第2話
ところが数日後、隆史は秋元沙織と会うために電車で三十分の地方都市の駅前に立つことになった。どういうわけだか、秋元沙織の父親から葉太の父親、葉太を介して隆史のところに「ぜひまた会いたい」という連絡が秋元沙織から入ったのだ。
隆史は葉太の揃えた、先日よりはいくらかカジュアルな上下一式を身につけていた。秋元沙織はボートネックのカットソーにカーディガン、膝下丈のスカートと品のいいベージュのコートを身に着けていた。複雑に結い上げていた髪をすっきりしたひとつ結びにまとめて普段着を纏った秋元沙織は、見合いの場にいたときよりもいくらか若々しく見えた。そうして自身のスカートの裾を少しつまみ、「短すぎましたかね」とはにかんだ。
「いえ、お似合いだと思います。とても」
社会性というものは一度積み上げておけばたとえ数年使っていなくても必要なときには発揮されるもののようで、隆史はなんとなしに笑顔を作ってそう答えた。秋元沙織は花が咲くように、というよりは陽の光が零れるように笑った。
隆史にとってこれは半ば仕事のようなものだった。前提となっている見合いはパトロンである葉太の父親、宮野敏夫が決めてきたことであり、眼の前に居る秋元沙織はその宮野敏夫の取引先の社長令嬢である。宮野と秋元、二人の業務上の上下までは推し量りかねるものの、場に出されたカードで一番弱いのは間違いなく、隆史本人だった。
不興を買わぬよう、不愉快にさせぬよう、付かず離れずの距離を保ち、ほとんど接待の気分で秋元沙織をエスコートした。秋元沙織は丁重に扱われることに慣れているようで、その一挙手一投足は静粛そのものだった。
そうして逢瀬を重ねること数度、隆史は態度を決めかねていた。パトロンの手前よもや袖にすることもできず、かといってこのまま目的もわからない逢瀬のために時間と体力を削られる日々が続くことも迎合できなかった。
「目的がわからないって、普通のデートでしょそれは」
葉太がそんなこともわからないのかというふうにうんざりと隆史を睨め付ける。
「待ち合わせして一緒に出かけてご飯食べてでしょ? それで『目的がわからない』ってちょっと童貞こじらせすぎてない?」
葉太の指摘に隆史は飲んでいた二番茶を盛大に吹き、大仰に噎せて咳き込んだ。再三嘔吐きながら呼吸を整え、ジャージの袖口で顔を拭う。
「童貞ではない」一応、とはわざわざ言うことでもないので脳内で付け足すにとどめた。
「非童貞は二年ごと更新制だからね」
「自分に都合のいいように言ってないか?」
「ともかく」葉太が声を大きくして貴文を正面から指差した。「態度を曖昧なままにしておくのは一番良くない。毎回自分からデートに誘って何もなしに帰るのって、結構惨めだと思うよ実際」
「そもそも葉太のとこの親父さんが言い出したことで」
「ガタガタ言わない!」
「理不尽な」
「隆史さんは、沙織さんをどうとも思ってないの」
隆史はしばし悩んでから、「美人だとは思う」と答えた。
「けど正直、状況についていけてないんだ。ついこの間まで顔も知らなかった人を今どう思うかと訊かれても、わからない」
「もっと話したいとか、一緒にいたいとか思わない?」
「今のところ」
「じれったいなあ!」
葉太が声を荒げ、すぐにどこかを睨んだままぶつぶつと独り言を言い始める。そうすることしばし、「よし」とつぶやいて隆史の携帯を隆史の手に押し付けた。
「今度は隆史さんからデートに誘おう。さすがに連絡先くらい持ってるんでしょ?」
「持ってるけど」
「じゃあ日曜。水族館。集合十四時。夕飯込み」
「日曜ってそんな急に、だいたい向こうの都合だって」
「隆史さんのペースに合わせてたら愛想尽かされちゃうよ。都合悪ければそういう連絡が来るんだから気にしない! 案ずるより産むが易し! ハリーハリーハリー!」
葉太に急かされるままメールを書き、秋元沙織にそれを送信する。少し間を置いて了承の返事があった時、喜んだのは隆史ではなく葉太だった。
「なんで俺より葉太の方が嬉しそうなんだ」
「俺はさ、隆史さんに幸せになってほしいんだよ。現実に救いはないって言うけど、それは隆史さんが救いをあんまりちゃんと求めてないからだと思う。欲しいってちゃんと言えば、得られるものはきっとあるよ」
葉太が帰っていき、隆史は再びノートパソコンを開いてそれに向かった。ここ何週間か、ろくに筆が進んでいない。恋を病だとするなら、逆説的にこれは恋なのかも知れなかった。それも、死に至る病だ。もしもこのまま、恋の病とかいう得体の知れないもののために小説が書けなくなったら。吐き気を伴う恐怖が胃の奥から這い上がってきて、まだ二十時前ではあったが早いうちに布団をかぶった。
秋元沙織は美人だった。見合いの場を離れ、普段着で会ってみてようやくそれがわかった。情欲が湧くわけではなかった。それだけの余裕は隆史にはまだ無かった。ただ、秋元沙織のあの疑うことを知らぬような無垢の双眸を思い返す度に居心地の悪い気分がするのも事実だった。
秋元沙織は疑うことを知らない人間のように、隆史には見えた。
迫害されたことのない人間、裏切りにあったことのない人間、他人に――あるいは自分に、失望したことのないような真っ直ぐな瞳。陰りのない笑顔。
秋元沙織はきっと、何かを知らない。だからあんなにも無防備な視線を両の目に湛えていられるのだと、隆史は思った。思いたかった。
恋というものをどうにか思い出そうとして果たせず、自分のこの感情に名前をつけようとしてそれを諦める。誰だって正解なんて知らないはずだ。恋に理屈はない、正解はない、再三聞くそれがひどく心許なく胸に響いた。誰も正解を知らないのに何故、誰も彼もが自信を持って色恋を語れるのかがわからなかった。その曖昧な定義のもとに人は家族を作り、子を作り、何一つ疑うこと無く十全に生きていく。
わからないものをわからないまま丸ごと受け止めるというのはきっと胆力がいる。その胆力というものにおいて、俺はまだ二十一の葉太にさえ劣っているのだと結論づけて、隆史はそのまま眠りに沈んだ。足にヘドロのまとわりつく暗闇の中を延々歩く夢を見た。
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