閑2話 月曜日など敵ではない
月曜日。
それは誰もが憂鬱となる始まりの日で、寝床を出ることさえ戦いとなる日だ。
五条亘もそうだった、これまでは。
「んっ……」
「おっきろー!」
ジリジリと鳴り響いた目覚ましを黙らせ微睡んでいると、小さな影が顔の上へと着地してくる。ドスンと跨がって起きるよう促してくるが、それでも起きないでいるとポカスカ叩いてくる。
これを引きはがすことから朝が始まるのだ。
朝食用に食パンを二枚焼く。一枚は自分で食べるが、もう一枚はその小さな存在が平らげてしまう。
「よくまあ、そんなにも食べられるもんだな」
「朝ご飯はね一日の活力なんだよ。だからしっかり食べないとダメだよ」
「そういう意味じゃないんだがな……」
テーブルにちょこんと座ってパンを食べる小さな姿は、スケール比を考えれば身の丈もあるパンを平らげていることになる。それペロリと食べてしまう姿が実に不思議でならない。
それから洗面台で歯を磨き、ひげを剃って寝癖を直す。すかさず小さな存在が周りをぐるぐる浮遊してチェックしてくる。
「ここに寝癖が残ってるよ。あと、剃り残しがそこにあるよ」
「小煩い奴だな」
「文句言わないの。はい、やり直しだよ!」
「へいへい」
再チェックでよろしいと許可が貰えて着替えにかかる。
ワイシャツネクタイでスーツに着替える。クールビズというお仕着せでネクタイはしなくてよいが、それでもネクタイをするのは理由がある。
「待ってネクタイが歪んでるよ……はい、OK!」
小さな手がちょいちょいとネクタイを整えてくれる。こうして直してもらうのが、亘の密かな楽しみなのだ。靴を履き、つま先をトントンとする。
「ほら出かけるぞ。早くしないと置いてくぞ」
「あーっ、待ってよう。とーう!」
その存在が飛び込んだスマホを手に出勤する。小さな同居人と一緒であれば、月曜日など敵ではないのだ。
◆◆◆
「おはようございます」
職場に入ると、自席に向かいながら方々に朝の挨拶をする。それに応える声があちこちから返ってくるが、中には挨拶ができない人も何人かいる。その一人が下原課長で、口をへの字にして一瞥するだけだ。
席に着くとパソコンを起動させる。パソコンがなければ仕事にならないのは、どこの会社でも一緒だろう。
起動を待つ亘は隣の水田が眠そうなことに気付く。
「随分眠そうだな。もしかして昨日も出勤したのか」
「やだな先輩、まだそんな時期じゃないですよ。いえ実はですね、最近面白いスマホゲーにはまったんで、夜更かしなんですよ」
「ほう、そんな夜更かしするぐらいとは、どんなゲームなんだ」
「デーモンルーラーって言うんですけど、超面白いんですよ。先輩もやってみたらどうです? 絶対はまりますって」
「……そ、そうか」
まさか水田も契約者なのかと狼狽えてしまう。説明会に姿はなかったが、だからと言って契約者でないとは言い切れまい。
「なんせ実際の地図がベースのマップなんですよ。やっぱ自分の知ってる地名が出ると燃えますね。公共施設がダンジョンなんで、ここもダンジョンですよ」
「うちの職場だと、ゾンビか鬼でも出そうだな」
「そりゃ確かに。で、キャラ毎にご褒美CGが沢山あるんで集めるのが大変ですよ」
普通のゲームの話だ。どうやら水田は契約者ではないらしい。亘がホッとしていると、課長からお呼びの声がかかった。
「五条係長、ちょっといいかな」
「あ、はい」
突然の声に急いで課長のデスク前へ移動すると、下原課長はいつものように椅子に踏ん反り返り、下から睨みあげてきた。
「あのねえ、五条係長ねえ。職場でゲームとか下らない話をしていいと思ってるのかね? 今の君の行動を胸を張って国民に説明できるか考えてみたまえ。どうだね、できるかね。できないだろう」
お小言だ。
始業前の会話まで目くじらを立てるなど、どうかしている。それに亘が水を向けたとはいえ、主に喋っていたのは水田である。何故、亘だけ呼びつけられ怒られるのか、まったくもって謎だ。
面従腹背で拝聴しつつ、亘は内心でため息をつく。
「申し訳ありません。以後注意します」
「君は係長なんだからね、きちんと自覚を持って仕事をして貰わないと困るんだよ。わかってんの?」
「はっ、それでは直ちに仕事にかかります」
席に戻ると水田が小声ですいませんと謝ってくる。軽く肩をすくて応えた亘は起動したパソコンへと手を伸ばした。
