第41話 爺に手を引かれ

「なんじゃワタ坊。こげなとこで寝おってからに」

「えっ?」

「ほれ、風邪ひくで家に入りなんせ」

 亘は誰かに声をかけられ、目を覚ました。

 目の前に、どこか見覚えのする老人がいる。それが誰だったか覚えはあるのに思い出せない。数秒考え込んで、目を最大限に見開いた。

「爺ちゃん!? なんで、どうして?」

「はあ? どうもこうも、何を言っとるや。ほれ、もうじき夕飯じゃろが。今日の夕飯はな、婆さんがトロロ汁や言うとったで。はよ行くぞ」

「行くって、えっ? どこに?」

「まだ寝ぼけとるんか? 夕飯じゃろが、ワタ坊はほんに何を言っとるや」

 とうに死んだはずの祖父が不思議そうに尋ねてきた。


 何がなんだかわからないまま、辺りを見回す。くれ縁に紅い毛氈が引かれた縁側だ。ここで寝ていたらしい。目の前には昔ながらの和風の庭が広がっている。

 ふいに、記憶に残る光景と目の前の光景が一致し、素足のまま庭に飛び出す。

「そんなバカな……」

 振り向いた亘の目の前には古い建物、子供の頃に少しの間だけ生活した祖父母の家があった。

 何故ここにいるのか。自分はキセノン社の中を歩いて……そうじゃない。ここは祖父母の家で僕は夏休みの間ここに預けられ……そうじゃない自分は異界で悪魔退治を……悪魔退治なんて従兄のゲームの中の話。

「こりゃ、そんな裸足で外に出たらあかんやろが。ほうれ、婆さんに見つかる前に家にあがりな。足の裏をよう払ってから、あがるんやぞ」

「……うん」

 何故だか頭がボンヤリする。そのまま、言われたとおり足の裏を払って家へとあがる。爺に続き畳の上を歩いて行き、古びた鏡台の前へと差し掛かる。そこに映る姿は十歳に満たぬ少年の姿……僕だ。

 ふいに思い出した。

 今日から夏休み。爺と婆の家に預けられ、これから毎日虫を捕ったり川で泳いだり楽しいことが一杯待っている。

「ようし、そんなら夕飯に行こか。はよ行かな婆さんに怒られてまうでな」

「うん。そうだね」

「たんと食べるんやぞ」

 爺に手を引かれ食堂へと行くと、婆とおばさんが料理の仕上げをしていた。もうおじさんと従兄ちゃんが座って待っていた。

 椅子によじ登るようにして座っていると、婆が大きなすり鉢一杯に入ったトロロ汁を運んできて、ドンッと机の上に置く。

「ほれワタ坊や、お前さんの好きなトロロ飯じゃけ、たんとお食べ」

「僕、トロロ飯大好きだよ」

「ほれほれ、婆がつけてやろうかの」

 アツアツの麦飯にトロロ汁がたっぷりかけられ、それを飲むようにしてかき込む。カツオの出汁がよく効いて、スルスルと喉を滑り落ちていく。これなら何杯でも食べられるだろう。

 食べろ食べろという皆の言葉に促され、お腹がはちきれんばかりに食べてしまった。

「おい、亘。ゲームやろうぜ」

「えっ、いいの!?」

 ご飯が終わると従兄ちゃんがゲームに誘ってくれる。

 昔懐かしいロムカセットの……懐かしい、なんで懐かしのか。懐かしい……ああ違う。友達だって、まだ持ってないゲームだ。懐かしいはずがない

「ほら亘からやれよ」

 四角いコントローラーを渡される。

 下手くそな亘は開始早々Bダッシュでキノコに突っ込んでしまった。それを見て従兄ちゃんが楽しそうな笑い声をあげる。でも、次は上手に避けてみせると手を叩いて喜んでくれた。

