第34話 必死で這い逃げた

 ニホン人狼にダメージを与えることが出来ない。やはり異界の主という存在は強敵で、コボルトやオークといった相手とはまるで違う。

 連続で放たれる魔法を避ける素早さ、レンガを握り潰す力。主と呼ばれるに相応しい強さがある。嘗めてかかってはいけない相手だ。

 結局は油断していたということだろう。

「くそっ、レンガが尽きたか……一度ぐらいは当てたかったな」

 亘は悔しそうに呟いた。

 投げたレンガは全部受け止められて砕かれてしまった。しかし、どうにも一度はぶつけてやらないと気が済まない。

「残りはコレか」

 リュックから円盤型の金属塊を取り出す。ズッシリとした重量のあるそれは、しっかりとした硬さがあり頑丈だ。レンガの代わりにはなるだろう。

「素早い身のこなし、レンガを握り潰す握力。全力で立ち向かうべき強敵だった……だけど幾らレンガを握り潰せても、金属なら無理だろ」

 ニホン人狼がチラッと見てくる。神楽たちの猛攻をいなしつつ、余所見をするだけの余裕があるのだ。不可視に近い風の刃を避け、火の息を腕の一振りでかき消す。ニホン人狼の動きはまるで踊っているようにも見える。


 視線を交えた亘は金属塊を構え、油断なくニホン人狼の隙を窺った。最後の一投は慎重に、確実に当てにいくつもりだ。

 観察して気付くのは、神楽の放つ魔法だけは引きつけて避けることだ。追尾性を警戒してだろうが、その瞬間だけ、ニホン人狼の注意が逸れる。

 背を向けたニホン人狼が光球を避ける。絶好のチャンスだ。

「今っ!」

 刹那、全力投球する。

 ずっしりとした金属塊が砲弾のように飛ぶ――だが、ニホン人狼は半歩の動きで射線上から移動してしまう。全て見抜かれていたらしい。そのまま、これまでのレンガと同様にハシッと受け止められてしまった。

 振り向いたニホン人狼は余裕の顔でニッと笑う。それは相変わらず人を小馬鹿にした顔だ。半開きにした口から舌を出し、へっへっと息をしている。そして先程亘が呟いた言葉を否定するように、金属塊を持ち上げこれ見よがしに握り潰す。


 刹那、亘が叫んだ。

「退避! 神楽、そいつから離れろ! チャラ夫も七海も従魔を戻せ!」

「えっ? 何でっ!? 待ってよマスター!」

 亘が踵を返して脇目も降らず走って逃げだすと、神楽は慌てて追いかけてきた。

 その必死ぶりに恐慌状態だったチャラ夫と七海までもが一瞬我に返り、分けのわからないままガルムとアルルを呼び戻す。

――ギャァアアアアアアア!

 背後でとんでもない悲鳴があがった。

 逃げる亘はその悲鳴を合図に走るペースを落とす。ぽかんと口を開けたチャラ夫と七海の近くまで行くと、ようやく足を止めて振り向いた。

 ニヤニヤと満足そうに笑い、地面に倒れのたうつニホン人狼の姿を眺める。

「おうおう、さすが効いてるな。神楽、皆に状態回復を頼む」

「えっ、あ、うん。『状態回復』だよ」

 戸惑いながら神楽が魔法を唱え、チャラ夫と七海は淡い緑の光に包まれた。オドオドしていた二人の様子が目に見えて落ち着く。だが、それはそれとして七転八倒して苦しむニホン人狼の姿に、それぞれから躊躇いがちに疑問の声があがった。

「五条さん何をしたんですか? あのニホン人狼、一体どうしたんですか」

「そっすよ。もうほとんど動いてないっすよ」

「マスターあれってまさかさ……」

「うん、実はな。さっき投げたのは缶詰なんだ。外国の塩漬けニシンのな」

 販売代理店の警告文で、化学兵器と誤解される可能性すら示唆される缶詰だ。

 通販レビューには『ひと嗅ぎで元気がなくなります。満足です』『知人に届けたら二度と連絡がつきません』『食品に対する概念が覆りました』『職場で開けました。凄く満足です』『糞糞糞糞糞糞糞糞糞』などと大絶賛ぶりだ。

 そんな缶詰を人間の何万倍以上も嗅覚のある獣が嗅げばどうなるか。まして手で握り潰し、その汁を全身に浴びたらどうなるか。

 結果は目の前の通りだ。

「いやー、上手くいって良かったよ。避けられたときは、本当どうしようかとヒヤヒヤしたけどな」

「「「………」」」

「ワザと無理だろ、とか呟いたのも正解だったな。ほら、昔話でよくあるだろ。出来まいと言われた化け物がムキになるお話とかさ。はっはっは」

 ニホン人狼には呟きも全部聞こえているだろうと推測し、缶詰を握り潰させるために独り言をしてみせたのだ。決して格好つけて独り言をしたわけではない。

 亘は腰に手を当て得意げに笑うが、若者二人は地面で悶えるニホン人狼の姿を微妙な顔で見やっている。神楽は下を向いて、こんなマスターでごめんなさいと謝った。


◆◆◆


「よーし。そろそろとどめを刺しに行こう。もう動いてないが油断しないようにな」

「うーっす」

「はい」

 タオルで口と鼻を厳重に覆い、とどめを刺しに行く。ニホン人狼はすでにビクンビクンとさえしていない。だが、万一ということがあるので警戒は欠かせない。

 近づくにつれ、これ絶対食品の放つ臭いじゃない、という空気が漂いだした。タオルなんて何の効果もなく平然と貫通してくる臭いだ。この異界は風が吹かず臭いが拡散しないため、余計に酷い。

