第五章
第50話 男の矜持
『飲みにケーション』という俗語がある。コミュニケーションを円滑にするため、同じ卓を囲んで酒を飲み交流を深めるという意味合いだ。確かに飲み会にはそういった側面もある。交流を深める手の一つかもしれない。
しかし日本における飲酒環境は良好ではない。本人の体質を無視した飲酒強要や、意図的な酔い潰しなど様々なアルハラを含んでいる。ことに社会人となって職場の飲み会となると、普段の上下関係がそのまま持ち込まれる。
その上で日頃の憂さ晴らしでか、ベロベロになるまで飲んで醜態を晒す者や、大声で叫び暴れだす者まで存在する。体質的にアルコールに弱い者は、ほぼ素面で酔っ払いのただ中に置かれ、アルハラパワハラセクハラを受けつつ、喫煙によって生じた副流煙を吸わされ、高カロリーで脂っこい塩分の高い食事をつつくことになる。
しかも断れない状況での、半強制的動員だ。職場の飲み会など、まったくもって悪しき習慣だろう。
そんなことを考えながら、五条亘はひっそりとため息をついた。
職場の飲み会の最中だ。係長層で集まった飲み会で、煩い上司も気を遣う部下もいないため、同僚たちは徐々に羽目を外しだしている。同じ公務員として恥ずかしい下ネタ発言や、一発芸などが次々と披露されていた。
亘は隅の方でひっそりと油と塩気の強い宴会料理を、しかし参加費を払った以上は勿体ないというミミッチイ考えでチビチビと食べている。冴えずパッとしない顔もこんな時ばかりは目立たずありがたい。
と、そこに誰かがやって来て隣に座った。グイッとビール瓶が突き出される。
「やっ、これはどうも五条先生ありがとうございます! いやもう本当、私なんて五条先生のおかげで生きてられるようなものですよ」
「それはどうも。こちらこそ高田係長には、お世話になってます」
ハイテンションな同僚にアルコールに弱いので飲めないと断り、逆に相手が持参しているグラスにビールを注いでやる。目立たないようにしているのは、こうした輩が来るからだ。アルコールに弱いと常々言っているのに、それでも毎度押しつけがましく酒を勧めてくるので鬱陶しかった。
「いえいえ私など、五条先生の足元にも及びません。そんなことより、五条先生は独身ですよね。何で結婚しないんですか、女房はともかく子供は可愛いですよ。先生も早く結婚して親を安心させたげてくださいよ。あっ、それとも男が好きなタイプですか!」
そうら来た、と表情を平静に保ちつつ内心忸怩たる思いで歯噛みする。これが隅で目立たなくしていた一番の理由だった。独身であると、それをネタに弄りだすヤツが必ずいるのだ。
内心身うんざりしながら、すっかり出来あがった高田係長の相手をする。わざわざ先生付けして呼んでくる慇懃無礼な口調は粘つくようで嫌らしい。おまけに酒を飲むと好き放題言いだすので、上手に相手をせねば独身ネタで笑い物にされかねない。
「そんなことないですよ。自分はちゃんと女の人が好きですから。あと男は嫌いなんで顔を近づけないで欲しいですね」
「えーっ酷いことおっしゃいますねぇ。じゃあどうですか、女が好きなら総務課のアルバイトさんなんて如何でしょうか。ほうら、あの二王強子さん。あの人、独身ですよ。五条先生と年も近いしですしお勧めしちゃいますよ。噂では五条先生に気があるらしいですし、いやこれは参りましたね。ご結婚おめでとうございます!」
「御大に興味はないので、変なこと言わないで欲しいですね」
お勧めされた相手は『御大』とのニックネームがある。もちろん名が体を表すような女傑で、亘と年齢が近いと言っても上側で近い方になる。つまり年上だ。
縁など持ちたくもない。
高田係長は酒を飲むと、その間の記憶をケロっと忘れてしまうタイプだ。しかし、周りの同僚たちは別である。変な噂が残らないようキッパリ否定しておかねばならない。こうした手間が実に面倒臭かった。
「えーっ。いいじゃないですか。結婚なんて妥協ですよ。妥協、妥協しなきゃだめですよー」
「そりゃ高田係長はそうだったかもしれないですけどね」
「五条先生、酷い。私泣いちゃう、泣いちゃいますよ、本当ですよ」
「泣くなら向こうでお願いします」
ウザイ。
「おっと五条先生に失礼なこと言うと、日本刀でぶった斬られちゃいそうですね。私を斬らないで下さい。お願いしますよ先生」
「考えときます」
果てしなくウザイ。
「それより結婚しなきゃ結婚。二王強子さんと結婚してあげてくださいよ、先生」
「嫌です」
「それならもう私の中で五条先生は男の人が好きな人ってことにしちゃいますよ。きゃー、私を襲わないでー」
異常にウザイ。
しかも顎を突き出すようにして顔を近づけてくるため、そっちもウザイ。アルコール臭い赤ら顔を殴りたくて堪らなかった。
そろそろスルースキルも限界で、亘は適当に誤魔化して追い払うことに決めた。しつこい酔っぱらいを黙らせるための方便。亘も多少酒が入って少し口が軽くなっていたのもあるが、酔っ払いを適当に誤魔化そうという程度のつもりで発言する。
