第一章

第1話 給料があるだけまし

――某省庁某局、その某地方事務所に所属する某課。


 課長席の前で、気をつけ姿勢で立つ男がいる。

 冴えない容姿のモブな顔だが、やや目つきが悪く無愛想だ。地味な灰色の背広姿は標準体型。身長は平均より少し上だが、猫背気味なためそうは見えない。

 男の名は五条ごじょうわたる、三十五歳独身だ。


 課長は手にした書類を、まるで投げ置くように机の上に放りだす。それだけで、亘は身を強ばらせ小さくなっている。

「五条係長、君が提出した昨日の残業記録だけどねえ。どんな仕事をどんな風にしたのか、しっかり具体的に説明してくれないかねえ?」

 課長は嫌味ったらしい口調で問いただすと、椅子にドッカリもたれ掛かる。そして懐から取り出した扇子で顔を扇ぐ。たまに亘の顔を扇いでくるが、親切心からではない。

 執務室内には他の職員もいるが、誰もが下を向き関わらぬ様に仕事をする。電話する時でさえ、口元を抑え声を潜めているではないか。

 助けのない雰囲気の中、亘は猫背をさらに丸め声を擦れさせる。

「仕事内容は、昨日の夕方に課長から頼まれた資料の作成です。今日の朝までと言われましたので、残業したのですが……」

「だったらねえ、君ぃ。今日の朝やればいいじゃない。ねえ、君の今月の残業って、もう五十時間超えたてるよね? ねえ、なんで残業するの? もっと効率的に仕事をすればいいじゃない」

「頼まれたのが夕方で、今日の朝まででしたので……」

 申し訳なさそうに答えているが、腹の中ではこのクソ野郎めと思っている。

 定時の間際に資料を渡され、それを翌日の朝までと命じられたとしたら、どう考えても残業だろう。それで残業したと怒られるのは理不尽だ。


 そもそも、この半年間で亘が定時で帰宅できたことは数えるほどだ。年々人員が削減される一方で仕事量は増加し、どんなに効率的な仕事をしても定時で終わるはずがない。定時で帰れる公務員なんてのは、事務系の総務担当ぐらいだろう。

 もちろん、その辺は下原課長とて重々承知している。

 それでも残業時間をネチネチ責めるのは、課長も上から残業抑制を指示されているからだろう。中間管理職の板挟みを気の毒に思うには、課長の言動が嫌らしすぎた。

 所詮、職場とは上意下達。上司の意向に逆らって良いことなんて何もない。亘は課長に気づかれぬよう、こっそりため息をついた。

「申し訳ありません。課長が言われるよう、効率的に仕事をすれば良かったです。すいません残業記録は修正しておきます」

「言っとくけどね、私は残業をするなとは言ってないんだよ。やるべきことを効率的にやる、そう言ってるだけだからね。そこんとこ分かってるよね?」

「ええ、そうですね。気を付けます」

 上司が部下の残業申告を修正させたとなれば、それはそれで問題だ。すかさず予防線を張れるのが、課長の必須スキルだろう。そんなスキルは、身に付けたくもないが。

 下げる必要もない頭を下げ、残業時間を申告した用紙を受け取って自分の席へと戻る。


 戻る途中から、同僚たちのチラチラとした視線を感じる。波風立てたくない日本人気質を、象徴するような職場だ。もっとも、亘も逆の立場なら同じことをするだろうが。

 席に戻ると、隣席の水田がコソコソッと囁いてくる。

(先輩。残業なんて申告したらダメじゃないですか。五十時間超えたら課長のお小言なんですから)

(そりゃそうだけど、昨日は課長が急に頼んできただろ。案外、文句を言わないと思ったんだよ)

(そんなわけないじゃないですか、やだなぁ)

(だよな、甘かったよ)

 同じくコソコソっと返事をしながら、亘は申告した残業記録を消しゴムで消していく。昔ながらの鉛筆による記帳方式で、タイムカードが導入されない理由がよく分かる。

 公務員はサービス残業ありきなブラックだが、世間ではそう思われていない。楽な仕事の高給取りと夢見て就職すると痛い目にあう。亘も、つくづく学生時代の自分はバカだったと後悔している。

