狼とヒト

@mslw214

第1話

 雨上がりの森の匂いと鼻をくすぐる腐敗臭が漂う中、湿った土の上を慣れない脚で目一杯踏み、駆けていた。

 ぬかるんだ地面を一歩踏み出すごとに荒い息が唾液の垂れる犬歯の隙間から漏れ出し、その度に獣特有の生々しい臭いが嗅覚に届いて不快感をさらに扇いだ。もう冷えきった脚先は感覚がほとんどなく、その微かに感じるものでさえ痛みというマイナスの思考を刺激するものだ。

 樹木の枝、荊のツル、名もない儚げな花までも目の前の道を阻み、ざわりとそよ風に身を委ねて音を立てている。まるで森そのものが、これ以上騒ぐなと警告しているようだ。

 そんな森のざわめきを無視して、怪我をすることを承知で新緑の中を突っ切る。たかが数十メートルの疾走だったが体感では数千里の峠を越えるほどのもので闇さえも反映する漆黒に覆われた茂みを抜けると、突如として現れた光に眼を細めた。

 見上げると、満天の星と禍々しい朱色の満月の光が降り注いている。どうやら、森を抜けたようだ。

あたり一面は切り株の数々が点在していて、その先は崖が続いている。昼間なら人気があったようだが、今は真夜中ということもあり、音沙汰一つない。

 しかし、その先には崖しかなく、さらに向こう側には森を挟んで月を映した巨大な湖が広がっている。

「クソ、クソクソクソクソクソ……ッ!」

 一匹の獣は鋭利な犬歯を噛みしめる荒々しげに吐き捨てた。

 灰色の体毛で覆われた身体は泥だらけであるが、右前脚の脇の箇所から赤黒い液体が地面へと滴り落ちている。そのせいか、息が整うことがないまま、獣は崖と森を見比べて苛立ちを露わにするように後ろ足で土を蹴る。

 その時、森の奥で物音がして微かに淡く光る明かりが現れた。その音と光は時間が経つにつれて徐々に大きくなり、鮮明になっていく。

 そして、獣が焦るように崖を沿ってその場を離れようとした時、それは明確な声となり、聞こえてくる。

「いたぞ、とっ捕まえろッ!」

「いや、猟銃を使ってもいい。逃がすな!」

「構わん、撃てっ!」

 獣ははっとして森の方を振り返ると、そこには猟銃と松明を持った人間たちが怯えと覚悟を二分割した複雑な顔つきで森から出てきていた。あれは恐怖に苛まれながらも命を賭して覚悟を決めた表情だ。

 マズいと獣は呟き、断崖の底でそびえる針葉樹林を見降ろす身を投げ出す。それと同じに鼻にくる火薬の匂いと甲高い発砲音が五感を揺らがした。

 そうして、獣は意識を手放して深い深い奈落へと落ちていく。



 事の始まりはある暗い闇が浮かぶ空の下、歴史的な天災が東北全域を襲った日のことだった。

「聞いたか、太平洋側の三県は巨大津波の被害を受けたって」

「まだ時折余震が起きているし、ここも用心が必要だな」

「これ以上、災いが続かなければいいが」

 山の奥に存在する小さな集落。ぽつぽつと明かりがついているのはどれも篝火だ。

 昼過ぎに太平洋沖で起こった未曾有の大地震は、この集落にも影響を及ぼしていた。震源地からは遠いが、ある程度の被害は受けてしまってライフラインの全てが断絶された。そのせいで住民の数々は外で火を焚いて暖を取っている。

 だが、皆のその様子からあまり焦燥や不安といったものを激しくは感じられない。被災者であることには変わりないが、実害はライフラインの途絶であるだけでそこまで実感がないからだ。

 後に東日本大震災と称される、今回の震災であるが彼らからしたら対岸の火事、もしくはテレビの中のニュース。どこか他人事というそんな感じなのだ。実際にも近くに川が流れて、幾分かは自給自足が可能な生活も送っている上にここはコンビニに行くのでさえ車で二十分はかかる場所だ。住民の多くは長い期間を過ごせるほど食料を買い貯めしていた。そのために致命的な被害は全く受けていない。