「ぐぎぎっ超酷いっす。生ゴミをトイレに入れて放置したような臭いっす」

「ううっ、言わないでくださいよう。私、もうダメかもしれません」

「七海ちゃん頑張るっす。ここまで来たんすよ、あと少しっす」

「口で呼吸するといいぞ。でも、その前に鼻で呼吸していたら手遅れだがな」

 励まし合う若手に亘が優しく忠告する。けれど目に刺激があり、口で呼吸しても舌の味蕾で臭いが分かりそうなレベルだ。一秒毎に自分が汚れていく気分である。

「ボクもうだめー、スマホ戻るー」

「仕方ないか、ほらいいぞ」

 異界の主を前に神楽がギブアップしスマホの中へと消えていく。それを、七海が虚ろな顔で羨まし気に見ている。

 ちなみにガルムはもっと手前でキャンキャンと情けない声をあげ、腰抜け状態になったのでスマホに戻された。犬型で『嗅覚』のスキル持ちのため、大変気の毒な事になっている。


 金属バットを握りしめ、一歩一歩慎重に獣の頭部へと回り込んでいく。いつ動いても反応できるだけの注意を払っている。

 ニホン人狼の顔を見ると半死半生の死に体状態で、涙と涎と鼻水を垂れ流したあげく口から長い舌を出し白眼を剥いていた。実に情けない顔だが、それでも異界の主なので油断はしない。

 いきなりニホン人狼が――DP化しだす。

「あれ?」

 拍子抜けした亘は金属バットを落としかけた。いくら世界一臭い食べ物を全身に浴び悶え苦しんだとはいえ、こうなるとは思ってもいなかった。いくらなんでも呆気なさ過ぎだ。これなら最初に遭遇したオークの方がよっぽど激戦だったろう。

 吸収されたDP量を確認しようとする亘の背後で悲鳴があがった。

「ぐぎゃああああ! オゲエェェェェェ」

「……バカか?」

 振り向いて呆れる。

 どうやら興味本位で近づいたらしく、爆心地にチャラ夫がいた。頭痛さえ引き起こす臭いを間近で嗅げば悲鳴もあがるだろう。チャレンジャーと言うよりは、愚かとしか言いようがない。

 必死で這い逃げたチャラ夫が商店の壁に手をつき、盛んにえづいている。

「おげぇ、うげぇっ」

「バカは放っておくとするか」

 それより心配は七海だ。こちらは一定距離以上は近寄ろうとせず、タオル越しに口と鼻を押さえ青い顔のままだ。フラフラとしていたが、亘の見ている前でしゃがみ込んでしまった。

 自業自得なチャラ夫はでどうでもいいが七海は心配だ。

「大丈夫か?」

「五条さんは……なんで……平気、なんです……か?」

「いや平気じゃないぞ。臭くて堪らないし気分も悪い。でも、それと行動を切り離してるだけだ。やってみるといい」

「そんなの……無理……ですよ」

 七海は弱々しく頭を振った。話す言葉も弱々しく、その原因となった物質を持ち込んだ者として、ちょっと罪悪感を覚えてしまう。

「立てるか? もうニホン人狼も倒せたから脱出しよう。もうひと頑張りだ」

「はい……」

「よし。外に出れば臭いもないはずだからな」

 亘の差し出した手をとって立ち上がった七海がヨロヨロと出口に向かって歩き出す。最後の力を振り絞るような動きで、相当参っているいるらしい。

 そして亘は自分の手を見つめドキドキしていた。

――今、手を握った。

 七海の手はほっそりとして、滑らかで柔らかく温かい。少しおいて感激が込み上がる。

 まともに女の子の手を握るのはいつ以来だろうか。義務教育時代の運動会以来だろうか。少なくとも、ここ十年での記憶にはない。

「おげげぇえ、うげげげっ」

「…………」

 背後の不快なBGMが全てを台無しにしてくれる。内心舌打ちしながら振り向く。

「チャラ夫、外に出るぞ。早く来ないと置いてくからな」

「おべぇげぇ……うえぇっす……」

 出口は神楽を呼び出して開かせる。なお、嫌々といった感じで画面から少しだけ出て、扉を開けるやいなや引っ込んでしまうぐらいだ。

 もはや異界から脱出するのは、崩壊から逃れるためと言うより臭いから逃れるためのようなものだった。


――商店街

 元の世界に戻ると、アーケード内を行き交う人の姿は思いのほか多く賑やかという一歩手前ぐらいだった。異界を出た時の認識阻害の効果がなければ、突然現われた人の姿に大騒ぎとなっていたかもしれない。

 七海が深呼吸をしているが、その胸が大きく上下することが服越しに分かった。

「ううっ、空気が美味しいです。ですけど、まだ臭う気がしますよう」

「どうも移り香してるみたいだな」

 異界を出てからも臭いを感じるのは、きっと髪や服に臭いが染みついているせいだろう。爆心地へと迂闊に近寄ったチャラ夫はことに酷い。最後の手段で用意していたとはいえ、ここまで酷いとは亘自身でさえ思ってもいなかった。

 気付けば認識を阻害されている周囲の人々までもが、何か臭いと騒ぎ出しているではないか。

「臭いが酷いな。アパートでシャワーが使える。新品の服も提供するから着替えたらどうだ。どうする?」

「「……お願いします」」

 その言葉に弱々しい返事が揃って返ってきた。

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