◆◆◆
昼休み、亘は水田と一緒に職場近くの公園にいた。
朝の一件で恐縮した水田がお詫びに昼を奢ると言いだし、近くの牛丼屋へと一緒に行くことにしたのだ。もっとも後輩に奢らせられないため、結局亘が奢ったのだが。
この時間、職場近くの公園はサラリーマンたちの聖地だ。全てのベンチが、屍の如くグッタリした背広姿の男たちによって占拠されている。
それを見ていると、独身で良かったと思えてしまう。
日の出前に家を出て、満員電車で出勤。昼は三百円程度のコンビニ弁当で腹を満たす。仕事で胃の痛くなる思いや、辛い思いをする。そうして終電まで仕事を続け、くたくたになって帰宅。休日もゆっくりと休めず家族サービスに奔走する。
そうやって稼いだ給料から僅かな小遣いを貰って生きていくのだ。
これで子供がまだ幼く可愛ければ頑張れるだろうが、娘がいて思春期にでもなればごみ同然に扱われて忌み嫌われる。
僻み交じりであるが、亘は独身であることを感謝した。
「先輩すいません。奢るつもりが、逆に奢って貰っちゃいました。ごっそうさまです」
「いいさ。奢ろうという気持ちだけで充分ってもんさ。安月給でも水田よりは多いし、独身だからな。そっちは彼女と同棲で物入りだろう」
ほんの一週間前なら、もげろ爆ぜろとしか思ってなかったが、今は水田の同棲に対してずいぶんと鷹揚である。これも小さな同居人効果だろうか。
そんな亘の様子に水田は少し面食らったような顔をする。
「なんか先輩、急に変わりましたね。なんと言うか、こう……もしかして、彼女ができました?」
「お前なぁ、急に失礼な奴だな」
「だって……僕もそうですけど、彼女できると服とか身だしなみとか変わるじゃないですか。先輩もそんな感じですよ」
彼女ではなく、従魔が世話焼き女房ぶりをいかんなく発揮しているだけだ。
もちろんそんなことは言えやしないが。
「違うさ……しかし、朝の下原課長はなんだろな。なんだか目の敵にされてないかな?」
適当に話題を変えると、すぐに乗ってくる。
「そうですね。先輩は絶対に目をつけられてますよ。でも、あの下原って奴は本当にどうしようもない野郎ですよ。前に飲み会で、過去に四人も部下を潰したとか自慢げに言ってましたし」
「あー、それね。実際には五人だぞ。しかも、こんな性格だから仕方ないとか、自分で言ってたな」
「たまんないですよね」
「だなぁ」
パワハラ講習会は定期的に開かれるが、講習会の講師をする担当職員がパワハラで有名な人物だったという笑えない話もある。結局のところ職場の講習会なんてのは、ハラスメント防止に取り組んでいる姿勢を示すパフォーマンスでしかない。
ベンチの背にもたれた亘が大きく伸びをしながら首を左右に捻った。コキパキと音がする。仕事はパソコン作業なので、肩と首の凝りは職業病レベルだ。
「それより水田。朝の話にあったゲームだがな……」
「先輩やっぱり興味あります? よかったら招待コード送りますよ」
「それは要らないが、そのゲームって人気あるのか?」
「まだサービス開始から大して経ってませんけど、熱狂的ファンまでいますよ。笑えることに、悪魔が実体化したとか主張するぐらいですよ。さすがに、そこまでのめり込むと引いちゃいますけどね」
「へ、へー。そんな奴もいるんだ」
亘はドキドキだ。
水田の話を聞きながら、これはちょっと拙いのではと心配になってくる。そんな主張する連中の身が心配だ。またどこかで猛獣事件が発生するかもしれない。
そんな話をしていると、急に水田が声をあげた。
「あっ! やべっ、コンビニ行かなきゃ!」
「どうした」
「今週の週刊誌のグラビアは、なんとJKグラビアアイドルの七海ちゃんなんですよ。絶対買わなきゃ!」
「おっ、おう。そうか……それは凄いな」
「そうですよ凄いんですよ。先輩も興味なさそうな顔して実は興味ありありですか?」
「あー、まあ多少は」
勢い込む水田には悪いが、その七海はやはりあの七海だろう。
「あの胸とか、超エロいっすよね。あー、どんな男があの身体を! 羨ましい」
「お前って、彼女いるくせに欲望に忠実だよな」
「当たり前ですよ。うぉっと、買いに行かなきゃ。そんでは、また後で!」
大急ぎで走って行く水田の姿を見送ると、七海の人気はかなりのものかもしれない。
