第36話 少しは違った人生
亘はシャワールームで身体を洗いながら妄想していた。
この同じ場所で、つい先ほどまで女の子がシャワーを浴びていたのだ。そう考えるだけで興奮してしまう。この姿見の前で、このバスチェアに座り、このシャワーを使って全身にお湯を浴びたのだろう。
しかしそこでチャラ夫の存在を思い出してしまい、シャワーを冷水にする必要はなくなった。
くだらないことを考えつつ、念入りに髪と身体を洗っていく。石けんを泡立てゴシゴシと擦る。それはアレの残り香対策もあるが、臭いという言葉に敏感な年頃なのだ。
洗い終わり湯を浴びると、ようやく心身とも洗い清められた気がした。
バスタオルで体を拭きあげ、真新しい服に着替えると、それこそ生まれ変わった気分でさえある。
実に爽やかな気分で部屋へと戻った。
「お待たせ、むっ……」
部屋に戻ると、パソコンを勝手に弄るチャラ夫の姿があった。もちろん使用許可などしてない。
一人暮らしで他人を部屋に入れたことがないため、パスワード設定していなかったの失敗だった。もちろんそれでも、見られて拙いデータはきっちり管理してあり、巧妙にカムフラージュしてあるので問題はない。
そうは言えど、自分の物を勝手に構われて嬉しいはずがない。ワザとらしい猫なで声で呼びかける。
「チャラ夫くーん、何しているのかなぁ? 人のパソコン勝手に立ち上げてさ」
「あ、いや。これはっすね、ネット見てただけっす。ネットっす」
「ほう、自分のスマホがあるのに? 言っておくが、チャラ夫の期待するような画像はないからな」
本当はあるけど厳重にカムフラージュしてあるので、そう簡単に見つかりはしないだろう。見つからなければ、嘘も真実となる。
「まじっすか」
チャラ夫は残念そうに肩を落とすが、語るに落ちるとはこのことだろう。なお、七海は少し離れた場所にいる。私は止めたんですと言いながら目を泳がせているが、最初部屋に戻った時にパソコン画面を気にしていた姿は見ているので同罪だ。
けれど、その七海の肩には神楽とアルルが衛兵よろしく控えている。臨戦態勢の殺る気満々だ。亘は下手人を一人に絞って冷たい目をした。
「お前と言うやつは、人の物を勝手に弄るなと教えられなかったのか」
「だってほら、兄貴は独身って聞いたっすよ。なのに部屋にエロ本ないし……エロ画像でもないかなーって、だははっ」
「もっとマシな言い訳はないのか」
「エロ系がないなんて、まさか……兄貴の狙いは俺っちっすか!」
独身でいると、偶にこういう扱いをされることがあるので、不愉快ではあるが慣れっこだ。
「異界で悪魔の餌にするぞ、まったく……自分は昔色々あって女性不信というか、結婚する気がなくなったの。もちろん女性への興味は普通にある」
特に飲み会などでは、『なんで結婚しないの』とか『なんで彼女居ないの』とか遠慮なく聞かれる。だから、その対策で用意してあるカバーストーリをスラスラと口にしておく。
もちろん、女性への興味云々は以外は嘘だ。そもそも女性と色々あるほど関係を持ったことがないのだから。
亘が独身でいる理由はモテないこと、仕事が忙しいことだ。そして誰にも言えない理由が、両親の姿を見てきたためだ。
好き勝手して家族に迷惑をかけ通した父親と、それに苦しめられる母親。喧嘩が絶えず愚痴ばかりこぼす両親の姿を見て育ち、結婚という選択肢に何の希望も期待も感じなくなっている。
それは兎も角、家捜しまでしたらしいチャラ夫に復讐しておく。
「良いことを教えてあげよう。チャラ夫君がコソコソしながら買って、ベッドの裏や机の引き出しの裏に保管しているマンガや小説のことだぞ」
「うぐっ、何故それを……そ、そんなのないっすよ、やだなぁ」
「ああいう手合いの作者ってのは、四十代や五十代の男だ。次からは脂ぎって禿げたオッサンがニヤニヤしながら書いている姿を想像するんだな」
「ぎゃー! そんなの聞きとうなかったっす!」
チャラ夫は床の上で身もだえしながら嘆いている。亘は満足し、復讐を成し遂げた達成感を得た。
「ねえナナちゃん、あれ何の話?」
「おばかな話ですよ」
そんな会話が聞こえ、亘は咳払いをした。あまりこの話題を続けると、自分の評価が無駄に下がってしまう。
「次からは勝手に人のものを弄るなよ。さて、そろそろDPの相談をしようか。おっと、その前にもう一つやって貰うことがある」
亘は戸棚からスプレータイプの消臭剤を持ってくると、ドドンとコタツの上に並べた。
「各自の服をビニール袋に入れて貰ってるが、まだ臭うような気がする。先にこれで消臭してくれ」
「なんで消臭剤をこんなに常備してるっすか?」
「セットで安かったんだよ。それにな、職場で飲み会があると煙草とアルコールと料理の臭いが加わって、服が悲惨なことになるんだ。まあ、今日のアレよりは遥かにましだと悟ったが」
「アレはないっすよ……」
「そうですよ……」
