第35話 青春して秋空を眺め
風がそよぐ。
やや温い風に含まれる微かな排気ガス、気の早い夕飯の匂い、金木犀の香りだ。それらは何気ない平凡な空気の匂いで、それを感じていると――あの激烈な臭いを少しは忘れらることが出来る気がした。
「なあチャラ夫も、いい加減しっかりしろよな」
「……うぃっす」
アパートの扉にもたれて座る亘の隣に、膝を抱えて座り込むチャラ夫がいる。
二人ともボンヤリと空を見上げているが、別段青春して秋空を眺めているのではない。下を向くと自分の服が臭いからだ。特にチャラ夫は虚ろな目で放心状態だが、その原因が迂闊に爆心地に近寄った自業自得な行為によるため同情する必要はないだろう。
場所は亘のアパートの外だ。
そんな場所で座り込み佇んでいるわけだが、鍵を無くして中に入れないといった間抜け理由からではない。
もっと別の理由だ。
「おっと……」
亘がのっそりとした動きで扉から背を離した。ほぼ同時に内側からチェーンの外す音と、解錠する音が響く。
ドアが少しだけ開けられ、中から七海が顔を覗かせた。
これが亘とチャラ夫が外にいた理由である。
シャワーを使って貰うにあたり、女の子の七海が安心して使えるように、男どもは外で待機していたのだった。
異界を脱出し車でアパートまで戻ったところで、ハタと気づいたのだ。自分のやっていることを、未成年者略取と指摘されたら言い訳できないと。
それで新品の着替えとアパートの鍵を七海へと渡し、それで扉の施錠とチェーンをするよう指示してチャラ夫を連れて外に出たのだ。
「シャワー終わりました……それであのう……着替えのことなんですけど……」
「ああ気にしなくていいさ。さっきも言ったけど、ジーンズ以外は全部新品だ。返す必要もないから遠慮しないで欲しい」
「いえ、そうでなくて……」
七海は歯切れの悪い様子で、もじもじしている。
新品のシャツと予備のジーンズを渡してあったが、男物ではサイズが合わなかったかもしれない。もっとも扉の隙間から見える分には無事着れているようだ。何が問題なのか。
亘が首を捻っていると、七海は顔を真っ赤にさせながら小声で頼んでくる。
「その……すみませんが、その……、何か羽織るものも貸して頂けませんか」
よく見れば腕で胸を隠している。どうやらシャツの一部がキツいらしかった。亘は思わず、パネっすと呟いていた。
◆◆◆
パーカーを羽織った七海と一緒に亘は居間にいる。シャワーを浴びているのはチャラ夫なので、それをわざわざ外で待つ必要なんてない。
「ええっと。五条さんは独身さんだったんですね。てっきりご家族がいらっしゃると思って……それでお風呂を借りても大丈夫と思ったんですが……あ、すみません」
「いや、いいんだ。そこまで考えてなかったんで悪かった。あの臭いで、そこまで頭が回らなかったのが正直なところだよ。はははっ」
独身云々の言葉に密かに傷ついているが、そこは顔に出さない大人の分別がある。それどころか、軽く笑ってさえみせる。この程度の腹芸はできるのだ。
七海は部屋の端っこにストンっと座り、壁にもたれている。
やはり、一人暮らしの男の部屋に連れ込まれた女の子として当然の反応なのかもしれない。シャワーを浴びたのだって、あの臭いで思考が一時的にマヒしていたせいだろう。本当ならそんなことするわけがない。
狭い部屋なのであまり意味はないかもしれないが、亘はせめてもと気づかって対角線にあたる場所に離れて座っている。さらに視線も別に向けておく。
それは七海のためだけでなく自分のためでもある。なにせ湯上りで上気した七海はいつもに増して色気を感じさせるので目に毒なのだ。
「まだ臭い気がするよう。マスターのバカ」
そして、泣き言を言う神楽がコタツの上で座り込んでいる。
スマホを出入りして臭いやら汚れは消えたはずだが、そんな感じでずっと半泣き状態だ。七海に匂いを確認して貰い大丈夫と言われても、まだそんな感じでいる。
「酷いや、あんなの使うなんて酷いや」
「痛っ」
時々飛んできては諸悪の根源へとに恨みがましい蹴りを入れ、マスター臭いと言っては逃げていくのだ。その理由は亘がまだシャワーを浴びておらず、着替えもしていないせいだ。だからあの臭いが仄かに漂っているだけで、けっして元から臭いわけではない。
「あっ、これ私の写真集ですね」
少し暇そうに、そして興味深そうに周囲を眺めていた七海が一冊の写真集を見つけてしまう。亘は冷汗を掻きながら慌てた。
「おっ、おう。そうだな、はははっ」
それは水着姿とはいえど、表紙だけでもドーンとしてズギューンと来る写真集なのだ。まだビニールの包装紙すら取っていないので、中を見ていないと分かる。だから良いが、被写体本人を前にして水着写真集を見ましたなどと知れたら、恥ずかしさのあまり悶絶する自信がある。
