第47話 クスクス笑う少女

 藻女御前は、ゆっくりと光の粒子へと還元されていく。同時に、頭の中に残っていたピンクがかった霞が朝日を浴びる霜のように消え失せていった。残るは自前の煩悩だけだ。

 激しい戦いをくぐり抜けた戦闘の興奮がある。さらに、もっと反応してしまうものが目の前にある。それが背を向けた、しなやかで躍動感ある七海の存在だ。

 亘は生唾を呑み、そのお尻を眺めていた。

「五条さん、ご無事でしたか!?」

 七海が顔を輝かせながら振り向くと、胸がユサッと揺れている。

「私、やりましたよっ! 異界の主を倒しました!」

 戦闘の興奮のまま、七海は駆け寄ってくる。おかげで亘の目は釘付けとなってしまい、躓いた七海への反応が遅れてしまう。

「きゃっ」

「おっと」

 亘は支えようとするが、触れて良いものか迷い思わず手を引っ込めてしまう。そのため、結局は腕の中に抱き止めてしまうことになる。支えきれず、二人まとめて倒れ込んでしまう。

 七海の頭を抱きかかえ……ムニュウと柔らかな感触を感じる。

「はうっ!」

 亘は妙な声をあげてしまった。もう限界だったのだ。こんな夢のような状況なんて――。

「熱っ! ……えっ、これって……」

 驚いた七海が驚いてパッと離れる。そして見知らぬ謎の物体を指ですくい取り、しげしげと不思議そうに見つめるではないか。

 亘は死んだ。


◆◆◆


 キセノン社の屋上庭園にあるベンチで、一人の男がシクシク泣いている。言わずと知れた亘だ。肩口に立つ神楽がその頭を、よしよしと撫でている。

「マスター、せっかく異界から無事に出られたんだよ。元気出しなよ」

「もういいんだ、終わったんだよ。そう全て終わった……全部見て見られて出して、何もかも終わったんだ」

 異界を脱出し、すでに小一時間経過していた。


 あれから脱出する辺りのくだりは、あまり覚えてない。思考停止状態で自動人形のようにギクシャクと最低限の服を身に着け、神楽とチャラ夫を回収して異界を脱出した。そして、すぐ気づいてやって来た新藤社長に後処理を丸投げした。そして七海の世話をお願いするため、藤島秘書に事情を話し強烈な平手打ちを貰ったことまでは覚えている。

 その後はふらふらと歩いて、気づけば屋上にいて風に吹かれていたのだ。


 藤島秘書に叩かれたことはどうだっていい。何よりショックなのは、七海の胸でやらかしてしまったことだ。大丈夫ですよと慰められ、気にしないで下さいと優しく微笑まれたことが、なおショックだった。

「…………」

 そして状態異常は完全に解消されたものの、記憶は消えはしない。

 亘は嘆きつつ、手に感じた柔らかさや姿を鮮明に思い出している。腕の中で可愛らしく反応した少女の白い肌は滑らかで柔らかく、これまで欠かさず予習してきた各種資料の中でも比較がないぐらい美しかった。

 それを手にするチャンスを棒に振った後悔もある。どうして自分は最後までいかなかったのか、途中で止めずとも終わった後でもよかったのだろうか。今になると、そう思って後悔してしまう。

 同時に、そんな自分本位な考えが堪らなく嫌になる。

 亘からすればチャンスかもしれないが、しかし七海からすると全く別だ。幾ら状態異常とはいえ、男に襲われかけたのだ。冷静になった今頃は、嫌悪と恐怖で身を震わせているに違いない。

 そんなことをして、しかも最後には最悪のことをしている。二度と口を聞いてくれないどころか、見たくもない存在になったのは間違いない。これで完全に嫌われてしまっただろう。

「はははっ……はあ……」

 亘は自虐の笑いをあげ頭を抱えた。

 もしかすると屋上に来たのは、無意識にアイキャンフライを求めていたのかもしれない。もっとも屋上は高いフェンスで囲われ、そんなことはできないようになっている。

「ほんと自分ってば、情けないな」

「もお、元気出しなよ。うん?」

 神楽はどう慰めたものか困り顔をしながら飛んでいたが、人の気配を探知して振り向いた。

「ナナちゃんだ。おーいナナちゃん、ここだよ」

「!」

 亘は目に見えてビクついた。今から糾弾され責められ、藤島秘書にされたような平手打ちを受けるのだ。チラと目をやれば、Tシャツとジーンズ姿に着替えた七海の姿があった。その手に何かあるが、冷静になった七海が刃物を手に復讐を決意したとして何ら不思議ではないだろう。だが、責任は取らねばならない。甘んじて報復を受けねばならない。