「今日は雪が降るな」

 北条宮斗は毛布に包まって焚き火に手を当てながら空を見上げた。

「なんかラジオとかすごいことになっているらしいよ。原発がどうこうとか津波がどうこうとか」

 宮斗の呟きに応えるように反応したのは夕衣というひとつ下の女の子だ。同じようにうさぎの柄が描かれた毛布を羽織っている。くりくりとした大きな眼とうっすらと茶色いショートボブの髪の毛が特徴的な女の子だ。

「そうらしいな。まあ、オレはあっちの方に知り合いがいないからそこまで心配することでもないかな」

「けど、しばらく学校は休みだね。先輩たちの卒業式は延期かな」

「さすがに当の本人たちもこんな中で卒業したくないだろ」

 宮斗は山を下りた先にある高校に通っている。この集落ならまだしも文明の利器に頼りきっている方なら被害は大きいだろう。

「とりあえず、明日になれば分かることだろう。今日はもう寝よう」

 そう言って、宮斗はその場を離れて家へと入った。

 宮斗の家は曽祖父の代に建てられたものでもう築九十年以上は経っているだろう。屋根も麦の瓦を葺いたもので五、六年に一度せっせと近隣住民と共に葺き替えている。そのため、囲炉裏やかまどがまだ残っていて、電気が来ていない今でも不自由なく調理などは行える。

 宮斗の母親は山を下りた先の街の方に出稼ぎに行っていて、一週間に一度しか家に戻らない。今日も例外ではないのか、メールで安否確認の文面だけが送られてきた。そうでなければ渋滞に巻き込まれて仕事場に引き返したのだろう。

 まだ眼が冴えて眠れる気がしないなと思いながら囲炉裏に火をつけてお湯を沸かす。ラジオのチャンネルを適当に合わせていると、コンコンコンと立て続けに三つ音が鳴った。

 それは玄関を叩く音だ。インターホンが付いていない北条宅ではそれが普通であり、宮斗は何の疑問も持たずに赴いた。

 扉を開けると、そこにはぽつりぽつりと雪が降りしきる夜の景色をバックにフード付きのローブを羽織った人間が立っていた。

「旅の者だ。すまないが今晩だけ泊めてくれないか」

 そう言った彼は身長一六五センチの宮斗より目線が少し低い。それにフードの隙間からは微笑みを浮かべる唇と温厚そうな眼差しが伺える。

「あんた、誰だ?」

「旅をしている。都市部の方から来た」

 こんな夜中にと不審に思ったが、そこまで警戒するものでもないなと即座に否定した。まだ猟師たちが野生の動物たちを警戒して外で火に当たっている。こんな顔も見えづらい服装の人間を村に通すはずがない。どこかしら安全であると判断した上でこんな夜中に村に足を踏み入れることを許可したのだろう。

 だが、明らかに現代人の服装ではない。ローブのような灰色の布を羽織ってその中には丈長のコットを着ている。それに木で作られた杖を持っていて、中世の婦人や僧侶のように見えなくもない。その上、性別もよく分からない。一見すれば男の老人のように思えるが、不思議な事に声からも老人、若者、男、女がそれぞれ持つ特徴が聴き取れる。トランプを上下どちらから見ても正しい方向のように、どの視点から見たとしても全てに当てはまる。

「うちは民宿じゃないんだ。悪いが他を当たってくれないか」

「少しの夕餉と寝床を貰えればいい。もちろん、それ相応の代金も払う」

 この集落に民宿は存在しない。だが、度々ふらりと訪れる観光者や旅人は、邪険することなく招き入れるのがこの村の暗黙のルールだ。それにこの大地震の後である。野宿しろ、なんて身も蓋もないことを本心から言えるはずがない。