「あーもう……あのですね、自分はもう付き合っている娘がいますから」
賑やかに騒いでいた場が一瞬で静まりかえってしまった。ここが下世話な酔っぱらいどもの巣窟ということを忘れていたのがいけなかっただろう。
「どんな娘だよ」「おいおい、さすがにそれは嘘だろ」「式はいつだね式は」「五条君はてっきり独身を貫くと思ってたのになあ」「そりゃ嘘やろ」「マジそれ信じられん」「ちょっとちょっと相手は誰よ。職場の子か」「結婚相談所行ったの」
口々に騒ぎ立てる同僚たちを、まとめて異界に放り込んで亡き者にできたらどんなに胸がすくことだろうか。そんな妄想で現実逃避してしまう。だが何はともかく、この場をどうにか収めねばならない。どうするか……悔しいが『嘘』が一番良いだろう。酔った感じで『冗談でーす』と軽く言うのが無難に違いない。
「まあまあまあ皆の衆、お待ち下され」
しかし高田係長がすっくと立ち上がった。両手を上下させ全員の注目を集めると、この酔っぱらいは首をぐるりと回して亘を指差してくる。芝居がかった仕草が、これまたウザイ。
「ずばり五条先生! あなたは嘘を言ってます! 私が見るに、五条先生は女の人と付き合ったことがないはず! そうでしょう間違いないでしょう、だから嘘なんですよ」
「へえぇ」
あまりと言えばあまりの言葉だ。確かに高田係長の言っていることは正しい。けれど正しかろうが酔っていようが、言って良い言葉と悪い言葉がある。亘はグッと堪えてきれそう心を飲み込んだ。
「嘘じゃないですよ。付き合ったことぐらいありますし、現に今だって付き合ってますから。この歳で彼女がいるぐらい当然じゃないですか。はっはっは」
「うーそーだー、嘘、嘘なんですよ。嘘はいくないですよー。いくないー」
「嘘じゃないって言ってるんですけどね」
異界で数多の悪魔を屠った亘は当人が思っている以上に凶暴だ。機嫌を損ねると、纏う雰囲気がゾワリと変わる。勘の良い何人かは気づいて怪訝な顔をしたが、肝心の酔っ払いは気づいた様子もない。相変わらず粘っこい喋りをしている。攻撃ならぬ口撃だろう。
「じゃあ証拠見せて下さいよ、証拠。彼女とどこまでしたか話して下さいよ。お願いしますよ先生」
「なんでそんなことをする必要があるのかな」
「嘘でなければ証拠があるんですよ。はい論破、論破入りましたよ!」
酔っぱらいの口撃は止むことがない。論破と言って意見を封じ込め、相手が呆れて黙ったのを勝ったと錯覚している様子が腹立たしい。
亘は表情のない目で相手を見やる。空のグラスを片手に大声をあげる姿は隙だらけだ。黙らせるなら喉に一撃を入れ、そのまま頭を掴んでテーブルに叩きつければいい。餓鬼を相手にするより、よっぽど簡単だろう。
ふっ、と息をつく。
「論破されては仕方がないですね。証拠として写真をお見せしましょう」
喉を突く代わりにスマホを取り出すと、高田係長が呑気に画面をのぞき込もうと顔を近づけてくる。アルバムを開き一枚の画像を選択すると、脳内シミュレートではとっくに死亡している相手にそれを見せてやった。
それは、やや緊張気味にしゃちほこばる亘と、その腕に抱きつき肩に頭を押し付け満面の笑顔を浮かべた七海の写真だ。何故か知らぬが、一緒に写真を撮りたいと言われ撮影したもので、カメラマンは神楽だ。
その時は緊張して気恥ずかしい思いをしたが、実は亘の宝物の写真だ。時折眺めては鼻の下を伸ばしている。そんな大事な写真を見せたくなかったが仕方ない。
「どうです、これこの通り」
「おっ、先生やる気ですね。どーれどれ……滅茶苦茶可愛い子じゃないですか。どういう子なんですか? どこで知り合ったんですか? 年幾つで、どこまでしたんですか?」
「エレベーターで一緒になって、声をかけたんですよ。年齢は……二十歳ですけど、しっかりした娘ですよ。一緒に食事したり秘密の場所に出かけたりですね。アパートでシャワーとか、まあ後は言うまでもないですね」
スラスラと答えて見せる。
実に堂々としたものだ。付き合っていることに年齢、それ以外は嘘を言っていない。言葉の使い方で勘違いするのは相手の勝手というものだ。年齢を二十歳としたのは、さすがに十代では拙いだろうとの配慮だ。
「ほほう。これはこれは五条先生も隅におけませんねえ。で、この巨乳で超可愛い娘の写真を私にもっと見せて下さいよ。お願いしますよぉ」
「あとは人様にはお見せできないですね」
「そうですか、仕方ないですね。エッチい写真ですか、そういうの見せたら怒られますからね。私も女房の見せて、殺されかけましたから」
高田係長が年甲斐もなくテヘッとおどけると皆が湧く。
どうやらこれでしつこい追及は終わったようだ。写真を使わせて貰った七海には悪いが、これで男の矜恃は守られたのだ。
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