シャーロット
笹垣
情状探偵
シャーロットは今日こそお風呂に入りたかった。
というのも、昨日も一昨日も、その前の日も、ずっとずっとお風呂に入っていないのだ。
なにもお稽古事で忙しかった訳ではない。八歳のシャーロットには時間ばかりが沢山あって、誰もいないだだっ広い部屋とお金だけを持て余している。
では何故か。
根本的な理由はシャーロットにはわからない。しかし彼女が風呂場の扉を開けようとすると、メイドたちがささっと入り口を通せんぼしてしまうのだ。
入れてと言っても、なんだかよく分からない言葉で煙に巻かれて追い払われる。
しかしシャーロットは裕福な家の生まれだ。
仮にそうでなかったとしても、そろそろ我慢の限界だった。
時刻は八時前。今日こそメイドたちを言い負かしてやるのだと心に決めて部屋を出る。
廊下は燭台で照らされて明るい。
絢爛豪華な装飾にまみれた廊下を歩く。
広い、広い、広い。
「メイドたちは意地悪だわ。どうしてお兄様ばかり贔屓するのかしら」
シャーロットの心の中には、いつまでたってもシャーロットをお風呂に入れてくれないメイドたちに対する、明確な怒りがあった。
つるつるに磨かれた大理石(シャーロットはその名を知らない)の床を、靴音を立てて進む。
それで風呂場への道も半ばに差し掛かった時、ふと、後ろから別の足音が聞こるのが分かった。靴底の重たそうな音は、慌てたように乱れている。
「お嬢様、いけませんよぅ‼何処へ行かれるんですか⁉」
声高に叫ぶのは、若い女の声だ。シャーロットはこの声を知っている。
一か月くらい前からシャーロットの世話係をしているジーナだ。
シャーロットはそれを気にせず歩き続けた。ジーナもシャーロットに意地悪をするメイドたちの一味だと知っていたからだ。
しかしジーナはたったと彼女に追いついてしまって、そうしていつもみたいに通せんぼした。
「お、お部屋にいてくださいとあれほど申しましたのに……」
彼女がシャーロットの肩を掴んで泣きそうな顔をしているので、シャーロットは仕方なく口を開いた。
「知らないわよ。そんなの、あなたたちが私をお風呂に入れてくれないのが悪いんじゃない」
シャーロットがすました顔でそっぽを向くと、それは、と言い淀んでジーナが手を放した。気の弱そうな目尻がどんどん水気を帯びていく。
これではなんだか自分が悪いようだと思ったシャーロットは、ばつの悪さを悟られぬよう、彼女の手から逃げ出した。
シャーロットは目先の幸不幸で一喜一憂するほど子供ではない。故に、ジーナが泣き出しそうだからと言って自分の考えを曲げるようなことはしない。つまり、普通ならばつが悪くなるというようなことは無いのだ。
それなのに彼女がそうなってしまった理由は、ジーナがメイドたちの下っ端だと悟ったからである。
シャーロットのことが嫌いな、メイドの中では偉いめのメイドがいて、下っ端のジーナにもシャーロットへのいじめを強要しているとか、そんなところだろう。
それだからシャーロットは、ジーナに強く当たるのは少し筋が違うと思ったのである。
しかし、仮にそうだとするならば、シャーロットにはある一つの疑問が生まれる。
何故メイドたちがシャーロットを嫌っているのか、ということだ。
もちろん金持ちへの羨望も怨恨もあるだろう。しかしシャーロットはこの屋敷の令嬢で、相手はたかが給仕の身だ。好き嫌い以前に、こちらは給料を払っているのだ。そこにどうして嫌いなどという負の感情が発生するだろうか。
風呂場の前には、今日も二人のメイドが立っていた。
そこへシャーロットがずけずけと踏み込む。
「どいて。お風呂に入るから」
するとメイドの一人が口を開いた。
「いけません。お坊ちゃまが入られています」
「昨日も聞いたわ。でもどうして私が入ろうとする時間にばかりお兄様が入っているの?あなたたちがなにか仕組んでいるんでしょう」
「いいえ、決して」
「じゃあなんでそこを通してくれないのよ。兄さまばかり不公平じゃない」
後ろで髪を一つにまとめた二人のメイドは、もうそれ以上何も話さなかった。じいっと頑なに黙って佇んでいる。
シャーロットはまだ幼いが、これ以上何を言ってもメイドたちがここを通してくれないことは分かった。
