第二章 東京
1 荒川
私に纏う、半透明の薄皮。
それは私と他者を隔てる、絶対的な壁。
それは例えば呼吸のようなもので、意識しなければ見えないけれど、意識すれば明瞭に知覚できる、そういうもの。
ここから一歩も通さない。
理屈も法律も通さない。
教室で、自宅で、常にそれは私の周囲に展開している。横幅は半径1メートルもないけれど、近づく相手がいればその膜は私の方に寄って、とにかく誰もを、通さない。
誰も私に触れられない。私は世界との関係を、拒絶する。
「――さん」
「昨――9時か――たさ」
「――ゃんは」
誰の声も届かない。
友達も恋人も入れない。
クラスメイトの声は、どこか籠って、ノイズのように私に伝う。
意識すれば、努力をすれば、聞き取れないこともないけれど、どうせ大した内容じゃない。
私の世界を変えてくれるような、そんな言葉なんかじゃ、ない。
「――って、彼氏とか――」
「――り恋愛し――ね!」
「女子高生なんだから」
女子高生だから。高校生だから。女だから。男だから。友達だから。クラスメイトだから。赤の他人だから。子供だから。大人だから。社会人だから。日本人だから。
あんたたちの常識なんか、知らない。
いつだって想像していた。窓際の席、眼下に広がる町並みと、その先の水平線。山と、海と、それだけの町。爆弾が、この町を丸ごと吹き飛ばして、教師も、クラスメイトも、家族も、みんな、みんな、死んで。
私はひとり、小高い丘の上から、終わった世界を見下ろして、そうして。
――その後は?
「東京に出て、一人生きていく」
――どうして東京なんだ?
「東京にはなんでもあるから」
――本当に?
「……本当に」
――一人で、生きていく?
「そう。一人で」
――そんなこと、日和にできるのかい?
「え……」
兄の声が、途絶える。私は小高い丘の上で、独りぼっちになる。
さっきまで隣にいた兄が、いない。どこ、どこに行っちゃったの、ねえ、行かないで、消えないでよ、私の前から、消えないでよ、お兄ちゃん、お兄ちゃん――
お兄ちゃん。
「おにいちゃん?」
目を開くと、馬乗りになって私を覗き込んでいるカミサマと目が合った。
彼女の淡い金色の髪が垂れて、私の頬をくすぐる。
「おにいちゃんってだれ?」
首を傾げて、カミサマは同じ言葉をもう一度。
「え……」
「ねごと」
水色のカーテン越しに朝の光が部屋に射し込んで、ぼんやりと淡く青が広がる。
「ああ……うん、なんでもない」
私はどうやら、寝言を言っていたらしい。恥ずかしい。
「なんでもない? うそー」
「いーの、カミサマには関係ないから」
上半身を起こして、カミサマを退ける。カミサマはころりと、隣の布団――結局使われることはなかった彼女の分の布団に倒れ込む。
「やーだー気になるよぅ」
「……」
枕元、充電してあったスマートフォンを手に取る。
……特に何のメッセージも届いてはいない。――当たり前だ。そういう通知が届く類のアプリケーションは、全て削除したんだから。
「うぇ……まだ6時じゃん……」
デジタル時計は6時5分を表示していた。休日は朝8時頃に起床するのが常なので、もう一度眠ろうかと横になる。
「ねー、荒川近いんでしょー? 行こうよー早朝の荒川ー」
カミサマは駄々をこねるみたいに私の身体を揺さぶる。
「ん~やだ、ねる」
「なーんーでー! あーらーかーわー!」
荒川って懇願して行くような場所? 可愛いけど鬱陶しいのでカミサマを手で払いのける。私は神様よりも睡眠欲求を信仰しているの。
「ヒーヨーリー! うわぁぁぁぁぁぁぁ」
大声を上げ、二つ並べられた布団をごろごろと往復しながら、カミサマは私に何度も身体をぶつけてくる。
「ねぇー行ーこーう! 行こうよー!」
「うるさーい」
休日子どもに遊園地に連れていけとねだられて、でも布団の中で取り合わないサラリーマンの父親とかって、こんな感じなのかな。イメージでしかないけれど。
あ、そういえば遊園地に行きたいって昨日カミサマが言ってたっけ――
目を覚ますと、私の腰にしなだれ込むようにしてくたばっている――眠っているカミサマの重さに気づく。結局カミサマも眠っちゃったみたい。
右手を頭上に伸ばしてスマートフォンを手探りする。手繰り寄せ、ディスプレイを確認すると、時刻は7時23分。
腰周りに視線を落とす。
両手を上に伸ばして、身じろぎひとつしないまま、ものすごい体勢で眠っているカミサマが可愛くて、さっき適当にあしらったことを少しだけ悪かったなと思う。
「ほら、カミサマ、起きて」
「んー……はっ! 寝ちゃった!」
頭を上げて、口許を拭うカミサマ。ぼさっと乱れた髪を撫でて、整えてあげる。
「荒川、行く?」
その言葉にカミサマは、ぱっと目を輝かせて。
「いく!」
「わ――――っ! スカイツリー!」
二人並んで、私たちはしんとした朝の空気の中を歩いていく。
「昇ったことある?」
「ない!」
遠く望む、どこか丸みを帯びたその鉄塔。朝の光に照らされながら、圧倒的な存在感を主張する。
荒川の河川敷。ちらほらと窺える、ランニングする人や散歩をしている人。犬、犬。体操をしている老人。こんな朝早くから、随分と活動的だなぁと思う。