「さー、早く作業をしようか。そしたらお茶しながら打ち合わせだ」
亘は形勢の悪さを悟り、ワザとらしく手を叩いて作業を促した。
◆◆◆
チャラ夫が消臭剤を手にシュシュッとしている。
脱いだ服を入れたビニール袋は、口を開いただけであの嫌な臭いが漂ってくる。それは僅かなものだが、頭に焼き付いた臭いが勝手に再生されてしまい、それだけで気分が悪くなってしまう。
なお、七海は浴室の方で作業をして貰っている。女の子なので当然だろう。
鼻をつまんだチャラ夫は、遠慮なく一本使い切りそうに猛烈な勢いで消臭剤を噴霧している。
チラッとビニールの中にトランクスが見えた。ジーンズとシャツは貸したが、下着までは貸してない。つまり穿いてない状態ということだ。貸したジーンズは返却不要と判断した瞬間だ。
だが、すると七海はどうなのだろうかと疑問が湧いた。貸したジーンズは洗濯不要で返却して貰うべきと判断した瞬間だ。
チャラ夫が作業しながら話しかけてくる。
「兄貴って日本刀集めてるんすよね? でも部屋に見当たらないっすけど」
「ああ、それは実家の刀箪笥に鍵かけてしまってある。アパートなんかだと、防犯上どうしたって心配だからな。おかげで刀に会えるのは数か月に一度だ。寂しい限りだよ……」
「そっすか、見たかったのに残念っす。それと、さっき飲み会の話してたじゃないっすか。職場の飲み会って、どんな感じっすか?」
「ふむ、なぜ金を払って参加せねばならんのか悩みたくなる感じだな」
「やっぱそうっすか。俺っちにゃ、姉ちゃんがいるんすけど、似たようなことを言ってたっすね。どこも同じなんすかね」
「ほう、お姉さんがいるのか。それはそれは羨ましい」
兄弟も姉妹も居ない亘からすると、実に羨ましいことだ。居れば居たで、それなりの煩わしさや面倒はあるかもしれないが、もしそんな存在がいたら少しは違った人生だったかもしれない。
「いやいや、そんなことないっすよ。母ちゃんがもう一人居るぐらいに口煩いわ説教してきて鬱陶しいっすよ」
「まあ、お前相手じゃあな……」
「おまけに機嫌が悪かったり酔ってると、プロレスとか技をかけてくるっす。超鬱陶しいっす」
「……そうなんだ」
羨ましいとまでは口にしないが、亘はその光景をホワワンと想像する。できればお姉さんに関節技をみっちりかけて欲しい。
シュシュッとしながらチャラ夫が尋ねてくる。
「でも、酷い酷いと聞かされる職場の飲み会っすけど、ホントどんな感じなんす? 泣いて騒いで脱いで踊るとか、タコみたいにグニャーとかになるんすか?」
「そりゃ、マンガやアニメの見すぎだよ」
亘は苦笑した。
チャラ夫の声には、少しばかり憧れ的なものが含まれている。つまり背伸びしたい子供の気分だ。初めての飲み会で大ハシャギし、それを数年後に黒歴史として後悔する原因はこれだ。
飲み会に過剰な期待は禁物だ。
職場の飲み会なんてのは特にそうだ。参加するのは当然だが職場の人間、つまり年寄りが多い。若い女性が職場にいたとしても、そんな加齢臭漂う飲み会に参加したりしないだろう。女性で参加するのは、それなりに年齢を重ねたお方ばかりだ。
そんな飲み会で脱いで踊ったら、地獄絵図でしかない。
「酔ったら大体が寝るか吐くかのどちらかで、あとは暴れるのもいるな」
「兄貴はどのタイプっすか。まさか暴れるとか?」
「まさか、そんなわけないだろ。寝るタイプさ」
亘は飲めないことはないが、飲める方ではない。自分で把握している量は、ビールが中ジョッキ二杯、あとは体調しだいでカクテル一杯程度。それが上限だ。
社会人なら自分の飲める量が大体把握できていなければいけない。もちろん、そんなこと関係なしに、正体を失うまで飲む奴もいるけれど。
「酔って泣いたり脱いだりは滅多に居ないし、呂律が回らないとか千鳥足も見かけないな。うちの職場は酔って暴れだす奴が結構いるけどな……そうそう、タコみたいにグッタリなった奴ってのは急性アルコール中毒で死にかけた状態だな」
「まじっすか。お酒を飲んで死ぬっすか!」
「一気飲みとか、普通に死ぬぞ。なんにせよ、職場の飲み会なんてのは酔った上司や先輩に絡まれ、説教や人生訓を聞かされる場所だぞ」
「何か滅茶苦茶うざそうっすね」
「凄くうざいぞ」
亘はしみじみと呟いた。
それにしたって、どうして職場の連中は、ああも飲み会が好きなのだろうかと不思議に思う。
忘年会、新年会、歓迎会、送別会、花見会、暑気払い、壮行会、打ち上げ会等々と、何かと理由をつけて飲み会が開催される。しかも普段は残業で帰れないくせに、飲み会だけはきっちり開催されるのが、なお不思議だ。
おまけにここぞとばかりに飲みまくり、日頃のストレスを爆発させ騒ぐ奴が必ず一人はいる。そのストレスを浴びせられ疲れるだけの飲み会なんて楽しくもなんともない。
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