 内心でため息をつきつつ、宮斗は向こうの建物に指を差す。

「分かった。だが、あまり見ず知らずの者を家に置いておくことは安心できない。夕餉は出すが、寝床は向こうの蔵にしてくれないか」

「なるほど。それでいい。感謝する」

 僧侶は背後にある蔵を一瞥することもなく、淡々と受け応えた。そうして、宮斗は頷くと家の中へと招き入れる。

「オレは北条という。あんたは?」

「名乗るほどではない。適当に呼んでくれ」

 身分を明かすのが不安とか、名前を知られることを嫌がるとか、そんな様子は微塵もない。名乗らないのが当たり前というように気にしないという仕草で僧侶は述べた。

「都市部の方はどうだった。山を越えてきたんだろ?」

「どうもこうも酷いものだな」

「災難だな。こんな日に出くわして」

「時代の転換点なんてそんなものだろう。一つの時代の幕切れ。私はそれを見に来たたけだ」

 僧侶は物珍しそうに家の中をぐるりと見回すと、手前の囲炉裏に腰をかけた。

「ここの猟師はいつもああして外で見張りについているのか?」

「いや。地震があって野生の動物が暴れて村に下りてこないか見張っているんだ」

「そうか。その割には猟犬を見ないから不思議に思っていたんだ」

「ああ、この村では犬を飼うのはご法度なんだ。けっこう前から」

「なるほどな。……だがしかし、その割にはえらく珍しいものを祀っているようだな」

 僧侶は何やら興味深く囲炉裏の奥にあるものを凝視していた。

 そこには狼のお札が納められている神棚があった。いつもは布で隠しているが、地震の際にずり落ちてしまったようで神棚が丸見えだ。村独自の見解で犬を飼うことは許されない、とたった数秒前に告げたはずだったが、宮斗は表情を大きく変えて布を被せ直す。

「い、いやっ! 違うんだ。これは……大神さまはオレのご先祖さんが代々拝めてきたもんで」

「気にするな、私は何も言わんよ。そもそも信仰の制限なんてもの自体、私からしてみれば馬鹿らしい。だが、閉鎖的な空間にいることに限っては仕方がないな。発展が止まった場が行き着く先は停滞か衰退だ」

 僧侶は慌ててボロ布を被せる宮斗を制して、囲炉裏にかけられた鍋から鮭のお粥を掬って口に運ぶ。

「……あんたは僧侶かなんかなのか?」

「僧侶ではないな。……まあ、信奉なんてとうの昔に捨てたが、分類としては同じような信奉者なのかもしれないな。この集落では狼信仰も否としているのか?」

「いつの時代からかは知らないが、厄を運んでくるとかなんとか言われている。感覚としては、黒猫は不吉みたいな感じだ」

「狼といえば、ケルトの民は狼のことを太陽を呑み込む者として天の上に位置するとしていたり、ギリシャの民も狼の存在によって豊穣が培われると信仰しているようだが」

「けど北欧の方とかでは、あれは災厄そのものとして描かれている」

「そんなもの解釈と認識の違いによるものだろう。そう言う割に、君はあまり思想に偏りがないように見えるが」

「まあ、いくら大神さまを信仰しているって言っても、オレは現代っ子だからな。現実は見ているし、神様がいないってことも知っている」

 祖父のそのまた祖父の親の世代から狼を信仰していた、と聞いているがその話が本当かも今では確証がない。現在は祖父も父親もいない。ただ、代々受け継いできた狼を祀るという行為だけを成して現在に至っている。

「なるほどな」

 三度の、その言葉を放った僧侶は静かに立ち上がった。

「君のような存在は非常に珍しい。何代にも渡って受け継がれてきた信仰というのは真実として、ここら一帯で廃れた狼信仰をただ一人続けている。君は君自身が迫害されようとそれを突き通す意思もないのだろう」

 ドーナッツ状に穴の空いた石を目の前に突き付けられる。

「だからこそ、私が逢わせてやろう」

 その穴から覗いた彼の姿を見た瞬間、鳥肌が立った。

 黒い靄に囲まれた彼の輪郭がゆらりと揺れ、笑みを溢すように真っ黒な闇がこちらを見ていたのだ。

 そして、ざわりと身体中のすべてが委縮するような感覚に襲われる。次第にそれは明確なものとなっていき、宮斗は自らに降りかかる変化をまざまざと実感する。

「隠者の余興だ。気にするな」

 えらくご機嫌そうに彼はそう言った。そうして、宮斗は獣へと姿を変えたのだった。



 身体の節々に痛みを覚えて、獣は眼を開けた。

 奇跡的なことに彼らが撃った猟銃の弾は脇腹を掠めただけで済み、落下による問題も枝木や葉っぱがクッションとなって致命傷を逃れることができた。辺りが十数メートルはある針葉樹林が広がっているからか、すり傷程度で被害を食い止めることができた。本当に自分の幸運に感謝をしながら、言うことの聞かない身体に叱咤を放って強引に立ち上がる。