それでもシャーロットのお風呂に入りたい思いは消えていなかったし、殆ど横暴にシャーロットを遠ざけようとするメイドたちへの怒りは増す一方だった。
「お父様に言いつけるわよ」
「……ですがまだ坊ちゃまが入られていますので、暫しお部屋でお待ちください。お上がりになられましたらお呼びいたします」
「………」
シャーロットは仕方なしに引き下がった。メイドたちがシャーロットを呼びに来てくれるとは到底思えなかったが、このままでは埒が明かないと思ったのだ。
確かにシャーロットは雇い主の令嬢で、彼女らは使用人だ。しかしシャーロットはたかが子供で、彼女らはれっきとした大人なのだ。経験の量が違う。知っていることの量も違う。教えてもらえることの量も、信用の量も違う。
権力こそあれど、たくさんの大人の前で、シャーロットはこんなにも無力なのだ。
*
彼女の名前はシャーロット・ホルーマン。誇り高き魔術師・ホルーマンの末裔である。
シャーロット自身は魔法の使い方を知らないし、そもそも使えるのかどうかも分からないが、しかしその血に流れる魔力は本物なのだそう。
そういう人は、魔導書さえあれば魔法を使うことができるとか、できないとか。
シャーロットは、自分の体の半分もある大きな本を床に広げた。
地下の古書庫の冷たい床である。
「とにかく私はまだ知識が浅いわね。こういう時は大人に丸投げするのが一番だって、母様も言ってたわ」
真っ暗な書庫に古びたカンテラを照らし、ミミズが張ったような細い書き文字を読む。
しかし、俗に古語と呼ばれるその文字たちはシャーロットにはあまりにも難しく、理解するしないではなく、読むことすらままならなかった。
故に、理解できたのは表紙の文字と同じように、この魔導書が悪魔召喚のためのものであるということだけだった。
「うーん、何を召喚したらいいのかしら。とにかく博識な感じのがいいわよね。なんかもう話が通じればどれでもいいような気がしてきたわ」
首を右へ左へ捻るシャーロット。
実はこの時、魔導書に対し「博識な感じの」と指定を入れたことにより、既に召喚術は行使されていた。ホルーマンの魔力は膨大で、かつ危険である代わりに、魔法行使までのプロセスが大幅に削減される場合があるのだ。
しかしそんなことを知る由もないシャーロットは、「お風呂に入りたい」という望みを最速で叶えてくれる悪魔を召喚することができなかった。
シャーロットの専らの目標は、メイドを言い負かすことだったのである。
「どうした嬢ちゃん、渋い顔してよぉ」
どうしたものかと頭を捻るシャーロットの後ろに、ふと、中年男性の低い声が響いた。
ただでさえ暗くて恐ろしい書庫だ。シャーロットは振り向き様、驚いて尻もちをついてしまった。
「おうおう、そんな驚くこたぁねえだろうよ」
暗闇から人影が現れる。
真っ黒い襤褸を目深に被った壮年の男だった。目は小さく鋭い淀んだ青で、口元の無精ひげと深いしわが印象的だ。
「なん、なん、なん」
「ああ?どうした?」
「誰……?」
大きな本を盾にして、男から逃れるように隠れる。
「おお?嬢ちゃんが呼んだんだろうよ」
「呼んでないわ」
「じゃ その手に持ってるのは何でぃ。召喚書だろうよ」
男は、似合わない襤褸の隙間から本を指さす。
「で、でもまだ術式は……!」
「知ったことかよ、俺ぁ博識な感じのやつが来いって言われたから出てきただけでぇ」
「滅茶苦茶よ」
「ホルーマンの術ってのはそんなもんじゃねぇのか?」
男はガシガシと頭を掻きながら、困ったようにシャーロットを見下ろしている。
その表情が真剣だったので、どうやら彼は本当に不法侵入の者ではないようだ。
「まあいいわ」
シャーロットは両膝を綺麗に折りたたんで地べたに座る。彼女やその周りにそう言う概念はないが、敢えて言葉にするならば正座である。
長い前髪の隙間から除く緑の目には、若干疲れの色が浮かんでいる。
それを見た男はシャーロットの前に胡坐をかいて座った。
「それで、あなたの名前はなんていうの?」
「俺かぁ?何だったかなあ、棚がどうとかって名前だったような気がするなぁ……嬢ちゃんは名前なんてんだ?」
