり、それが異界の主なんだよねー」
説明しながら法成寺の表情がコロコロ変わる。神楽がオズオズと顔を覗かせると相好を崩し、引っ込むとションボリするのだ。だんだんと慣れてきたのか、神楽もちょっと遊んでる節もある。
「異界の主か。先ほど我と五条とでそれらしき悪魔を倒したが……御覧の通り。異界はそのままだ」
「つまり異界の主が別に存在するのでしょうね。それなら生徒たちを先に脱出させるべきでした。判断を間違えましたね」
新藤社長が思案顔で呟く。しかし生徒の数が多すぎるため上手く脱出させることが出来ない状況だ。何十人以上もの人間を、それも非日常の状況に遭遇した未成年者を統率することは非常に難しい。
先程の教室への誘導でさえ、てんでバラバラ勝手な行動をしようと騒ぐ生徒をまとめるため苦労したのだ。校門にある出口に連れて行き、先に通った者が目の前で消える様相を見たら大騒ぎだろう。
「まったく自分の仲間が死んでいるのに、泣くか騒ぐかだけですからね。自分の身を守ろうとしない生物なんて考えられませんよ。人間には危険意識が欠如してませんかね」
「ふむ、まあな。平和ボケというのは否定できないな」
「おまけに行動の基本が面白半分ですよ。行動結果さえ予測しないまま愚かな行動をする。呆れてしまいますよ」
「…………」
新藤社長が冷ややかな目で見上げる先には、校舎の窓で鈴なりになった生徒たちの姿がある。
そこに居る生徒たちの殆どが一様にスマホを構え、撮影を試みている。異界の影響で正常に作動しないため、困惑して騒いでいる様子が遠目でも分かる。
さっきなどは、社長のサインを貰おうと押しかけた生徒もいたぐらいだ。教室に誘導される途中でも、ふざけて突飛な行動を取ったり騒いで戯けてみせたりと、遊び気分の生徒も見受けられていた。
流石の藤源次も擁護できず黙ってしまい、亘も同じ人間として恥ずかしい気分になってしまう。
その時だった。
「があああぁ!」
「きゃああ!」
三原少年が一際大きく叫びだし、それに押さえつけようとした養護教員の悲鳴が重なった。全員がギョッとして視線を向ける前でのたうちまわりだす。
その腹が急激に膨らみだし学生服がまくれ上がり、露わになった皮膚の下でボコボコ何かが動めく様子が見て取れてしまう。あまりの不気味な光景に亘は息することさえ忘れていた。
「あああああああっ!」
異常なまでに腹を膨れませ、三原少年は頭を振りたくっている。それが、急にピタリと動きを止めた。ブチブチッと名状し難い肉の裂ける音が響き、少年の腹を裂き何かがズルリと這い出した。
志緒と七海が悲鳴をあげて互いにしがみつく。チャラ夫は法成寺にしがみつかれ、支えきれずに押し倒されてしまう。
亘は目を見張った。
「なっ! まさか……」
血と肉片に塗れるのは隈取のある蛙の頭で、頭には申し訳程度の銀髪がある。血肉と粘液に塗れた中で、大きな緋色の目が瞬く。
「やれやれ、種を植えつけておいて正解じゃったわい」
「お前……スオウか!」
「いかにも儂じゃて。おおうっ、険呑な奴がまた増えておるわな。これはいかんて。邪魔者は直ぐに退散させて貰うとするかの、くわばらくわばら」
「ふむ、逃がすと思うか」
すかさず苦無を構える藤源次だが、スオウが長い舌を擁護教員に巻き付け盾にしたため投擲することができないでいる。悔しそうに構えを解いた。
「くっ、人質をとるとは卑怯な!」
「ケケケッ、残念じゃったのう。月並みで悪いが、この女の命が惜しければ動くでないぞ」
「むう……」
「やれ、せっかく異界を発生させても何も得られなんだのが残念じゃわい。それでは儂はこれにて退散させて貰おう」
スオウは擁護教員を盾にしながらジリジリと移動していき、頃合いの位置まで移動すると人質をほっぽって走り出した。
肥満した蛙の身体が右に左にとコミカルに、しかし素早い足取りで走り去っていく。すかさず藤源次が追いかけるが、追いつけるかは微妙だろう。
案の定、しばらくして藤源次が戻って来た。残念そうな様子からすると、どうやら逃げられてしまったらしい。
「すまぬ、逃げられた。しかし、奴が逃げると異界が解け始めた。どうやら異界の主は奴だったらしいな」
「そうですか……しかし、この少年には気の毒なことをしてしまいましたね。もっと早く気付いていれば、どうにか出来たかもしれなかったですよ」
「残念なことをしてしまったのう」
新藤社長と藤源次が顔を合わせ声を落とす。
亘もそれに合わせて頷いたが、内心では自業自得ぐらいにしか考えていなかった。出会いの運不運はあるものの、甘言に乗って事態を引き起こしたのは三原少年自身だ。気の毒ではあるが、全ては自身が選択した結果でしかない。
「やはり、何らかの手段で異界を発生させたのは間違いないですね。一度関係者を集めて情報共有と対策会議を開かないといけませんかね」
「然り。我らが争っている場合ではないな。話が通りやすいよう、我からも上層部に進言しておこう」
「お願いしますよ。こう言ってはなんですが、そちらのご老人方はなかなかに難物揃いですからね」
「否定できぬところが辛いのう」
組織の立場上反目があっても、両者の関係は少しながら改善した様子だ。
それを眺めていた亘は、もう一つの組織が一向に到着しないことに気づきニヤリとする。これは面と向かって嫌な言葉を言った相手に仕返しする格好のネタだろう。まだ根に持っているのだ。
「そういや、結局NATSは来なかったな。ちゃんと連絡したのか」
「もちろんよ。そんなの私に文句を言われても困るわよ」
「こないだも間に合わなかったよな。毎度これだとNATSの存在意義も怪しいもんだな。それに捜査員の志緒さんは、今回こそ悪魔の一体ぐらい倒したのかな」
「そ、それはその……救助活動に専念しておりまして……」
亘の言葉に反応し、新藤社長も藤源次も志緒に目を向けだす。
「NATSは国の対悪魔機関なのですから、いつまでも民間におんぶに抱っこではなく、それなりに行動していただきませんと困りますね」
「うむ、NATSの連中は対策方法の検討と称しては、資料の提出や術の調査ばかりを要請してくる。里の連中からも文句の声が出ておる」
「それは必要なデータを確立して、適切な対策方法を立案するために必要なことなのよ。我々NATSと致しましても、皆様の安全と安心のため鋭意努力中でして……」
シドロモドロする志緒の様子に意趣返しをしてやれた亘はすっきりした気分だ。気分よく頭上を見上げると、ひび割れていく空の様子を眺めやる。
「異界の祭りは終わりか」
ぽつりと呟いた。
その言葉の通り、学園を襲った異界騒ぎはこれで幕を下ろす。
生徒たちは異界から解放され、認識阻害が作用したまま全て忘れ本来の世界へと戻っていく。理由の判らない恐怖や興奮した感情は残るものの、当たり前のように合流した仲間たちと学園祭の騒ぎにのまれ、全ては有耶無耶になっていった。
三人の学生が行方知れずとなったことは、それなりの騒ぎにはなったが、その存在も含めすぐに忘れられ日常へと埋没していったのだった。
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