「クソ……本当に容赦のないやつらだ」

 満身創痍の中、もう身を投げ出して休みたい衝動に駆られるが、ここで止まってしまえば怪我の状態から次の朝日を拝むことはできないだろう。

 まずは傷の手当てをして身を休める場所を探さなければならない。それに猟師たちが追ってこないという確信はない。一刻も早く、その場を離れるために歩みを進めて森を抜けた。

 初めは巨大な湖だと思ったが、どこか違った。まず、波が高い。それに鼻孔をくすぐる特有の匂いはどこか潮の香りがある。

 薄い霧が漂う波打ち際へと近づこうとするとそれは現れた。

「そんな傷だらけで海に入るとお辛いことになってしまいますよ」

 まず、透き通った声がした。決して大きな音量ではないが、しっかりと聞こえる。

 そして、音もなく影が足元まで伸びていく。それを辿るように目線を上げると波打ち際に満月を背負うように佇む純白の着物を着た女性がいた。

 蕩けそうなまつ毛を伏せ、艶のある黒髪をなびかせながら母性に満ち溢れた女性はどこか嬉しげに口元を綻ばせている。着物からは襦袢と素肌が見え隠れしていてとても艶めかしい。

 右眼の端にある泣きぼくろと烏の濡羽色の髪が肩甲骨辺りで所在なさげに揺れる姿がどこか哀しそうな雰囲気を纏わせている。

 人間によって迫害され、死に直面するほどの扱いを受けている獣は、何故かその女性を警戒することができなかった。

ただ、獣に語りかける目の前の女性は対等に会話をしている。怪我をすれば心配し、涙を流す者がいればなだめ、飢餓に苦しんでいる時には分け与える。そんな人間社会としては当たり前なことを獰猛な獣に向かって行っているのだ。

 膝を曲げて子供に目線を合わせるように、それが自然であって何ら不思議なことではなく、むしろ疑問を持つ方こそが理解に苦しむといったような佇まいだ。

 獣は理解した。

 彼女は、人間じゃない。

「これが海なのか……」

 今、置かれている状況をも気にせずに呆けた声を出していた。

 もう夜が明けようとしている。東の果てから朱色の光が刻々と満天の星を照らしていく。藍色から紫色、さらに朱色へと色彩を変えていく空を仰いでいると、彼女はまたも幼子を見守るような母性に満ちた微笑みを浮かべた。

「初めてご覧になったのですか?」

恥ずかしいことにその通りだった。

 幼少期から現在に至るまであの寂れた集落で全てを過ごした。高校に入り、山を下りて通学していて部活にも所属せず、毎日一時間半もの間を原付で登下校を繰り返している。父はまだ言葉を喋る前に亡くなり、物心ついた頃から母しか肉親がいないことに違和感があり、どこか心を閉ざし気味な性格になっていしまっていたのだ。

 その時、がさりと森の奥からそれは聞こえた。それは案の定村の猟師たちの音だった。松明の明かりが微かに見える。だが、その猟師たちの音が唐突にかき消された。

 二つの巨大な雄叫びが響き渡ったからだ。

 その雄叫びは明らかに威嚇の意思を持っていた。山々に反響し、木霊となって延々と咆哮が轟く。

 巨大な狼が二匹。犬歯を剥き出しにし、女性の方へと近づいてくる。昔、動物番組で見た狼より二回りは大きい。女性だけでも特異だったが、この二匹の狼は明らかに異質だ。目の前の女性と目配せをする辺り、まるで彼女と主従関係にあるようにしか見えない。

 二匹の狼は獣を一瞥すると、何ともないように女性の足元に腰を下ろした。

「人ならざるモノによって獣にされたのですね」

 しなやかできめ細かな白い手が差し出される。

「彼は彷徨うことしかできないモノです。もっとも、物の怪のモノであるか、鬼というモノなのかは私にも分かりませんが」

 どちらにしても、彼にとってはあなたにしたことなど気まぐれでしかないでしょう。

 ただただ妖艶に囁く彼女はうっとりとした瞳でこちらを見つめてくる。

「あんたは誰だ?」

 うふふ、と手を口元に置いて可憐に微笑する。

「名乗るほどの者ではありません。狼は神さまの遣いですから。森を護り、人々の営みに和平をもたらし、発展を促す。かつてから人間は自然が圧倒する一部の世界というものを高位として神格があると定めた」