大雑把な動きで指差しをする。
「私はシャーロットよ。あなたは死神さん?」
「おうそうだ。よく分かったな」
「ちょうど私も、棚がどうとかって名前の死神を聞いたことがあるわ」
死神は左手の指を鳴らした。いい音が書庫に響く。
「そら話が早えぇ。俺たち死神は魔術師の願いを一つ絶対に叶える代わり、契約者の魂を貰ってかなきゃならねぇ」
「知ってるわ」
「嬢ちゃんが俺を召喚したってことは、何か困ってることがあるんだろ?」
「そうね」
「まずそれを聞こうか。おじさんは嬢ちゃんが子供だろうと容赦しねぇぜ」
死神は不敵に笑った。
シャーロットは一呼吸おいて口を開く。
「……なら、私をお風呂に入れて」
「うん?」
死神は思わず瞬きをした。
「もうずっとお風呂に入ってないの。メイドたちが通せんぼして、それで意味の分からないことを言って私を追い払うの。だから、メイドたちを説得するのを手伝って」
ばさばさに絡まったシャーロットの髪が一房落ちる。
そういうことか、と死神は顎髭に手を遣った。
命を懸けた願いがよもや風呂に入りたいだったとは。
しかしどうやらシャーロットは本気のようで、その細い腕の汚れ方やぼそぼその髪を見る限り、近頃まともな生活を送っていないように見える。
「分かった」、と死神は手を叩いた。
「しかしまずは現場検証だ」
また不敵ににやりと微笑んだ。
*
風呂場の入り口の扉は他と違い色付きのステンレスでできていて、脱衣所の蒸気でかびないようになっている。
長く広い廊下の突き当りに位置するそれを、少し離れた階段の影から二つの頭が覗いている。
「ホルーマンの家も立派になったモンだなぁ」
「ええ?普通じゃないの?」
こそこそとメイドの様子を伺い見るシャーロットは不思議そうに尋ねた。
「普通なもんかよ。俺が先代と契約したときなんてなぁ」
「兄様ほんとに長風呂ね。ふやけて死んでるんじゃないかしら」
「聞けよ……」
死神は呆れたようにため息をついた。
博識な感じと豪語する彼だが、実際はそれほど頭がいいわけではない。国公立大学ド底辺をぎりぎり卒業できるかくらいの頭しかない。
それでなぜこの死神が選ばれたのかというと、単にシャーロットが開いた召喚書に、他に博識な悪魔がいなかったからである。
とは言え、長くこの世を生きている分、知識は並みの人間のそれではない。要は文系なのだ。シャーロットが名も知れぬ死神に頼ったのは、ある意味では正解だったのかもしれない。
「……なぁ嬢ちゃんよぉ」
「なに?」
「……あんちゃんほんとにふやけてんじゃぁねえか?」
シャーロットが初めに風呂場に来てから今に至るまでに、かれこれ一時間は経っている。しかし中の様子はおろか、前に立っているメイドすら動く気配がない。
しかしシャーロットは首を横に振った。
「それじゃあ兄様は昨日も一昨日もふやけてたことになるわ。でも私は晩御飯の時にも兄様に会ってるもの」
「うーん……」
死神は頭を抱えた。渡された仕事があまりにも専門外だったからだ。
彼は死を司る神。死そのもののようなものだ。
故に、人の死を狩り、魂を抜き、霊界へ運ぶのが本分である。このような仕事を与えられたのは初めてなのだ。
「なあ、嬢ちゃんは女中たちに嫌われてるって言ったか?」
「そうよ」
「そんなことってあり得るのか?」
「あり得ないわね。だってメイドたちは自分からこの家に仕えてるんですもの。私が嫌ならやめればいいわ」
「だよなあ」
死神は頷いた。
「じゃあ嬢ちゃんのことが嫌いなのは女中たちじゃないんじゃねえか?」
死神が双子のメイドの似様に感心しながら言ってみると、シャーロットは首を傾げた。
「誰かが私に意地悪するよう、メイドたちに指示してるってこと?」
「それしかないと思うがなぁ」
死神は答える。
「……考えられるのはお兄様ね」
「兄貴は結構偉いのか?」
「分からないわ。でも私よりは偉いでしょうね」
私はまだ小さいもの、とシャーロットは言う。
「それに私がさっき、お父様に言いつけるわよってあそこのメイドに言ったとき、ちょっと動揺してたもの。きっと兄様を贔屓していることは言ってないのね」
そう言って風呂場の戸を真っすぐに見つめるシャーロットの小さな背中を、死神は変な顔で見つめていた。
