第4話

「隆史さん、生きてる?」

 隆史が返答しないことを見越してか、葉太は「いつからそうしてるの? 最後にご飯食べたのいつ? お風呂に入ったのは?」と矢継ぎ早に質問を重ねた。そのどれもが記憶に遠く曖昧だったために、隆史は「わからない」とだけ返答した。そもそもいつから床で寝ていたのか、いつの間に葉太が部屋に入ってきたのかもわからない。

「沙織さんとは会ってるの?」

「会ってない」

「連絡は」

「してない」

「なんで」

「なんでって」

 勢い良く反駁しようとして言い淀む。それも当然、理由が説明できるのなら秋元沙織に対しても同じ説明ができる。連絡を取らないのはその説明ができないからであり、隆史は起こしかけた体を再び床張りへ伏せた。

「わからない」

「わからないって、理由もないのに放置してるってこと? それはさすがに」

「違う」

「違うってじゃあ何」

「何を言えばいいのかがわからないんだ。何を言えばいいのか、どうすればいいのか、どうしたいのか、何ができるのか、何も」

 薄い肩はいつでも寒そうに見えた。細い首は簡単に折れそうに見えた。視線が絡まる度に腹の底に湧き上がる衝動は、性欲よりもむしろ支配と蹂躙の訴求に近かった。美しいままに、陰りどころかくすみの一つも持たずに生きてきたような秋山沙織を、自分と同じかそれ以下の澱みの中に引きずり落としてしまいたいと思った。秋山沙織から向けられる信頼と好意を含んだ視線を侮蔑と恐怖とに塗り替えてしまいたかった。秋山沙織は隆史を通して、隆史ではない別の何かを見ているように思われた。

 掻き毟った頭は、数日洗っていないせいで油気が強かった。髪が指に絡まる。皮膚が剥がれて爪の間に挟まる。髪も爪も剥がして捨ててしまえればどんなに楽だろうと思って、隆史は半ば叫ぶように「なんで誰も彼も自分の感情の名前がわかるんだよ」と付け足した。

「わかんないよ」葉太が声を大きくした。見上げた顔は十数年前よりも遥かに高い位置にある。

「感情の名前なんてわかんない。俺の嬉しいと隆史さんの嬉しいがおんなじである証拠なんてどこにもない。でも俺は俺の感情に責任が持てる。好きだって言ったら好きだって態度をとる。態度には名前がある。取りたい態度に即した関係性にも名前がある」

 葉太の主張は明朗で、隆史にとってはひどくまぶしかった。その光を遮るように両手で顔を覆い、強く目をつむる。

「もしかして隆史さん、未だに元カノ引きずってるとかじゃないよね」

 葉太が引き合いに出した女性は五年前、隆史がまだ会社員だった頃に交際していた女性だった。

 彼女は太陽のような人だった。明るく、強く、前向きで、優しく、そのどれもが隆史にとっては暴力的なほどだった。何度となく励まされ、支えられ、救われては、その十分の一も彼女に返せない自分に嫌気がした。その時隆史は隆史なりに彼女との未来を思い描いていた。幸せにするつもりだった。交際が二年目に入る頃、隆史は上司との折り合いの悪さから会社を辞め、同時に彼女とも半ば一方的に別れた。

「あのさあ、恋人も上司も親も友達も、『そういう名前の誰か』じゃないんだよ? なんで一人だめだったからってなんでも次々に捨てちゃうのさ」

 葉太にはわかるまい、と隆史は内心で思う。隆史が捨てているのは上司ではなく、家族でも恋人でもなく、隆史自身だ。隆史が隆史自身を社会から、その他の暖かいものから投げ捨てている。

「わかってる。でも、俺は俺しかいない。誰も俺を代わってくれない」

 昔の恋人と別れた時、隆史の自己評価はほとんど最低にまで落ち込んだ。隆史にとって自身は自身の大切なものを踏みにじる敵でしかなかった。大切なものからはできるだけ離れようと思った。ただ一人、目の前の幼馴染だけがそれをさせてくれない以外は。

「誰かもっと上手い人が代わってくれればいいんだけどな」

 半ば八つ当たりのように言ってから、隆史は葉太に向けて「ひとりにしてくれ」と追い払うように手を振った。葉太は不安を精一杯の侮蔑で覆い隠したような妙な顔をして隆史を睨みつけてから部屋を出ていった。

 葉太の去った部屋でひとり、机上のノートパソコンを開く。終着点を見失った物語の哀れなキャラクタがそこに立ち尽くしている。見えかけていた光明は消え、救いも結末ももはや存在しなかった。

 少し前までそこにあったはずの結末を頭の中でなぞる。そのストーリーならば、この結末はハッピーエンドになるはずだった。あまりにも都合のいい茶番、どこにでも転がっているようなおとぎ話。もっといい結末があるはずだと高望みしたために、それは完全に失われた。

 あの時に、秋元沙織に出会う前に書いておけばよかったのだ。そうすれば主人公の非力や葛藤、恋という美しい名前に相反する後ろめたい衝動を思い出さずに物語を結末へと運んでやれたのに。

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