 現在では災厄をもたらす古き神だとしても受け入れるのは当然だ。

 月光に照らされて淡紅色に揺れる双眸がそう語っている。嘘偽りない言霊は獣の胸を締めつけ、これ以上ないほどの安堵を産んだ。もちろん、一から百まで信用するわけにもいかないが、ここで背を向けて逃げたとしても待っているのは人間からの逃避と理不尽な死の運命だけだ。利口に従っておいた方が良いだろうという考えに至る。

「大丈夫です。きっとあなたには大神さまの加護があるでしょう」

 その温かな言葉に身を委ねて、意識を手放した。



 カタカタとポルターガイスト現象を彷彿させる小刻みな振動で宮斗は眼を覚ました。

 身体が酷くだるい。うっすらと止まりきった思考にエンジンをかけるべく、深く息を吸っては吐いてそのまま止める。じっくり十秒数えると自然と重たい瞼が開くようになっていた。

 まず、眼に入ったのは臙脂色の木目が見える肌色の天井だった。見慣れない木造の天井は綺麗であるが、所々傷んでいる箇所が見える。長い間手入れされていないのだろう。

 身体の痛みは引いているようで手足を動かして傷がないかを確かめる。左わき腹と右わきに包帯が巻かれてあった。それと同時にようやくその事実を正しく認識して手を目の前で開閉する。

「戻っている……」

 じわじわと実感が沸いてきて次第に現状を理解する。

 ――そっか、オレ追われていたところを救われたんだ。

虫食いがある布を退けて上半身を動かす。

 宮斗が眠っていた場所は神社の本殿だった。

 人の気配はない。お堂の中の明かりも消えている。しかし、かすかに松明の匂いが漂っている。

 ――また逢える。

 彼女は微睡の中でそう言った。彼女が何者なのか、あの巨大な狼はなんだったのかはもう分からない。そこに至るまでの道も消えてしまった。

 もう長いこと放置されている賽銭箱を越えると、海が一望できる崖が目の前に広がっていた。本堂を振り返ると、その脇の崖が地震で土砂崩れを起こしたらしく、一部が土砂と共に壊れかかっている。

 宮斗は深呼吸をして本堂の修理へと取り掛かった。



 春になった。宮地は高校を卒業すると同時に地方へと出た。

 あの日から半年ほどかけて神社の修理を行った。修理と言っても素人でもできるような日曜大工の作業だった。元々、もう遥か昔に廃れた神社であり、土砂に呑まれる以前から腐食は続いていたらしい。

 宮斗はその後、街で買った銀色の簪をお供えしてその地を後にした。この街は良い土地だ。人柄も雰囲気も良い。何より、様々な存在というものを身近に感じられる。

 踏切の遮断機の音で足を止めた。

 路面電車がゆっくりと目の前を通っていく。桜の舞い散るこの季節は毎日が清々しい。

 深呼吸をひとつして、遮断機が上がる音と共に眼を開けた。そこには変わらず、心地よい景色が広がっているはずだったが、今回ばかりは違った。

 目の前にもふもふした真っ白なかたまりが二つ、こっちに向かって突進してきたのだ。

 重たい何かを支えきれず、思わず腰をついてしまった。そして、頬に生温かい何かが触れる。

「やだ、もう! ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 どうやら、真っ白なサモエド犬二匹じゃれてきたようだ。今も一心不乱に頬を舐めてくる。

「ああ、大丈夫です。犬は好きですから」

 駆け寄って来た飼い主は女性だった。歳は二十代後半だろう。

 蕩けそうなまつ毛を伏せて申し訳なさそうにサモエド犬を離そうと必死になっている。その光景を見ていると、ふとそれが眼に入った。頭の後ろでお団子のように束ねている髪に輝く光沢帯びた銀色の簪。

 脈が急激に跳ね上がると同時に全身が痺れるように鳥肌が立った。

「名前は……なんて言うんでしょう」

 とりあえず平然を装い、どこかで見たような気がするサモエド犬を撫でる。どちらの名前を問うたのかは宮斗自身にも分からない。

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