「嬢ちゃんは兄貴と二人で飯食ってるのか?」
「お父様と三人でよ」
「母親は」
「いないわ。つい先日死んだの」
そうかい、とため息をつく。
「だったら嬢ちゃんがしばらく風呂に入ってないことくらい、父親が気づくんじゃねぇか?」
シャーロットは向こうを見つめたまま、ぱちくりと目を見開いた。
「それもそうね。……じゃあお父様も共犯ってこと?」
「そうかもしれねぇなぁ」
シャーロットは黙り込んだ。
自分の父が彼女を嫌っているなどということが、どうしてもすぐには信じられなかったからである。
思えばシャーロットに対する冷遇が始まったのは、ジーナが世話係になった頃からだ。ジーナはシャーロットが妙な行動をした時のための見張り役だったのかもしれない。
それを仕向けたのが父親だったというのならば、なるほど納得がいく。
七つ上の兄では、誰かに専属の傍付きを付けるなどという大掛かりな役変更は不可能だろう。
しかし……、それではますます四面楚歌だなあ、とシャーロットは階段に座り込んだ。
「この家で一番偉いのはお父様よ。それでメイドも兄様も敵と来れば、もう私がお風呂に入る術なんて無いじゃない」
シャーロットの大きな緑の目が悲しそうに揺れる。もちろん本人にそのようなつもりは無い。
それを見ていた死神は、さっきよりずっと変な顔をして言った。
「……そうでもねぇさ。俺がなんとかしてやるよ」
シャーロットははっとして顔を上げる。
「何か案があるの?」
「要はあの女中がちょっとでも主人の言いつけを破るよう仕向ければいいわけだろ?」
言うが早いか、死神は広い廊下に堂々と歩み出た。
「ちょっと……!」
それまで表情一つ動かさず番をしていたメイドたちが、前方から現れた不審な人物を見てさっと身構える。
薄い緑のエプロンドレスが揺れて、死神が二人の前に立った。
「通してくれねえか。風呂に入りたいやつがいる」
「できません。旦那様の体調が優れませんので今ここで打ち首にすることも可能ですが、敢えて致しません」
「名前と、どこから入ったのかを吐きなさい。でなければこのまま返すようには致しかねます」
双子は、いつの間にか出したダガーナイフを死神の首筋に当てていた。
それでも死神は動揺することなく続ける。
「お宅の嬢を風呂に入れるってんなら今すぐにでもこっから出てく。駄目だってんならその理由を教えろ」
腕組みをした死神は、どこか虚空を見つめながら言った。シャーロットからは見えないその顔は真顔に等しいが、声は低く張りつめていた。
すると双子の一人がナイフを下ろし、流麗な声で言った。
「貴方、人ではありませんね?」
それを聞いたもう片方が驚いて隣を見る。
「人ではない?」
「ダスラも知ってるでしょう。ホルーマン家はかつて魔術師として栄えた。貴方はその使い魔ですね」
言われた死神を、ダスラと呼ばれた方のメイドが懐疑の目で見つめる。
言われてみれば普通ではない雰囲気に、ダスラはそっとナイフを下ろした。
「……そうだと言ったら?」
「ことによっては要求を呑みましょう」
名前の分からない方のメイドが静かに言った。
「ですが、そこにお嬢様がいらっしゃるというなら別です」
そうして階段の影を見る。
シャーロットは息を吞んだ。
「いない」
死神が平淡な声で答えたが、双子はそれが嘘であることが分かっていた。
「ナーサティア」
「ええ」
すぐに何かの合図をすると、ナーサティアと呼ばれた方がさっとその場から逃れて走り出した。
大方相手が使い魔であると踏んで救援を呼びに行く心算なのだろう。
いけない、とシャーロットは影から飛び出した。
死神がおそらく膨大な力を持っているであろうことは分かっていたが、メイドたちがとても強いことも知っていたからだ。
しかしそんなシャーロットの心配を他所に、死神は余裕風を吹かせていた。
「ナーサティアとダスラだな」
どころか悠長な動きで名前を呼ぶと、ふと、走るナーサティアの背中に右手を触れた。
その手は背を突き抜けて、ぐっと何かを掴む。
違和感を感じて思わず振り返った彼女は、直後、驚きの表情とともに倒れ伏した。
それを見届けて引き抜いた死神の右手には、白い靄が握られていた。