「はい。どうぞ」

 しかし覚悟を決めた亘の前に差し出されたのは、ペットボトルだ。天然水という名のただの水だった。


 亘はわけの分からないまま受け取ると、隣に腰を降ろす七海を横目で見やった。微風が仄かなシャンプーと石鹸の香りを運び、鼻孔をくすぐる。こんな状況下でも思わずドキリとしてしまう。

 謝れば許してくれるかもしれない。そう考えてしまうのは、身勝手な男のエゴに過ぎない。許して欲しいから謝るのではなく、悪いと思うから謝らねばならないのだ。

「…………」

「…………」

「……悪かった。怒ってくれていい、軽蔑してくれていい」

「――……ってませんよ」

 呟くような言葉に亘は思わず顔を向けた。七海はペットボトルを両手で包み空を見上げている。下ばかり見ていた亘だが、つられて空を見上げた。

 高層ビルの屋上となれば上空を飛ぶ飛行機の音が微かに響くだけで、下界からの音は殆ど聞こえない。世界と隔絶されたような屋上庭園は静かで、造られた人工林には鳥もおらず虫もいなかった。この偽りの自然空間こそ生物にとっては、異界かもしれない。

「――怒ってませんよ。だからまた一緒に異界へ行きましょう」

「…………」

 わけが分からなかった。

 普通は怒るところだろう。怒って糾弾して絶縁絶交すべきはずだ。二度と顔も見たくないと思って当然だろう。なのに何故怒ってないのか。

「でも、自分はあんなことして……どうして……」

「さあ、どうしてでしょうか。良く考えてみて下さい」

 クスクスと笑う声を聴き亘は考え込んだ。


 もしかすると惚れられたという可能性が微少レベルで考えられるが、そんなご都合主義が成立するなら、人生ここまで苦労しやしない。

 つまり良く考えろとは、これから先を贖罪に生きろと暗に責めているのだろうか。それとも怒りの次元を超越し、異性とすら意識されず怒る価値すらないと思われているのか。分からない。

 分からないが、いいだろうと決意する。

 七海がそうと言うなら、理由なんてどうでもいい。これまで通り異界に行って手を貸そう。償いとして、精いっぱい七海に協力してみせよう。

 結論づけた亘は決意と共にペットボトルをあおった。


◆◆◆


――その娘は静かに狂っていた。

 異界の主の放つ状態異常は人間の脳内で様々な脳内物質を強制生成させ、疑似的感情を植え付けるものだ。普通であれば、解除されると同時に正常へと回復する。

 しかし七海の場合は違った。

 強い精神操作を受けながら神楽が放つ状態回復を連続で受け、脳内物質生成のオンオフが短時間で何度も繰り返された。あげくに、とどめとばかりに電流が彼女を襲ったのだ。

 それが彼女の脳に強い影響を与えていた。心的外傷にも似たダメージを刻み込み狂わせてしまったのだ。抱いていた感情が固定化されてしまい、五条亘のことを考えるだけで上気し、姿を見るだけで鼓動が高鳴る。傍らにいるだけで例えようもない幸福を感じてしまう程だ。

 クスクス笑う少女の目には静かな狂気があった。

「ところで途中でしたけど、私じゃダメですか?」

「ブファァ!」

 亘は口から盛大に水を吹き、死にそうなほどむせ返ってしまう。小袖に水しぶきを浴びた神楽は迷惑そうな顔だ。そして七海は心配そうに亘の背中をさする。

 苦しそうに目に涙を浮かべた亘が神楽へと命じた。

「ゲホッ。神楽、ゲホッ。コヒュッ、七海にもう一度、ゲホッ、状態回復だ」

「はへ? なんでナナちゃんにさ? 別にナナちゃんは状態異常じゃないよ」

「馬鹿たれ、どう見たって状態異常が残ってるだろうが。早くかけるんだ」

「今日はMPがないから無理だよ」

「MPが無ければHPを変換してでもかけろ。大丈夫だ、神楽ならできる!」

「無理だよお」

「五条さんも神楽ちゃんも下に戻りましょう。チャラ夫君が待ってますよ」

 クスクスと笑う七海は優しく促し、やいのやいのと言い合う亘と神楽と一緒に歩き出した。

 誰も少女に宿った狂気に気づかない。

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