第51話 早く何とかしないと
「嘘だっ!」
ホッと安堵しかけた亘へ鋭い声が投げかけられた。ダンッとグラスを叩きつけた相手が岩戸係長だったため、思わず嘆息してしまう。はっきり言って厄介なヤツだ。
細身で洒落た眼鏡をかけ香水までつけている。だがそうしたタイプにありがちな嫌味な性格をしており、例えばまとまり掛けた会議に一言茶々を入れて揉め返させるのだ。
そんな岩戸係長は亘と同年齢で同じ独身である。けれど違うのは、まだ諦めておらずアルバイト女性に一生懸命声を掛け気を引こうと努力している点だ。もっとも、女性陣からは迷惑がられ煙たがれており、全く成果があがっていないのが現実だった。
それだけに、亘に彼女がいると聞いて猛烈な反発心を抱いたに違いない。
「俺は五条係長が女と付き合えるなんて、絶対に嘘だと思う! どんな画像か知らないが証拠にもならないだろ! きっと合成か加工した画像なんだ。彼女がいるなんて妄想に違いない」
この言葉には自称温厚な亘もカッチーンときた。カチンどころではない。カッチーンだ。先程からの高田係長の態度といい、岩戸係長の態度といい我慢の限界だった。もうゴールしていいよねという気分で、もはや躊躇いはない。
ワザとらしく額に手をやって苦笑して見せる。
「ほう、それならいいでしょう。今度もデートで映画行く約束してますから、その待ち合わせでも見に来くればいいじゃないですか。実際見れば信じるでしょ」
「おっ言ったな、嘘じゃないなら見に行っても問題ないよな。それで困っても知らないぞ」
「どうぞー、自分は別に困りませんからね。あっ、でも彼女とイチャついてる最中に邪魔してこないでくださいね」
「はんっ! 嘘でなければな!」
どちらも引くに引けずの言い合いだ。しかし、場の雰囲気が悪くなっているかと言えばそうでもなかった。誰もが興味津々で面白そうな顔をしている。酔っ払いどもには格好の酒の肴だったに違いない。
切っ掛けとなった高田係長は責任を感じてか、わざわざ岩戸係長の側に行って肩を叩いて宥めようとする。
「まあまあ岩戸係長も落ち着きなされ」
「五月蠅いな、私は落ち着いてるでしょ。見れば分かるじゃないですか!」
「ぐっ……うえっぷ!」
亘は見た。振り払おうとした岩戸係長の手が高田係長の腹にヒットする。そこは、しこたま飲んだ酒が貯蔵された腹だ。高田係長の喉がグッとなる。次いでその目が極限まで見開かれた。その頬がパンパンに膨らみ――。
「ぶげれええぇぇぇええれえれえれっ!」
名状しがたい音とともに液状物が噴射され、辺りに撒き散らされる。明日から高田係長の渾名は『マーライオン』に違いない。そして目の前にいた岩戸係長は汚い滝に頭から打たれることになった。
「ぎやあああああああっ!」
「誰か! 雑巾、雑巾持ってこーい! 誰かー!」
飲み会は阿鼻叫喚の場へと変わり、もはや場の雰囲気と言っている場合ですらなかった。そんな惨劇に遭遇した岩戸係長を気の毒に思うよりは、ザマアと思う者が大半だ。
そんな職場の飲み会だった。
◆◆◆
阿鼻叫喚の飲み会から数日が経った日のこと。亘はアパートの部屋で電話をしていた。
「――とまあ、そんなやり取りがあってね。うん……まあ、そうだね。自分でもバカだなと思うよ……えっ、そんなことない?……そりゃどうも。それでだね、今週の土曜日にちょっと時間を貸して貰いたいんだよ……うん。そうだ、デートのフリをして欲しいんだ……だからフリだよ。聞いてます?……そりゃ失礼。で、待ち合わせして映画を見てお礼に食事を……行ってくれるの? そうか助かる恩にきるよ……うん、うん。じゃあ、そういうことで。時間と場所はメールするから。じゃあ……うん、本当にありがとう」
通話を終えた亘は大きく安堵の息をついた。耳にあてていたスマホをコタツの上に置くと、背後に倒れ込む。仰向けで手を延ばしプルプルッとして、クタッと力尽きたように投げ出す。
天井との間に小さな巫女姿の少女が飛んできて、腰に手をやり得意そうな顔をする。
「ほうらね、ボクが言った通りでしょ。ナナちゃんオッケーしてくれたでしょ」
「そうだな。神様仏様七海様だよ」
宙に浮かぶ神楽を下から覗めながら亘は答えた。
あの一件が飲み会の戯言として流されるかと思いきや、岩戸係長から『見に行くから時間と場所を教えろ』と宣言されてしまったのだ。どうも亘が嘘を言っていると固く信じ込んでいる様子だった。臭い思いをしたので、余計に意地になっているのかもしれない。
そのせいで亘は窮地に陥ってしまい、嘘なんてつくものではないと激しく後悔したのだ。七海に事情を話し助けを求めるしかないが、キセノン社の異界であんなことをしておいて、今更頼めたものではないと困り果ててしまった。