そして再びダスラに向き直る。
きっと鋭い表情で死神を睨みつけたダスラは、しかし抵抗らしい抵抗もできず、同じように床に頽れた。
それをずっと見ていたシャーロットは、瞬きの間に起こった出来事に思考が追い付かず、倒れたメイドの傍らに呆然と歩み寄っていた。
「殺したの?」
「いや、都合が悪かったから記憶を消しただけだ。つってもまあ魂を抜いたわけだから、殺したことになるのか?」
「魂を抜いたなら死んだんじゃないの?」
シャーロットはダスラの傍らに膝をついて、奥の通路に倒れているナーサティアを見た。
「いやぁそんなモン直ぐに戻すさ。人間ってよぉ、死ぬ間際のことは何一つ覚えてないんだよ。だからこうすりゃ俺と会ったことくらいは忘れてくれるだろ」
「そんなに楽天的なものなの?」
「何だって良いんだよ」
死神は呵々と笑いながら二人のメイドに魂を戻して回った。
「そんなことより嬢ちゃん、風呂場空いたぜ」
死神はにやりとステンレスの扉を指差す。
シャーロットの頬に明るい色が差した。
そして彼女が何事かを口にしようとしたとき、四方からたくさんの足音が聞こえているのに気付いた。
死神はいち早くそれに気づいていたようで、シャーロットが周りを見渡して状況を確認する前に、彼女の小さな体を丸ごと小脇に抱えて走り出していた。
*
死神のぶかぶかの外套が靡いて前が見えない。
たくさんの足音は次第に遠のいて、最後は大雑把な感じの足音一つに収束した。しばらくの間それが続いた後、がちゃんと重たい扉が開く音がして、がちゃんと扉が閉まる音がした。
それでようやく暖かい外套から解放されて、初めいた書庫に戻ってきた。
とは言え真っ暗で周りは見えず、かび臭い本の匂いだけがそれを証明している。死神はおそらくこの書庫と浴場以外の部屋を知らないので、迷わずこの部屋に飛び込んだことからしても、まず間違いないだろう。
「美人がわんさか追いかけてきたぜ」
見えない暗がりの向こうで死神が軽口を叩いた。
シャーロットはそれを無視する。
「きっとあの二人が通信機でも持ってたのね。迂闊だったわ。……それに今のは絶対にあなたが悪いわ。もっと穏便に行けばいい感じだったのに」
と死神をにらみつけた。
それを知ってか知らずか、死神はう……と口ごもってしまった。
「でもどうせ、あそこで女中を振りほどいて嬢ちゃんが風呂に入ったとしても、同じことは明日も明後日も繰り返されてた」
「それは間違いないわ」
最終目的はシャーロットをお風呂から遠ざける根源を立つことだ。
それをシャーロットはきちんと分かっていた。
「それにはまず、お父様を説得に行かないといけないわね」
「それが一番だな」
死神は頷いた。しかし内心では、そううまくいくものかと不安に思っていた。
誰かに危害を加えるほどその人を嫌っている人間というのは、大抵徹底的に嫌っていることがほとんどだ。シャーロットの父親がそれに当てはまると言うのならば、シャーロットやその一味である死神の話に、果たして耳を傾けるのだろうか。そういう不安である。
はたまた、もしかしたらもっと別の、それこそ理屈に適った理由があったとして、それを検証せずに無鉄砲に突っ込んでいいものかと、そういう不安もある。
しかし彼女の父親がシャーロットを冷たくあしらっているのは確かで、それは許されざる悪なのだ。冷酷とうたわれる死神の彼でもわかる。
だから彼は、父親を説得するために動かなければならない。
その葛藤が、いまやどこに向かって何をなそうとしているものなのかも分からなくなりそうだ。
死神の青い目には、シャーロットの揺るがない平淡な顔が見えていた。
あまり笑わず、あまり怒らず、あまり悲しまず、あまり驚かない。そんなシャーロットの顔だ。
幼い彼女が過去はどんな表情を見せたのか、死神にはわからない。しかし、彼が先刻母親の所在を訊ねた時、彼女が僅かに郷愁の色を見せたのは見間違いではないはずだ。
おそらくシャーロットは母親を失い悲しみのどん底に突き落とされたとき、その聡明な頭で必死に考えたのだ。
どうすればこの暗闇から抜け出すことができるのか。
どうすれば必要以上に傷つかずに済むのか。
