第3話

 日曜日。十四時よりも十分早く待ち合わせ場所に行った隆史を、秋元沙織は既に待っていた。できるだけ風に当たらずに歩ける道を選び、趣味の良い喫茶店を見かけてそこに入った。少しの間お茶を飲んで体を暖め、それから水族館へ向かう。

 水族館という選択は端的に言って正解で、隆史は秋元沙織に対してほとんど無意識に行っていた接待の一連を水槽と魚とに任せることができた。そうして自分が彼女の視界から離れて初めて、隆史は秋元沙織をまじまじと眺めた。

 秋元沙織は普通の、なんでもない、どこにでもいる美人だった。

 隆史と同じように秋元沙織もまた気を抜いていたのか、あるいは魚に夢中で意識していなかったのか、この日はなんとなしに近付く機会が多かった。館内のマップを揃って覗き込んだときには、こぼれた髪の隙間に小さなほくろを見つけた。思わず触れそうになった指を引っ込める。こんなものがどうして頭蓋を支えていられるのか不安になるほど細く白い首。腕も足も少し力を入れれば簡単に折れそうに見えた。

 隆史とてけして体格のいい方ではない。日光もろくに浴びず、黴臭い部屋の中で自身も半ば黴のように生きているだけの人間だ。しかし、それでも秋元沙織の体は隆史と同じ量の骨や内臓を含んでいるにしてはあまりに華奢が過ぎた。

「萩野さん?」

 声をかけられてふと我に返ると、秋元沙織の両目が自分を覗き込んでいることに気がついた。慌てて表情筋の奥から笑顔を引きずり出す。

「すみません、ぼうっとしていて」

「何か気になることでもありましたか?」

「いえ、ただ」あなたに見惚れていただけで、とは口にしなかった。その代わりに「さっき見た魚の名前が思い出せなかっただけです」と理由をこじつける。

「それでなんだかむずむずしてしまって」

「じゃあ少し戻りましょうか」

 隆史は一度その提案を断ろうとしたものの、秋元沙織の楽しそうな表情を見てそのまま従うことにした。適当な水槽の前で名前を確認するふりをし、ふたたび順路に戻る。

「魚、お好きなんですか」

「すみません、一人ではしゃいじゃって」

「いえ。お気に召したなら何よりです。俺も秋元さんの意外な一面が見られて楽しいですし」

 ぱっと振り向いた秋元沙織は、目を丸くし、頬を朱に染めていた。形の良い小さな唇が、何かを言おうとして動く。

「すみません、失言でしたか。気に障ったなら」

「いえ、あの」秋元沙織が慌てたように言う。「ただ、恥ずかしいだけですので」

 そのまま顔を伏せた秋元沙織がその後、水槽の前で笑顔を見せることは無かった。折角、と隆史は思う。折角楽しそうな顔をしていたのに、水を差してしまった。自分はどうしてこうも、人が楽しんでいるところに水を差してばかりなのだ、と。

 水族館を出てからもも会話が弾むことはなく、時折思い出したように四方山話をしては沈黙を誤魔化した。秋元沙織はそのどれにも曖昧な相槌を返すだけで、目が合っては顔を逸らされた。

 揶揄や嘲弄のつもりで「意外だ」などと吐いたわけではなかったが、今更どんな言い訳を付け足していいのかがわからず、ただいたずらに時間は過ぎた。通夜のような重い空気の中で食事を摂り、駅までの道を並んで歩く。

「今日はお気を悪くさせてしまったようですみませんでした。折角楽しそうにしておられたのに、水を差してしまった」

「あの、そんなこと全然、私こそ態度が悪かったならすみません。みっともないところをお見せしてしまった気がして」

「みっともないなんてとんでもない」

 とても魅力的に見えました、と、言ってしまってから失言を重ねたことに気がついた。秋元沙織は足を止め、隆史の数歩後ろで俯いていた。謝ろうとした矢先、「萩野さんは」と声を被せられて口をつぐむ。秋元沙織は顔を伏せたままだったが、髪の隙間から赤く染まった耳が覗いていた。秋元沙織がもう一度「萩野さんは」と言う。声が震えている。

「私のことをどう思っているんですか」

「美しい方だと」

「……それは、本心ですか」

 秋元沙織に問い返されて、隆史はつい、少し笑ってしまった。どう答えるのが正解なのかと一瞬考えてそれをやめる。正解がわからないならば偽らない方がいいと思えた。

「本心です。――いや、正しくない。さっきの答えはほとんど反射的な社交辞令でした。ですが、俺があなたを美しいと思っているのは嘘ではありません。美しく、優しく、嫋やかで、それから」隆史が伸ばした手は、難なく秋元沙織の頬へ触れた。秋元沙織がゆっくりと顔を上げる。「ときどき、無防備がすぎる」

「私だって、誰にでも無自覚に無防備を晒しているわけではありません」

 言われて思わず抱き寄せた肩は薄い。腕の中で秋元沙織が息を詰める気配がした。力加減がわからない。少し力加減を間違えれば簡単に潰れてしまいそうな華奢な体躯。繊細な髪、目元、それから。触れかけた唇を離して覗き込んだ顔はやはり、ひどく赤かった。不安とも不満とも取れる双眸に見つめられて隆史は失笑混じりに謝罪した。

「せっかくの口紅が落ちてしまわないか心配で」

 それが真実なのか、あるいは口から出まかせだったのかは隆史本人にもよくわからなかった。秋元沙織が隆史の肩に額を置いて息をつく。

「その時は、塗り直せば済むことです」

 言われて隆史はもう一度笑った。どうにも、分が悪かった。

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