 それを、おじさんもおばさんもニコニコしながら見ている。どれぐらい遊んだのか、爺がやってきた。

「ほれ、もう九時じゃ。子供は寝る時間じゃろ」

「はーい」

「今日は爺と一緒に寝るか」

「うん、そうする」

「そうかそうか。寝る前にちゃんと歯を磨くんじゃぞ。ほれ、トイレは一人で行けるか」

 言われた通り歯を磨く。トイレは家の外にあるから、真っ暗で怖い中を急いで走って行ってきた。

 戻って来ると爺が敷いた布団の上に胡座をかきニコニコと笑っている。

「ワタ坊や、今日は楽しかったか?」

「うん、楽しかった!」

「そうかそうか。良かったの、そんならもう寝るかの」

「うん、そうだね。じゃあ……お休み」

 亘は冷たく笑うと、枕元の火鉢を蹴倒した。中の灰が撒き散らされ、畳の上が酷い事になる。舞い上がった灰に少し咽せてしまう。

「何するんじゃ! ワタ坊、どうしたんじゃ!」

「黙れ胸糞の悪い。なにがワタ坊だ、お前がそんな声を出すな! 今さらなんだ! 皆、消えてしまえ!!」

 枕元にある鏡台に涙を流す少年の姿が映っていた。見たくもない。亘は反射的に床の上にあった灰皿を手に取り、思いきり投げつける。

 鏡の割れる音が妙に大きく響いた。


◆◆◆


「夢だったか……」

 亘は冷たく固い床の上に寝そべっていた。起き上がる素振りもせず、そのまま仰向けになって天井を見上げる。

 身を起こす気さえ湧かない。

「いや、むしろ悪夢だな」

 あまりに鮮明な夢だったが、しかし事実とは全く異なる内容だ。


 小学生の頃の亘は父親の仕事の都合で祖父母の家に預けられたことがある。そこであった出来事が、亘の一生を方向づけたと言ってもいいだろう。

 爺婆からは理由もなく叱られ叩かれ抓られた。おかげで今でも、誰かがそうしてくるのではないかと怯えてしまう時がある。

 伯父夫婦からは事あるごとに罵られ蹴られ、お仕置きとして納戸に押し込められた。おかげで今でも狭くて暗い場所が苦手だ。

 従兄からはプロレス技や格闘技の練習台にされ、面白半分で川に沈められた。おかげで今でも水が苦手だ。

 食事はいつも皆が食べた残りを少し貰えるだけ。他の皆が楽しく団欒をとる傍らで一人ぽつんとした食事。いつもお腹を空かせていた。寂しくて泣けば怒られ、我慢して黙っていると薄気味悪いと叱られる。何をしても、しなくても叱られ怒られるのだ。

 次第に亘は無気力無反応となっていき、そんな様子に近所の住人が気付き母親に連絡してくれるまで続いた。


 思い出すのも辛く忌々しい過去の記憶。けれど、それは亘の心にしっかりと根をはっている。誰かに自分の感情を示すことや、人と社交的に付き合うことが苦手だ。人に好かれたいと思う一方で、他人を信用しきれない。嫌われることが怖く、強いことが言えず笑って誤魔化してしまう。

「最悪な気分だな……」

 ようやく虚脱状態から脱すると身体を起こす。ブツブツ呟きながら、周囲を見回すと六畳ほどの狭い部屋だった。ガランとして何もない。それどころか、窓すらなくドアが一つあるだけだ。

「どこだ、ここは……神楽はどうした?」

 懐を探りスマホを取り出す。電源が落ちたスマホのボタンを長押しで起動すると、キセノン社の企業ロゴが現れシステムが起動しだす。

 ひょっとすると今までのことが――神楽の存在が夢だったのではないか、そんな不安がある。

 だが起動画面の表示もそこそこに、すっかり見慣れた小さな頭がピョコッと画面から現れ安堵した。

「マスター! 無事だったんだね、よかったよ!」

「よかった……神楽も無事でよかった」

 神楽が泣きそうな顔で飛びついてくると、胸の中に残っていた不快なもの全てが拭い去られていく気がした。この小さな少女から一体どれだけの幸せや優しさを貰っているのだろうか。

 亘はしみじみと感じた。

 他人を心の底から信じることができないでいるが、神楽だけは別だ。そして神楽と出会ってから、少しずつだが他人に対する隔意も薄らいできている気がする。きっと神楽がいなければ、今頃も惨めに下を向いて生きていたに違いない。

 手の平に収まる小さな温もりを抱き寄せ、亘は神楽と出会えたことに心の底から感謝した。


◆◆◆


「……そんなわけでな、変な夢をみたんだ」

 亘は床に胡座をかき、自分の遭遇した出来事を説明してみせる。あまり詳しくは説明せず掻い摘んで淡々と説明した。

 話を聞いた神楽は腕組みをして、ふむふむと頷いてみせる。

「ふーん、そっか。ボクの方はね、急にスマホの中に戻されたんだよ。電源が切れて出らんないしさ、マスターのことすっごく心配したんだから」

「そうか、ありがとうな」

「どしたのさマスター。なんだか妙に優しいよね。もしかして調子悪いの?」

「……素直に感謝したつもりなんだがな」

 亘は日頃の行いが悪いのかと落ち込んだ。

「あははっ、ごめんね」

 ふよふよと神楽は近づいてくると、そのまま亘の額に手をあて目を閉じた。

 亘は大人しくされるままで、目の前にある緋袴の結び目を見つめる。小さいとはいえ女の子が間近にいるので、少し緊張気味だ。

 どうせなら、こんな感じで女の子に引っ付かれる夢を見たかった。そんなことを考えられているとも知らず、神楽は何かを探る様子だ。

「んー? ん?……うん。マスターの意識にさ、何か干渉された形跡があるね」

「そんなことまで分かるのか?」

「ふふん、ボク凄いんだよ。でね、これはねーうんとねー。これはマスターの夢とか望みとかさ、そんなのを見せられたみたいだね」

「じゃあ、あれが自分が望んだ夢だというのか。あれが、あれが自分の望んだ夢……バカな」

「マスターが意識して望んだとは限らないよ。無意識の内に望んだかもしれないでしょ。ほら、人間の心って複雑だから」

 苦痛に満ちた日々を、あんな風に周りから優しくされながら過ごしたかったのか。自分に酷いことをした連中を許したいと思っているのだろうか。


 だが、絶対に許すつもりはない。

 他人を許すことで自分も救われるなど、綺麗事の理想論だ。あっさり許せるなら誰もが悟りを開いて幸せに暮らしているに違いない。

「そんな顔しないの。ほら、良い子良い子」

「くすぐったいな」

 小さな手に顔を撫でられると面映ゆくなってしまう。それでも亘が安らかな気分になったのは事実だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る