亘は周囲を見回すと、胸ポケットからスマホを取り出す。画面に向かって出ていいぞと一声かけると、神楽がひょっこっと顔を出す。
顔だけ出して見上げてくる目はきらきらと輝いている。
「マスター、ボクお腹空いた」
「お前なぁ、殆ど動いてないんだから我慢しろよ。それより、今の話は聞いてたか」
食べ物が貰えない神楽はぶーぶー文句を言っている。こんなに食い意地が張った奴だったろうかと亘は首を捻った。もっとこう、巫女さん姿らしく楚々とした感じは……、そういえば最初からなかった。
「ナナちゃんが超エロいっていうの。そうかな?」
「エロいというよりは、大人しい感じだろ。じゃなくって、デーモンルーラーはなかなか盛況ぶりのようだが、これって本当に大丈夫かね。この分だと、いずれバレるぞ」
「そしたらボクも自由に外に出られて、色んなもの食べられるかな。ねぇマスター、何か食べる物ないの?」
神楽に相談しても無駄らしい。亘は嘆息するとスーツのポケットを探り、自分のおやつにするつもりだったスティックタイプの菓子を取り出す。水がないと食べにくいが、神楽はお構いなしでニコニコ喜んで囓りだした。
だが、ふいにピクリと顔をあげる。
「ん。マスター電話だよ」
スマホから着信を知らせる曲が流れだした。神楽はすっかりスマホナイズドされているようだ。菓子が画面内に引っ込んでいく様子を見て、悪魔はこうやって獲物を異界に引き込むのだろうと納得した。
それから電話に出る。
「なんだチャラ夫か……もしもし?」
『兄貴っすか? 今電話いいっすか? お願いがあるんすけどいいっすか』
一応気を使って昼休み時に連絡してきたのだろうが、いつものノリで騒々しい。
こうして電話が貰えたのは、家族と職場と間違い電話以外では、これが初めてだ。そう気付くと、相手がチャラ夫でも素直に嬉しくなる。
「内容次第だが、どんなお願いなんだ」
『ういっす。実はっすね、次の土曜日に異界はどうっすか。七海ちゃんに声をかけたんすけど、そしたら兄貴が一緒ならOKだそうっす。だから一緒に行くっすよ』
「なんだ、さっそく行くつもりか、まあいいけどな。ファミレスでも言ったが、一緒ならこっちの流儀で戦って貰うけど、それはいいのか」
『あー、自分で戦うってやつっすよね。まあ、その……ちょっとアレっすけどレベル上げに必要ならやるっすよ。七海ちゃんも、やるって言ってたっす」
「そうか、それならいいだろう。今度の土曜日だな、準備しておこう。それで異界のある場所はどこだ」
『俺っちの住んでる街にあるっすよ。場所は後でメールしとくっす。あっ、それと駅から少し距離があるんで、来るときに七海ちゃんを送迎してあげて欲しいっす』
「自分がか? まあ、いいだろう」
またしても気付くが、その時は七海と車内で二人きりになる。
前回の移動ではチャラ夫も一緒だったが、ついに念願叶って女の子とのドライブ状態になりそうだ。
ウキウキしてきた亘はそれを声に出さないよう咳払いしてから返事をした。
「その場所と時間もメールしてくれ。あとそうだな、チャラ夫はその異界に何回か行ってるのか?」
『そうっす。学校帰りに寄れるんで、今までそこでレベル上げしてたっす』
「だったら、どんな敵が出たのかもメールで教えてくれるか」
『いいっすよ。でも、なんでそんなこと知りたいんすか?』
「敵を知り己を知らば百戦危うからずだ。世の中は情報が戦いの趨勢を握るんだよ、チャラ夫君」
『はあ、なんか難しい言葉っすね。分かったっす、後でメールしとくっす』
用件が終わるといきなり電話が切られた。
ビジネス電話では互いに失礼します、ありがとうございますと言葉を交わしつつ、タイミングを計りながらそっと切るものだ。それからすると、大層失礼ではないか。それともビジネス以外では、こんな風に電話をするものだろうか。経験がないので分からない。
またしても気付く。そう友人だ、友人。
歳は離れているが、これはもう友人ではないか。なにせ電話をかけてきて、休日一緒に出かける約束をするのだ。完全に友人と呼んでも構わないだろう。
「ねえねえ、マスターってばさ。時間いいの?」
画面から顔をだした神楽が指摘する。
「あっ、いかん!」
ニヘラとしていた亘は時計を確認すると、大急ぎで職場へと戻ったのだった。
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