それを神楽が大丈夫と何度も太鼓判を押したのと、引くに引けない状況から思い切って頼んでみたのだ。予想外の了承が貰えたから良かった。もしダメだったら、岩戸係長を異界に招待して口封じしようと考えていたぐらいだ。それもかなり本気で。
それだけに了承が貰えた安堵は大きかった。
「マスターってば、すぐ調子に乗るからダメなんだよ」
「反省の言葉もありません」
「それにナナちゃんの反応。ボクの言った通りだったのに、すぐ信じなかったよね。酷いよね」
「申し訳ありません」
「誠意は言葉でなく、態度で表すものだよね」
亘は立ち上がって、棚から持ってきた饅頭を神楽にお供えする。小さめの薄皮饅頭でおやつにしようと準備しておいたものだ。
ちぎっては食べ、ちぎっては食べを繰り返す神楽の口に、ひょいぱくひょいぱくと饅頭が消えていく光景は実に不思議だ。あっという間に一つ食べ終えてしまう。
そんな神楽は次に手を伸ばしながら、ふと思いついたように亘の顔を見上げた。モグモグして口の中を空にする。
「あのさ、マスター。映画見るんでしょ、どんなの見るか決めてあるの?」
「ふむ、そうだな調べておこうか」
亘はスマホを手に取り、上映中の映画を調べてみた。
「おおっ『大怪獣ギャメラ 怒りのプラズマ火球』だと。これなら子供も楽しめるな。きっと七海も喜ぶだろう」
亘は目を輝かせた。それはタイトルの通りの特撮映画シリーズで、その最新作だった。これなら七海も喜ぶに違いないと亘は笑顔で頷く。懐かしの主題歌を上機嫌で口ずさんだ亘に対し、あにはからんや神楽は冷たい目をした。半眼ジト眼という奴である。
「……それ駄目でしょ。チャラ夫じゃあるまいし」
「何気に酷いな」
驚くことに神楽が饅頭を食べるのを止め、手を打ち払いながら机の上をトコトコ歩いてきた。小さな指で手招きすると、差し出されたスマホ画面に手を突っ込む。小さな眉が寄せられ思案顔になると、それに合わせて画面が高速で目まぐるしく変化していく。最近の悪魔は、すっかりスマホナイズドされているようだ。
やがて画面から手を引き抜いた神楽は満足げに頷いた。
「ほらマスター、こっちの『白い木馬』にするといいよ。口コミ情報だとデートにお勧めだよ」
「なになに、敵軍に襲撃された基地から脱出するため、強襲揚陸艦に乗り込んだ少年は新型兵器を駆使し、襲い来る敵と戦いながら仲間とともに故郷を目指す。しかし偶然捕らえた敵の少女と恋に落ち、少年は仲間と少女の間で心を揺らす……なんだかな。過去の名作をリメイクしたようなダメ臭が漂ってくる気がするが」
「いいの! デートなら、こーゆー悲恋もの見ないとダメでしょ。あっ、悲恋になるのは内緒だったよ」
「デートね、言っておくがデートじゃなくてフリだからな。しつこいバカの追及を誤魔化すために、頼み込んでお願いしただけだ。七海だってデートだなんて思ってないだろうよ」
「あのね……はぁっ。女の子と二人で映画を見て食事して、これをデートと言わずして、なんていうのさ」
神楽は反論できない響きで言いきると、小袖をはためかせ指を突きつける。片方の手を腰にやった、お説教モードだ。これは反論するだけ無駄だと賢い亘は瞬時に悟る。
「それにね、誘った以上はフリだろうと、相手のことを考えて選ばないとダメなの! 分かった?」
「まあ確かにそれはそうだ、一理ある。分かった了解だ」
「じゃあさ、念の為に聞いとくけど、食事はどこにするつもりでいるの?」
問われた亘は得意そうにフフンと鼻をならした。
「流石にそれぐらい考えてあるさ。駅前に美味いラーメン屋があってだな、あそこの醤油豚骨は並んでも食べる価値がある。きっと七海も気に入るはずだ」
「あのね……デートで豚骨ラーメン食べるバカがどこにいるのさ」
神楽はワザとらしく膝をつき、よよよっと小袖で涙を拭うフリをしてみせる。なんだかバカにされたような気がして、亘は口を尖らせた。
「さっきからこっちの話を聞いてないだろ。だからフリなんだよ」
「フリでもなんでも、女の子に豚骨醤油を勧めるのはないでしょ……」
今度は、こめかみを抑えため息をついている。
しかし亘はそんな様子を無視して、醤油豚骨ラーメンのつもりでいる。それを半眼で睨んだ神楽はまたしてもスマホ画面に手を突っ込み、画面を高速変化させた。
「ほらマスター、映画館近くにあるレストランにしなさい。お値段手頃で雰囲気も良くて彼女も大満足でした、ってレビュー評価があるでしょ」
「そういうレビューって、ステマが多いんだよな」
「うるさーい! とにかく女の子とは、こういう所で食事しないとダメなの!」
「美味しいんだがなあ……」
駄目だこのマスター早く何とかしないと、神楽は物憂そうに額へと手をやり当日までしっかり教育しようと決意したのだった。
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