キャッチボールをしている小さな男の子とその父親らしき人。
ゴルフのスイングフォームを確認しているおじさん。
スマートフォンを操作しながら、犬に引かれるように歩いている大学生くらいのお姉さん。
いろんな人と、この場所で、すれ違っていく。
「ヒヨリー、もっと川の近くまで行こうよー」
河川敷は広く、野球の練習ができるくらいの広さの芝生が続いている。
カミサマは言いながらさっそく芝生のプレイグラウンドに足を踏み入れて、草木の茂る川沿いに向かって走り始める。朝から元気。
広々とした芝生を突っ切って駆けていくカミサマから視線を外し、のんびりと歩きながら空を仰ぐ。
水色の空。爽やかな空気。太陽が高くなる前の、過ごしやすい時間。
土手から一段下がっているからなのか、高い建物が近くにないからなのか。空がなんだか開けている。どこまでも広がっている。東京の街の高いビルに囲まれる生活に慣れ始めたからなのか、遮蔽物のない視界は妙に新鮮だった。川の広さは結構あって、こちらの岸と対岸を繋ぐ橋は長く伸びている。
背中側には高速道路。どこか田舎を感じるのどかな風景の合間に顔を覗かせるコンクリートの建造物たちは、似合うようで似合わないようで。
東京と言えど、荒川の方まで来ると空気感は結構変わる。端的に言えば田舎っぽくあるし、とは言え私の地元のような〝田舎〟では決してない。
このまま芝生に寝転がって眠ったら、きっと気持ちがいいだろうな。
「ヒヨリー遅いー」
カミサマはプレイグラウンド端の地面にへばりついて何の意味もなさなくなった「これ以降立ち入り禁止」のネットを越えて、川縁ぎりぎりのところに出っ張った大きな石の上に立っている。周囲と違いそこだけ草が綺麗に刈り取られ、人が歩けるようになっている道の先にある、大人が三人は立てるくらいの平らな石。ちゃぷちゃぷと波がぶつかって、小さな飛沫が立ち上がる。
朝の陽光が、水面をきらきらと輝かせる。
どこまでも広がっている川、空、大地。
――そしてそびえる、高い塔。この距離からでも圧倒的な高さとして映る、スカイツリー。この場所で生きる人たちの目に、あの塔はどんな風に映るのだろう。
「高いねー」
ぼけーっと突っ立って、対岸のさらに先に伸びるビルの起伏から、大きく突き抜けるように生えているスカイツリーから視線を離さないカミサマ。
「そうだね」
「バベルの塔って、神への挑戦なんだって」
「え?」
カミサマは足元から小石を拾い上げて、水に向かって投げ込んだ。
遠く、小さく跳ねる水飛沫。
「あれが折れたら、どうなるかなぁ」
カミサマは水面を見ながら、ぽつりと言う。
「カミサマにはあれが折れる?」
私は訊く。カミサマは視線を動かさないまま。
「うん。できるよ」
あっけらかんと言ってみせて。
「あんな高さは、さすがに驕りだよ」
私にはその言葉の意味がいまいちよく分からなかったけれど、なんだか鋭く尖っていることだけは、はっきりと感じることができた。
次の瞬間にはころりと表情を変えて、カミサマは芝生に戻っていく。
「遊園地、どこがいいの?」
鬱蒼と生い茂る雑草の中、時折視界に映り込む不法投棄や家らしき何かを探しながら歩くカミサマに尋ねながら、スマートフォンでブラウザを立ち上げて、「東京 遊園地」で検索をかける。しゃがみ込んだり、跳ねてみたり、カミサマは忙しそう。
「どこがあるのー⁉」カミサマは言葉を前のめりにして質問で返事をする。
「うーん、結構あるみたい……」
検索結果に表示された、遊園地一覧がまとめられたページに適当に飛ぶと、そこそこの数の遊園地情報がリスト化されていた。「ほら、こんなに」とスマートフォンの画面をカミサマに向ける。カミサマはそれを手に取って、慣れない手つきで画面をフリックしながら、詳細を確認していく。
「ここ全部行く!」
「……馬鹿言わないでよ。そんな時間もお金もないってば」
「むぅ……」口を尖らせて、悄気る小さな神様。
「とりあえず一番近いのは……花やしきじゃないかな。浅草の……ほら、ちょうどあのスカイツリーの辺りだよ」
実際には隅田川を挟んで少しだけ距離があるけれど、電車に乗ればあっという間だ。
リストには舞浜の遊園地も載っていたけれど、さすがに二人分の入園料払ったらそれだけでいっぱいいっぱいになってしまう。正確には東京じゃないし、いいよね?
「じゃあそこ行く!」
カミサマはすんなりと承諾してくれた。とにかく遊園地と呼ばれる場所に行けるのならそれでいいのだろうか。
スカイツリーに視線を送る。どうせだから今日は浅草周辺を散策することにしよう。カミサマはきっとなんだって楽しんでくれるはずだ。雷門とか、なんならスカイツリーだって行ってもいいかもしれない。
お腹が空いた私たちは、家に戻るために土手に続く緩やかな坂道を登っていく。縁石の上、両手を広げてバランスを取りながら歩く神様は、時折左手側に伸びている草を適当に毟ってはもてあそぶ。飽きたら放り投げて、千切れた雑草は風に乗って飛んでいく。
カミサマはそれを目で追って、楽しそうに笑うのだった。
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