眠り姫

 病院の一室。

 たった一つだけあるベッドの上には、二十五歳ほどの若い女性が寝ている。

 怪我をしている様子はない。身体はきれいなものだ。

 だがその女性は、決して目を開けることはない。

 女性は植物状態で、もう五年間も眠り続けているのだ。


「友里。おはよう。今日も綺麗だな」

 ベッドサイドの椅子に、青磁が座っている。愛おしそうに女性を見て、語りかけた。

 診察に来た看護士が、青磁を見て、慣れた様子で声をかける。

「今日もお見舞いね? いつもご苦労様」

「いえ。俺が会いたくて来てるんです」

 看護士が去り、青磁は寝たきりの女性に語りかける。


 女性は、青磁の恋人だった。

 意識はない。返事が返ってくることはない。

 それを知りつつ、青磁はいつものように、女性にいろいろな話を聞かせた。

「友里。こないだ、俺は初めて運命に歯向かったよ。いじめにあっている女の子にね、訴えろとアドバイスしたんだ。俺が運命に逆らうなんて、笑っちゃうよな。そんなこと、できないことを誰より知っているはずだったのに」

 優しい手つきで、友里の髪を撫でる。


「ルーチェっていう妙な奴がやってきた話はしただろう? そいつのせいだよ。俺がこんな風に変わってきたのは。今の俺を見ると、友里はなんていうんだろうな? 変わってしまった俺なんか、嫌いになるかな? 友里はいつも、俺の占いを聞くことが好きだったものな……」

 頬をなで、青磁は言う。

「俺は運命に抗うことにしたんだ。だから……」

 切なげに目を細める青磁。

「友里が一生目覚めることはないという運命にも、俺は諦めないよ。何度だって会いに来るし、俺が経験したことは何でも話してやる。目覚めることがなくても、俺はずっと、友里のことを愛している」

 青磁はそっと友里に口付けた。

 友里はなんの反応も返さない。

 それを少しだけ寂しそうに見て、青磁は席を立った。

「……また、会いに来るよ。それまで、元気で」


 自室に帰ると、ルーチェが出迎えた。

 何かを考えるような顔をしている。

「ただいま」

「おかえりなさい。……ねえ、今まで聞かなかったけれど……」

 ためらいながら、ルーチェは言う。

「あなたから、薬品の匂いがするわ。週に一度、あなたが出かけた後は、いつもそう。いつも同じ匂いがしている。……あなた、一体、毎週どこにいっているの? どこか、身体が悪いの?」

 ルーチェは心配そうだ。


(もうそろそろ潮時か……)

 特に隠しているつもりはなかった。だが、友里は大切な存在であり、彼女のことを無闇に話したくはなかった。

 だが、ルーチェになら話してもいいだろう。

「……病院に通っているんだ」

「やっぱり、どこか悪いの?」

「悪いのは俺じゃない。病院に――俺の恋人が入院しているんだ」

 ルーチェが息を呑んだ。


「交通事故にあって、病院に運ばれたんだ。頭を強く打って、怪我は完治した今でも、植物状態で、意識が戻らない。その状態のまま、もう五年になる」

「五年も……?」

「五年の間、俺は毎週彼女を見舞ってきた。これからもそうするだろう。たとえ彼女の意識が一生戻らなくても」

 その言葉に、ルーチェは自分が傷ついたような表情を浮かべた。


「一生戻らない? それって……」

「ああ。占いで見えている。彼女は死ぬまでこのままだ」

「そんな……。そんなことって……」

「……。こればっかりは、どうにもならない。それでも、俺は彼女を愛している」

「……」

「大嫌いな占いを仕事にしていたのも、取材を受けて有名になったのも、全て彼女を治療するためだ。治療し続ける、医療費を払うためだ。そのためなら、お金になることはなんでもする。そうしてこれまで、彼女を支えてきた。これからも、そうする」


