第45話 本能の赴くまま

 嫌な予感がする。

 亘は急かされるように出口の方向へと進む。ここで走り出せば何かが起きそうで、早足でしかない。チャラ夫も七海も同じ気分らしく、怯えた様子で周囲を見回し後ろをついてくる。

 大会議室の前に差し掛かったところで神楽が声をあげた。ピョンッと飛び立ち、小さな手を振りながらドアを指し示す。

「ここだよ。ここに出口があるよ」

「そうか早いとこ脱出しよう。中は……良かった、特に何もなさそうだな」

「変な臭いもしないよね。ほら、出口は奥の辺りだよ」

「よし早いとこ脱出しよう」

 神楽が指し示す奥の壁に向かって歩き出す。だが、数歩進んだところで足を止める。何か粘つくような視線を感じてしまった。

―やれ、しぶとい

 何かが聞こえた気がした。それが、あの夢を見せられる前に感じたものだと気づく。やはりどこかに敵がいる。咄嗟に周りを見るが、敵の姿を見つけることはできない。

 そんな様子に神楽が不思議そうな顔をする。

「どしたのさ、マスター」

「何かいる!」

「そんなはずないよ。だって、ボクの探知だと何も感じないもん」

「いや間違いない! 出口に走――」


――我の術に溺れよ

 何かムワッとしたものが押し寄せた。それは、耳元に生暖かい息を吹きかけられたような感覚だ。そして視界が歪むような眩暈。胸の奥が熱くなり、思考がかき乱されてしまう。

「くっ!」

 手で顔を押さえ意識を保とうと堪えるが、視界の端で神楽が光の粒子となって懐へ――スマホを納めている場所へと吸い込まれるのが見えた。

 拙い。

 出口を開くには神楽の力が必要だ。再度召喚し、ここから早く逃げねばと思うのだが、頭の中に熱っぽい感情が込み上げてしまい動きを阻害する。もし、これが夢の世界への誘いだとしたら……あの悪夢を再び見たくない。その一心で、亘は熱にのまれそうな意識を繋ぎとめた。

 そこにチャラ夫が苦しそうに、ふらふらと縋りついてくる。

「兄貴……」

「チャラ夫?」

「兄貴、俺っちもう駄目っす……」

「しっかりしろ。出口までもう少しだ、気をしっかり持つんだ」

 苦しそうに呻くチャラ夫を励まし肩を支えてやる。

 見ればチャラ夫の顔は赤くなり、半開きにした口から荒い息が洩れている。もう立っているのも辛いのか、手を貸し支える亘へと身体を預けてくるほどだ。

 非常に拙い状況だ。近くに何か敵がいるのは間違いない。自分自身でさえ動くのがやっとで、チャラ夫の面倒をみている場合ではない。

 チャラ夫を置き去りにして、自分だけでも逃げるべきだ。冷徹な心がそう囁き、同時に嫌われることを恐れる心がそれを押し留める。熱っぽい頭もあって、どうしていいのか分からない。

「チャラ夫、しっかりするんだ。動けるか」

「俺っち……、俺っちはもうダメ……」

「無理に喋るな。辛いなら座れ、それでも辛いなら横になってろ……えっ?」

 チャラ夫が支えていた亘の手を握りしめてきた。

 それは思いの外強い力で、ギョッとした亘は手を放そうとするが、妙にしっかりネットリ握られてしまい放すことができないでいる。

 それどころか――。

「俺っち兄貴が好きっす! 抱いてっす!」

 頬を染め口を尖らせてンーっとしてくる。

 亘の目がクワッと開かれた。怒りと恐怖と嫌悪により、クラクラする意識が一瞬で正常へと引き戻される。強引に引き剥がしたチャラ夫の顔面に渾身の右ストレートを放つ。

「ぐぎゃっ」

 APスキルで強化された一撃はチャラ夫を壁まで吹っ飛ばした。バタッと倒れて動かなくなった姿を見ても、心配より安堵の方が強い。

 おぞましさに腕がゾワゾワしており、鳥肌が立っているのは間違いない。自分は悪くない、そう思う亘だが再び頭が熱っぽくクラクラしだしてきた。

「くっ、これは状態異常攻撃か。なんて恐ろしい……」

「……五条さん」

「!」

 艶を含んだ声が聞こえ、亘は弾かれたように振り向く。そこには瞳を潤ませ、もじもじと顔を上気させる七海がいた。


 亘は理解した、これは魅了の状態異常なのだ。

 目の前の七海は完全に状態異常にかかっている。このまま流されてしまえば、対策班たちと同じ行為に及ぶことが出来てしまう。思春期以降興味と関心を高めつつ、けれど縁もチャンスもなく憧れつつも諦めてきた行為。

 それが七海という少女を相手にできてしまう。

 ゴクリと唾を飲み込むが、それでも全てを投げ打ってまで行為に及ぶ勇気がない。何も考えず衝動に突き動かされる子供ではないし、長年かけて培われた頑固で臆病な理性がある。つまりヘタレだからこそ、尻込みしているのだ。

――さあ、我慢は良くないぞ。

 そんな亘を一際濃いムワッとした空気が包み込む。


 頭の芯が熱っぽさを通り越し痺れてしまった。視界はピンク色した霞がかり、まともな思考ができない。ぼやけた視界の中に潤んだ瞳の少女を捉えると、たちまち意識の全てが埋め尽くされてしまう。フラフラとした足取りで近付き手を伸ばす。

