第6話

 髪を、皮膚を、服を、それから心と表情を整えるためにはそれからまたしばらくの時間が必要だった。例えば秋元沙織が泣いたとして(それは何故だか容易に想像できた、実際に彼女が泣いたところを見たことがあるわけではなかったのに)自分は揺れないよう、動揺しないよう、丁寧に心の表面を整えた。

 秋元沙織は繊細なレースのあしらわれた、簡素とも豪奢とも言えるワンピースを着ていた。寒そうに見えて巻いていたマフラーを解き、その薄い肩にかける。彼女はそれを胸元で掻き抱くようにしてはにかんだ。とても、可愛いと思った。

 秋元沙織は「どうして」と言った。説明はとうにしたつもりだった。小説が書けないから。あなたのことばかり考えていたら筆が進まないから。だからごめんなさい、俺のことは忘れてください、と伝えたはずだった。けれど彼女の聞きたいところはそこではないらしかった。

「どうしてそんなになってまで小説を書くんですか。何にもなれないかもしれないのに」

 そのとき、何かの糸が切れた。あるいはパズルピースが嵌ったと言うべきかもしれない。

「人は他人と、あるいはその他の有象無象と関わった形で自分の形が決まるんです。例えば私はあなたよりも身長が高いけれど、他人が一人もいない状態なら私の身長には何の意味もない。特徴は他者と関わって初めて生まれる。私が私たり得るのは私ではない人間がそこらじゅうにうじゃうじゃしているからです。普通の人間は、例えば家族や友人、恋人、職場の人間関係、そういうもので自己を確立する。何ものにもなれない一般的な小市民であっても、誰かを愛する限り自分は自分じゃなきゃいけないんです。仕事なら代わりがいる、けれど愛情においてだけは代わりがいない。自分は『誰でもない無名のキャラクタ』ではいけない。普通人は誰かを愛するために、誰かに愛するために、誰でもない自分自身になるんです。ただ私には愛する人間がいない。家族という仕組みも、学校も社会も、何もかもが私にとっては合わない場所でした。恋愛だって、生まれてから一度もしていないわけではない。その都度、他人に合わせようとして疲弊し、それを諦めて嫌われ、私にとっても私と関わる誰かにとっても私の存在は不快そのものでしかなかった。本当は塵芥のように自分を捨ててしまえればよかったんです。社会に適応するでもいい、首を括るでもいい、私にとってそれらは同じ意味でしかありませんでした。――ただ、私は私を捨てきれなかった。生きていたかったんです。そして私にとって私の形を決めるものは、小説だけだった。私のこれはただの自己愛です。あなた方の『恋愛』と何一つ変わらない。私は小説を愛することで、間接的に自己愛を満たしているに過ぎない。だから」

 そこまでを一息に喋ってしまってから、脳の隅に「あまり詳細に話すつもりはなかったのに」という種類の後悔がよぎった。秋元沙織の表情は怪訝と侮蔑の間に見えた。あるいは屈辱に腹を立てているのかもしれない。

「だから、今更誰かを愛する訳にはいかない。私にとってそれは死ぬことと同じです」

 それが数十日をかけて出した結論だった。秋元沙織は泣かなかった。うつむいて唇を噛み、心なしか深い呼吸を繰り返す。

「――されることも迷惑ですか」

 か細い声がコーヒーの香りに混じって隆史まで届く。隆史はもう一度謝罪を口にした。

「誰かの愛情を無碍にできるほど、私はそれに慣れていないんですよ。現に今だって、――あなたに会ってからの私は、普通ではない、いや、俺にとって普通じゃないだけで社会にとっては普通なんだ、普通の、なんでもない、感情に引きずり回されて足掻いて、小説なんて書かない、普通の、――そんなのはもう俺ではなく、俺の死体にすぎない」

 俺はまだ死にたくないんです。声に出してみると、こんなに滑稽な言葉もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る