 ルーチェは、黙って話を聞いていた。

 ルーチェの手が、ペンダントを握り締める。

 何かを迷うように、ルーチェはうつむいて、じっと考え込んでいた。

 そして、言う。

「ねえ……試してみたいことがあるの。彼女のいる病院に、私を連れて行ってくれない?」


 翌日、青磁は、ルーチェと共に、友里の病室を訪れた。

「この人が……セージの……」

 ルーチェは痛ましそうに、眠り続ける友里を見つめる。

「一体、何をする気なんだ?」

 青磁は不審そうにルーチェに聞く。


「……魔素がね。ずいぶん溜まってきたの。時空を越える念話を使うにはまだ足りないけど、簡単な魔法なら、もう使えるはずよ」

「魔法……?」

「そう。例えば……治癒魔法とか」

 ルーチェが、友里の上に両手をかざした。


 目を閉じ、意識を集中させる。

 ルーチェのペンダントが、眩く輝き始めた。

「光の魔素よ。全てをあるべき形に。グァリジョーネの祝福を」

 ルーチェがそう唱えると、カッ! と純白の光が病室中を染め、満たした。

 その眩しさに、青磁は思わず目をつぶる。

 その光が、収まったときには――。


 ルーチェが、友里を覗き込んで、安心したように笑う。

 それからベッドサイドを離れ、青磁に場所を譲った。

「声をかけてあげて」

 青磁は放心したように、ふらりと友里の側に寄った。

 友里の青白かった顔に、赤みが差している。


「友里……?」

 つぶやき、頬に手を当てた。

 青磁は、自分の目が信じられなかった。

 友里のまぶたが震え、ゆっくりと、その目が開かれた。

 戸惑うように、何度か瞬きをし、その瞳が青磁をとらえる。


「青磁……?」

 かすかな声が、青磁を呼ぶ。

 五年ぶりに聞いた、愛しい声。

 青磁の中で、何かがはじけた。

「友里!!」

 青磁は、友里を抱きしめた。

 加減ができない。あふれる感情に流されるまま、強く強く、その身を抱いた。


「友里、友里……!」

 涙がこぼれる。熱い雫があふれてとまらなかった。とめどない涙が、友里の肩を濡らす。

 友里が喋っている。

 友里が動いている!

 青磁はその現実を確かめるように、何度も何度も友里の名を呼んだ。

 ルーチェは、それを見届けると、そっと病室を出た。

 一人、部屋へと帰る。

 友里を抱きしめる青磁を見たとき、魔法が無事に効いた安心感と、青磁に恋人を戻して上げられた喜びを感じた。


 だが、それと同時に。かすかに――。心のどこかで、チクリと、小さな痛みを感じた。

 それが何か分からないまま、ルーチェは一人歩き続けた。


「青磁……どうしたの? ここはどこ? 一体、何が……」

 友里は戸惑っている。五年ぶりに目覚めたのだ。当然だろう。

「ここは……病院だよ。君は事故にあったんだ……。覚えているかい?」

 青磁は流れる涙を拭き、振り絞るように声を出した。


「事故……? ……そう、私、青信号で歩いていたら、突然車が突っ込んできて……そして……?」

「君ははねられて、意識を失ったんだ……。それから、ずっと眠っていたんだよ。あの事故から、もう五年も経つ」

「五年も……!?」

 友里は身体を起こそうとして、腕に力が入らず、ベッドに身をゆだねた。

 五年の寝たきり生活は、友里の身体をすっかり衰えさせていたのだ。


「じゃあ、あなた……もう二十三歳? すっかり、男らしくなったのね……」

「君はあの頃から変わらないな。ずっと、綺麗なままだ」

「五年間も……ずっと、私を待ってくれていたの?」

「当たり前だ。俺は友里を愛してる。……起きてくれるのを、ずっと待っていた」

「ありがとう、青磁……」

 二人はいつまでも抱き合っていた。そうして、尽きることのない会話をした。

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