 触れたところで思い切り抱き寄せると、腕の中に感じた柔らかさと鼻腔をくすぐる甘やかな香りに残っていた理性は吹き飛んだ。

 そこからは本能の赴くままだった。気がつけば、自分より二回りは年下な少女を会議室の床の上に押し倒していた。下着姿は写真集で見た以上に美しく、白くきめ細かな素肌の感触は驚くほど滑らかだ。ブラジャーから溢れるそうなほどの巨乳が呼吸によって緩やかに上下し、くびれた腰のお臍も可愛らしい。

 熱に浮かされた思考のまま、ほくそ笑む。このグラビアアイドルとして活躍し、多くの男が憧れるであろう美しい少女を自分のものにしてやるのだ。

 予習と予行演習だけを繰り返す日々に終わりを告げようと、下着を剥ぎ取ろうと手を伸ばし――顔を隠すよう両頬を押さえた少女の仕草を、拒絶と否定の意に感じてしまった。

「!」

 刹那、我に返る。

 嫌われることを恐れ、他人の顔色を窺ってきた人間にとって最も恐れる反応を認識し、背筋に冷水を浴びせられたように理性を取り戻す。自分がしようとした不埒な行為に気付き、飛び退くようにして七海から離れた。単にへたれたとも言う。

「このバカがっ!」

 自分で自分の額を殴りつけるが、その想いは複雑だ。

 恐怖を感じた自分が悔しく情けなくもあった。今この瞬間も、七海に飛びつきたいと考えてしまう劣情がある。それなのに――もう手遅れかもしれないが――嫌われることが恐くて行動できない。


 魅惑的な姿から必死に目を逸らし、脱ぎ捨てた服の中からスマホを取り出す。夢の中で助けを求めるようなもどかしさで電源を入れる。たったそれだけの行動でも必死だ。

 起動までの数秒間が、とてつもなく長い。誘惑に流されそうな亘にとっては、人生で最も長い数秒だと言える。

 画面に光が灯り起動画面の表示もそこそこに、小さな姿が勢いよく飛び出した。

「ボク復活! って、マスターどしたのさ!?」

「状態異常だ……回復してくれ……」

「うん! 『状態回復』だよ」

 苦しそうな声に応え、神楽がすかさず魔法を発動させる。

 たちまち亘の頭に清涼感が広がった。高熱時の冷えた手拭いのように心地よい。まだ劣情は胸の中で渦巻いているが、それは自前のものであって耐えられない程ではなかった。大きく息を吐く。

「すまん助かった。七海にもかけてやってくれるか」

「うん。ナナちゃん大丈夫?」

 しかし七海には神楽の声など耳に届いていおらず、その目は亘を見つめたままだ。

 苦しそうに浅い息を繰り返し、下着姿を気にした様子もなく、ぺたんとした女の子座りでいる。足の間に両手を挟み込み潤んだ瞳だ。そのため、二の腕で挟まれた豊かな胸が一際強調されていた。熱を帯びて上気した素肌は汗ばみ、乱れた髪の幾房かが頬にかかっている。

 それは亘がこれまで見てきたどんな画像や資料より、ずっと美しく色っぽい。状態異常など関係なく、即座に飛びつきたくなる誘惑が込み上がってしまう。それを、全理性をもって耐える。

「はいっ『状態回復』だよ」

 神楽の魔法により淡い光に包まれると同時に、七海の呼吸が普通に戻った。

 だが、亘と違ってAPスキルによる状態異常耐性を取得していないせいだろうか、すぐにまた苦しそうな浅い息に戻ってしまう。それどころか、ますます苦しそうな息をしながら亘を見つめてくる。

「あれ!? もう一度 『状態回復』、むむっ『状態回復』、だったら『状態回復』、さらに『状態回復』……効いてるけど、駄目かな。念のため 『状態回復』、やっぱダメだよ。回復させても戻っちゃう」

 魔法の発動と同時に七海の身体がビクビク動き、むしろ悪化していくように見える。神楽が困り果てた顔をするが、亘も目のやり場に困り果てている。呼吸に合わせ豊かな胸が上下に揺れるではないか。

「もういい。それより、弱い電撃で気絶させることはできるか」

「いいの?」

「早くしてくれ」

 それは七海の為というより、自分自身の為の指示だ。これ以上は誘惑に耐えられない。今でも殆ど耐えきれていない。亘の視線は七海に釘づけで、本当なら今すぐにでも飛びついて思うさままに触れて抱きしめ思いを遂げてみたかった。それを必死で堪えているのだ。

「う、うん。了解だよ。ナナちゃん、ごめんね、『雷魔法』」

「きゃんっ」

 小さな光球に打たれ、七海が小さな悲鳴をあげる。トサッと倒れる姿が尚のこと魅惑的だ。仰向けになっても、大きな胸は全く形が崩れさえしないのは流石としか言いようがない。


 亘はそこから苦労して視線を剥がした。

 歯を噛みしめながら部屋の奥へと顔を向ける。そこに何かがいる。鋭敏になった感覚が粘つく視線の元をそこに感じ取っていた。

「出て来い! そこに居るんだろ!」

『妾に気付いたか。ほほっ、それに何度も妾の術を退けるとはのう……よかろう、妾が相手をしてやろう』

 わだかまる闇で何かがのそりと動く。

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