「さっ、仕事仕事」

 下原課長のジロリとした視線に、慌てて仕事を始める。


 現場からあがる協議資料確認、次工事発注の資料作成、次年度以降に繋がる調査や設計業務の指示。なにより、そのための予算獲得資料づくりがある。

 それら全てパソコンで作成していくため、肩こりと目の痛みは職業病だ。

――昼のチャイム。

「やっと昼か。さて……」

「五条係長、外線でお電話が入ってます」

「なんで昼時に電話してくるかな。がーんだよ、本当……」

 出鼻をくじかれ、コンビニに行くのが遅れてしまう。ひと波去った後は、選び残された弁当しかない。買ってきた弁当を自分の席でモソモソ食べるのだった。

 昔は庁舎に食堂があって栄養満点の昼食を食べられたものだ。しかし、そうした自炊設備も経費削減で廃止されて久しい。災害時にどうなるか推して知るべしだろう。

 食べたら寝る。

 机に突っ伏すと、残りの時間を昼寝する。せめてもの体力回復だが、水田が同棲する彼女と携帯でベラベラ話すため五月蠅くて仕方ない。文句を言いたいが、亘が言っても独身男が僻んでいるようにしか思われないだろう。我慢するしかない。

 やっと電話が終わった。

 しかし新たな騒音がやって来る。無神経にドカドカ踵を打ちつける足音だ。

「水っちゃん。頼まれてた写真集だよ。その名も『七海ちゃんのわがまま豊満ボディ』限定版」

「やったっ、JKグラビアアイドル待ってました!」

「あのな職場で見て怒られても知らないよ。セクハラ処分とかヤダよ」

「だーいじょうぶだって。うわっ、この胸でっか。彼女のちっパイとマジ違うわ。凄ぇ」

「水っちゃんの彼女って、何カップなんだよ」

「絶対教えてくれないんだよ。でも、この手に収まっちゃうような、ささやかカップ」

 やいのやいのと、エロ話で盛り上がっている。

 友達の一人もいない身としては、そうしたバカ話が少しばかり羨ましくなる。だが、エロ話に加われるエロ経験もなければ、自分から会話に加われる性格でもない。

 結局、聞き耳立てたまま寝られず昼休みが終わった。

――昼が終わる。

 午後からは会議が入っている。一人のお喋りが熱弁を振るう。

「だからいつも言ってるでしょ。まず関係機関との手続きを踏んで適正な処理をしてから入らないと事業全体がストップしてしまうって。まずは、まずはあなたの課がそれをなしてくれないと事業が進まないの。いいですかここで事業がストップすると翌年どころか数年間に渡って――」

 句読点を感じさせぬ独特な抑揚をもつトークが会議室に響く。ようやく黙ったとしても、適度に合の手を入れるバカがいるため、また喋りだす。おかげで会議が長引く。

――就業のチャイムが鳴り響く。

 正しくは終業だが、就業で問題ない。仕事はこれからだ。

 メールをチェックすれば上部機関からの作業指示、通称「調べもの」が届いていた。今回は国会答弁用の基礎資料作成だ。野党議員がクイズ大会をするために、全国の公務員が残業してバックデータを作成することになる。

「先輩は夕食どうします。カップ麺なら買ってきますよ」

「いつも悪いな。じゃあ頼むよ」

「了解です」

 夕食はカップラーメン。跳ね飛んだ汁が書類を汚すが、自分の席で食べながら仕事を続ける。

 ふと気付けば二十二時。

 一定期間の残業ならともかく、連日連夜の慢性残業ならば、ある程度で仕事をきりあげねば身体がもたない。なにせ、毎日のことなのだから。

 丁度いいと、ここらで仕事をきりあげた。

「お先に失礼します」

 まだ残って仕事をする同僚へと声を掛け退庁する。庁舎を出ると、人通りの絶えた夜道を一人トボトボと歩きだす。

 イチャイチャ歩くカップルとすれ違うが、性欲とか羨ましく思う感情も摩耗している。考えるのは仕事のことで、途中のコンビニで翌朝の食事を買うとアパートへと帰るのだった。


◆◆◆


 アパートは職場から、徒歩三十分の1LDK賃貸。

 公務員宿舎は批判によって、かなりの数が廃止された。しかし槍玉にあげられた都心一等地の宿舎はそのままで、地方僻地の交通機関もない宿舎ばかりが廃止されたのが実態だ。

「ただいま……」

 誰もいないアパートに、亘の声だけが虚しく響く。荷物を置くと風呂の準備をして着替える。そして風呂に入って一息つくと、もう二十三時近くだ。

「もう寝ないと……」

 翌日に疲れを残さないよう考えると、二十三時には就寝したい。そうでないと朝が辛い年齢だ。

 正確な時間を求め、時計で確認すると二十二時五十分。残り十分。それが、この日初めてできた自由な時間だ。

「どこで人生間違えたのかな。仕事ってのは、どこもこんな感じなのかね。給料があるだけましなんだろけど」

 することもなく床に寝転ぶと、ぼんやり天井を見上げる。

 開けた窓から入り込んだ虫が、電灯に無意味な突撃を繰り返す。袋小路の部屋に迷い込んでは、子孫を残すことも出来ず死んでいくだけだ。意味のない虫の行動が、まるで自分のように見えて辛くなってしまった。

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