第5話

 友人からの指示はたったひとつ、「自分から連絡するな」ということだった。いつも自分からばかり連絡するようなことがあってはならない。相手はあなたの好意の上に胡座をかいている。だいたいあなたは昔からと話が飛びそうになったところで、沙織は手のひらを振って友人の話を遮った。

「そのお説教はもう何回も聞いた」

「何回も同じことをするから何回も言うことになるんじゃない」

 その心配症のせいか、友人はどうもお説教臭いところがある。相変わらず母親じみていると思って沙織は少し笑った。彼女は独身で、だが内縁の夫がいる。子供はいない。優しい、彼女曰くには「躾の済んだ」恋人と二人、長らく籍も入れずに暮らしている。それがどういう事情を孕んでいるのかはわからない。

「だいたい何、その曖昧な態度は。聞いてるだけで腹が立つ。そんな男のどこがいいの?」

 訊かれて沙織はもう一度笑った。友人の言い草は冷たく突き放すような調子だが、その実、自分から話をするのが苦手な沙織にその胸中をすべて吐き出させてくれる稀有な人間でもある。だからこそ、過去の出来事もほとんどすべてを知っていて、それを使って繰り返しお説教を始めるのだが。

 どこがいい。萩野隆史は平凡な人間だ。沙織よりも少し背が高い。痩せぎすで、肌が青白い。手持ち無沙汰になると顎を撫でる癖がある。普段は顎髭があるのではないかと思う。視線がよく動いて、四方八方の他人に対して気を使っている。ぶつからないように、邪魔にならないように、あるいは手助けができるように。親子連れがいれば扉を開けてやり、横柄なところはない。抜きん出ていいところがあるというより、悪いところが特に無い、という風情の男だった。

「いやあるでしょ、でかいのが。無職でしょ?」

「アルバイトはしてるって言ってたけど」

「非正規はノーカン。生活していけないじゃん」

「うーん」

 沙織は友人の主張を聞いて首をひねった。なんとなく大丈夫だと心のどこかで思っている。

 萩野隆史は十全な人間に見えた。彼と話していて不安が湧くことはなかった。不安はむしろ、彼と離れているときにこそ訪れた。会う前には自分のことをどう思っているのか訊こうといつも思うのに、萩野の隣りにいるとそのことをすっかり忘れてしまう。何しろ萩野の視線や表情はいつも好意的で、その低い声に名前を撫でられる度に温かい安堵が胸に広がるのだ。そうして不安を思い出すのはいつも、一人の部屋に戻ってからだった。

「三十路も過ぎてそんな呑気なこと言ってられないでしょうに」

「三十路過ぎたからだよ。なんか、だいたい大丈夫だなって思えるようになった気がする」

「いやあんた昔っからそんなんだったでしょ、豪胆っていうか雑っていうか」

「人聞き悪いなあ」

「じゃあ言い換えよう。直情。猪突猛進。あるいは一途」

「一途でお願いします」

「あいわかった」

 お互いにわざとらしい言い回しをして笑いあってから、「まあ、それはいいとして」と友人は目の前の箱を横にどかす仕草をした。

「あんたがその、ハギノさんだっけ、その人を好きなのはわかった。でもハギノさんの態度は気に入らない。あんたの態度も。お互いの合意あってそういう振る舞いになるならまだしも、ちゃんと話もしないで一方的に甘やかすのはよくない。都合のいい女として好かれてどうすんのよ。ただでさえ無駄に苦労性なのに」

「無駄にってさあ」

「いい? あんたには愛される価値がある。大切にされる価値がある。それを自分から放り投げるようなことはしちゃだあめ」

 言いながら友人は沙織の手を、指を数えるようにして撫でた。子供にお説教するお母さんか、あるいはカモを洗脳する占い師じみていた。

 そんなこと言っても、だって今も大切にされすぎているくらいなのに。沙織はそれを声に立てなかった。萩野は沙織を、まるでガラス細工かクリスマスケーキみたいに慎重に扱う。夜の街で抱き合うときにさえ、傷どころかシャツに皺もつかないような有様で、口紅だってほとんど崩れなかった。萩野は沙織がむしろ不満にさえ思うほど、優しいのだ。

 部屋に戻って化粧を落とす。携帯に萩野からの着信はなかった。せめて謝ってくれればいいのにと思った。謝ってくれれば、嬉しかったと伝えることができるのに。

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