どうすれば悲しむ父や兄を喜ばせることができるのか。
どうすれば金輪際このような悲しみに苛まれることがなくなるのか。
そうして行き着いた先が、今のシャーロットだ。
悲しみを恐れ、死を恐れ、失い、傷つくことを恐れた、脆いもろい少女だ。
若しも彼女がお風呂に入り、再びその温かみを知ったなら、忘れていた感情の一部が吹き返すかもしれない。
死神は凝り固まった足りない頭で考えた。
そうして再びシャーロットに向き直ったとき、死神は彼女の幼い横顔に、彼がかつて契りを交わした故・ホルーマンの面影を見た。
「待ってな嬢ちゃん。すぐに戻ってくるからな」
死神は大きな手をシャーロットの頭にのせ、放し、立ち上がった。
シャーロットは不思議そうな顔をしたが、すぐに「ええ」と答えた。
*
緑のエプロンドレスを着たメイドたちが、あわただしく行き来している。
先刻物音のあった書斎を覗いた一人のメイドが、家主が自殺しているのを発見したのだ。
時刻は午後十一時を回っている。
それを知らされた総領は一時は取り乱したが、今は落ち着いた様子でリビングのソファに腰かけている。
曰く、こうなる予感はしていたと。
長い髪を一つにまとめたメイドが、彼の濡れた髪を静かに乾かしている。
そこへ、一人の少女が入ってきた。
長いばさばさの髪を野放しにした、幼い少女である。
「兄様、私さいごにお風呂に入ってもいい?」
長い前髪の間から控えめに聞いてくるので、彼は何も言えず、ただこくりと頷いた。
「ありがとう」
それだけ言って、扉を閉めて行ってしまった。
「……シャーロットには悪いことをしたな」
「……旦那様の言い付けでしたから、仕方のないことです」
髪を乾かしていない方のメイドが答えた。
「僕だけでも、父さんに何か言うべきだった」
「旦那様はご傷心でしたから」
髪を乾かしている方のメイドが答えた。
「……僕があんなことしなければなあ」
「坊ちゃまのせいではございません」
「慰めのつもりか?」
「滅相もございません。私はただ思ったことを申し上げたまでです」
どちらともなくメイドが発した言葉に、彼は苦笑した。
二か月ほど前、彼は両親と妹と二人で町へ出かけていた。
父が久々の休暇を貰って、家族そろって出かけるのはもう二年ぶりくらいだったわけで、妹のシャーロットも嬉しそうにはしゃいでいた。
いろいろな店を見て回って、昼下がり頃、最後に町の中心の噴水のある広場にやってきた。
そのとき、彼は広場の噴水に目を付けた。
噴水には面白い仕組みが使われているのだということを、学校の物理で習ったばかりだったのだ。
それで噴水の中を覗き込んだ彼の横で、同じようにシャーロットも噴水を覗いていた。
何の拍子だったのか、はじける水の粒を一身に見詰めていた彼は覚えていない。本当に大きくて深い噴水だったのだ。
気づけば隣にいたはずのシャーロットはいなくなっていて、代わりに母が噴水の中に飛び込んでいた。
何事かと理解が追い付かない間に、母は水の中からシャーロットを救い上げていた。
どうやらシャーロットは水の中に落ち込んでしまったらしかった。
ひやりと肝を冷やしながらもほっとしたのも束の間。母はシャーロットを水辺に上げた安堵からか足を滑らせて溺死。
何かの用事で少しの間そこに居合わせなかった父は、その日からおかしくなってしまった。
シャーロットが水に近づくのを極端に恐れ、風呂に入れることすら禁じた。
更には外に出ないよう日中の見張りとしてジーナというメイドを付け、そのくせそれが自分の命であるということは伝えなかった。
見るに見かねたメイドたちは何度も説得を試みたが、どれも失敗に終わった。
もう何をしても無駄だと誰もが諦めた矢先の事件がこれだ。
そんな予感がしなかったでもない。
彼は傍らのメイドに何かを言おうとして、やめた。
*
翌朝、ホルーマンの令嬢が自室のベッドで息を引き取っているのが世話係の女中によって発見された。
その表情は、ようやく温もりを見つけたかのように穏やかだったとか。
終
シャーロット 笹垣 @sasagaki_0706
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