むく犬ジョーク
「世界で最も毛深い犬を捜しています」
そんな新聞広告を目にしたのは大学を卒業して半年ほど経ったころだった。
就職もせず何者にもなれなかった私は、何かを為さなければならないという使命感にも似た欲求とは裏腹にほとんど部屋にこもりきり自堕落な生活を送っていた。ただ無為に時間だけが過ぎ、焦燥感を募らせていく。
どうにかしなければならない。このままではダメになっていくばかりだ。何かをしなければ。
しかし、その”何か”がなんであるのか皆目見当もつかない。
大きなことをやってやると奮起し立ち上がってみても、目的もわからないのに具体的な行動に移せるはずもない。
気持ちばかりはやるものの何一つできないまま半年が過ぎ気づけば秋になっていた。
食材を買いに出かけた街で、ふと足を止める。足早に行きかう人々の流れからはずれた私は、世間からも取り残されてしまったかのように感じられた。これだけ多くの人が溢れているというのに、彼らの誰一人とも私は接点を持たない。彼らからしてみれば私は路傍の石と変わらない。言葉を交わすことも関係を築くこともなく忘れ去られ風景として埋没していく。
ひどい孤独感に駆られ近くにあったコンビニへ駈けこんだ。店員の「いらっしゃいませ」の声が温かく耳を打つ。ようやっと人間として扱われたと安堵し私は息をついた。
街を歩き実感した。私がどれほど悩んでいようとその事実とは関係なく社会は社会として回っている。そしてそうした人々の営みのなかで役割を果たしつながりを得ることこそが社会に参加するということに他ならない。
部屋に閉じこもってばかりではなく、私は外の世界へ目を向けなける必要があった。
新聞に手を伸ばす。社会に目を向けられるものであれば何でも構わなかった。
新聞を取ったのは、たまたま一番近くにあったのがそれだったからだ。
社会面に目を通し、自分が引きこもっている間にも世の中は変化していたのだと痛感する。
やはり私は社会からも人生のレールからも外れてしまっていたのだ。
だからこそ、何かを成し遂げなくてはならない。ふたたび社会とのつながりを取り戻すために。
かつてないほどに私は強く決意した。
そんな折だったその広告が目に止まったのは。
目標となり得るものであればこのときの私には何でもよかったのだろう。
世界で最も毛深い犬を探す、それは困難なものに思えたことも決め手となった。何かを成し遂げたかった私にとって目標は困難であればあるほど都合がよかった。
こうして私のむく犬探しの旅がはじまった。
準備もそこそこに私は世界中を飛び回った。ときに深山幽谷に分け入り、険しい山嶺を越えた。牙を剥く巨大なトラの襲撃をかいくぐったこともあった。都市部ととて安心はできなかった。治安の良い街ばかりではなく幾度となく金品を狙われた。ときにはギャングどもの抗争に巻きこまれそうになったりもした。
しかし、どんな窮地よりも強大な敵は私自身であった。集めた情報をもとに長い毛の犬を発見できたとしてもそれで終わりではない。求められているのは最も毛深い犬である。見つけた犬が間違いなく最も毛深いと確信を得るためには、他の毛深い犬と比較してみなければならない。
もっと毛深い犬がいるのではないか、そうやって幾度も記録を更新しているうちに、もうこれでいいのではないかと妥協し諦める心がわいて来るようになった。
広告主とて、それが本当に最も毛深い犬なのかわかるわけではないだろう。それなりに毛深い犬を見つけてくれば満足してくれるのではないだろうか。
何度もくじけそうになった。
しかし、私は自身の心が折れそうになる度にあの灰色の日々を思い出した。何者にもなれず何ひとつなせなかったあの空虚な生活を。
ここで諦めればまたあの頃に逆戻りだ。そう自分発破をかけついに私はこれはという犬を発見し広告主へと会いに行くことにした。
広告主とはバーで待ち合わせた。意外なことにあの広告を見て連絡して来たのは私がはじめてだという。
カウンター席でバーボンを舐めているところに広告主は現れた。
仕立てのよいダブルのスーツに身を包んだやせぎすの中年男性だった。これは報酬に期待できそうだ。
彼は隣に座るなり口を開いた。
「それで目的のものはどこに?」
一枚の写真を私はカウンターに滑らせる。
手元に届いた写真をしげしげと眺めたあと男は頷いた。
「なかなかにいい犬じゃないか。それでこいつは連れてきているのか?」
「実物を引き渡す前に確認したいことがある」
「何だ?」
「報酬のことなんです」
「何のことを言っている」
薄暗い照明の中でもはっきりとわかるほどに男は困惑をあらわにした。
「目的の品は引き渡します。しかし、ただというわけにはもちろん行かない」
「ふん、もう一度広告をよく見るこったな」
私はポケットから切り抜いていた新聞を取り出して目を凝らす。
世界で最も毛深い犬を捜しています。あとは広告主の連絡先が記されているだけだった。
報酬についてなど一切書かれていない。
「お前はたしかによくやってくれた。なかなかどうしていい犬じゃないか。しかし報酬を払うことはできない」
そこで言葉を切り男は口元を緩めてどこか不格好な笑みを浮かべ言い放つ。
「お前の努力には
むくいぬ」
どうせこんな事だろうと思っていた。
私は昔からどこか抜けていると言われてきた。ひとり突っ走り駆け抜けた後にゴールの方向が違ったと思い至るのだ。肝心の場所でとんでもないミスをしでかしている。
この犬にしてもそうだ。
写真を撮り船に載せたまでは良かった。
だが、達成感から一服をし煙草の不始末でボヤを起こしてしまった。幸い早々と火は消し止められたが、大きな被害も出た。
何しろ毛深い犬である。わずかな火が燃えうつり、ちりちりと音を立て燃え広がり皮膚をも焦がしてた。
船員の迅速な対応で命はとりとめたものの、むく犬だったころの面影などなくなってしまった。
そうなのだ。
もうけはないのである。
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