隠していたエロ本を発見された思春期の子供のように、亘は勝手に言い訳しだした。
「写真集があるってチャラ夫に教えられてな。それで売り上げに貢献でもしようかっておもってな。本屋で買ったんだけどな。うん、まだ中は見てないけどな。全く見てないんだけどな」
「買って頂いてありがとうございます。でも……恥ずかしいですね。私、本当はこういうのって苦手なんですよ」
「そうなんだ」
「もともと人前に出たりすること自体が苦手なんですよ。だから自分の写真集とか見るの恥ずかしくて……」
「そうなるとあれか、友達が勝手に履歴書を送ってデビューしたとかって、パターンなのかな」
「いいえ履歴書は自分で送りましたよ。友達から勧められたのもありますけど……」
女の子座りする七海はうつむき加減で床に目をやった。指先で絨毯の毛並みを、可愛らしくイジイジしている。
「私の家はお花屋さんをやってるんですけど、けっこう経営が苦しくって……お父さん早くに死んじゃったからお母さんが頑張ってるんですよ……もしデビューできたら家の助けになるかなーって思ったんですよ」
「そ、そうか……」
想像より重い理由だった。
芸能界デビューを目指す輩なんて目立ちたいとか、ちやほやされたい連中ばかりだと思っていた。しかし七海の性格を知るにつれ、そんなタイプの娘でないので不思議に思っていたのだ。
父親を早くに亡くしたという七海に、何か気の利いた台詞を言いたいが、かけるべきか出てこない。
実は亘も同じ境遇で父親を早くに亡くしている。けれど、自分の父親に対しては悪感情しかない。困らされたり苦しめられたりの思い出や、人生を狂わされたという恨みしかないのだ。
だから亡くなった自分の父親を想う七海にかける言葉が思いつかない。しかし七海はその様子を気まずく思っている、と勘違いしたらしい。気にしないでくださいと明るく笑って軽く手を振ってみせた。
「でもですね、思ったよりお給料が少なかったんですよ。それで勉強が疎かになるぐらいなら、辞めてしまおうかなって……実は最近思うんですよね」
「そうなのか。端からすると華やかそうなイメージなのに、グラビア界も思ったより世知辛い業界なんだ」
「だからDPがお金になるのが、嬉しいんですよ。あ、すいません、お金なんかの話をしてしまって」
「そうか? 別にその程度は普通だと思うが」
神楽がわざわざ近くまで飛んで来て、マスターに比べればねとか言ってワザとらしく首を横に振っているが無視しておく。
「お金は大事だぞ。お金に拘りすぎたら駄目だが、若い内からお金のことをきちんと考えてないと、後で苦労するからさ」
なぜか日本ではお金に関する話題はタブー視される。
お金より大事なものがあるとされ、お金を話題にすること自体が卑しい行為として忌避される。そして労働によってお金を稼ぐことの大切さすら話題にできない。何故お金についての教育がされず、何故お金の話がタブー視されるのか――そこには、まるで思考誘導されるような不気味ささえある。
『お金を話題にすることは卑しい』と刷り込まれて大人になり、労働の対価で支払われる給与や、そこから引かれる税金というものを誰も深く考えないのが現状だ。
七海も例にもれず、話すこと自体が憚られる雰囲気であって、なんとはなしに話題を変えようとしている。
「でも五条さんの部屋は綺麗ですよね。きちんと片付けられて、掃除も行き届いてますよね。男の人の部屋って、もっと散らかってると聞いてました」
「はははっ、最近はいろいろ神楽が五月蠅いんだよ。あれ片付けろこれ片付けろ、とまあ小姑のように細かいんだ」
「なんだとー!」
神楽が拳を振り回す仕草をしているが一定以上近くには来ない。どうやらまだ臭うらしい。そうでないと分かっても、子供時代に臭い臭いと囃し立てられた記憶が蘇ってしまう。
「うん?」
ちょっと哀しい気分でいると、浴室の方でガタゴト音がした。さらに鼻歌とドライヤーをかける音がしだす。
「そろそろチャラ夫が出てくるかな……さて、神楽に契約者としての命令しておこうか。七海を守るように」
「「えっ?」」
「それと、七海もアルルを出しておくようにな。女の子だろ、これぐらい当然だ」
アパートに連れ込まれた女の子への配慮を年長者としてみせたつもりだ。
でもそれなら最初から命じるべきだろうし、連れて来なければ良いだろう。そもそも臭いの原因は亘のやらかしたことである。
今更感があったかもしれない。
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