拡張現実とチーズケーキ

 珍しく目覚ましが鳴る前に目覚め、寝間着のスエットのまま新聞を取りに外へと出る。早朝の涼やかな空気のなか、ふと山のほうを見ると朝靄が立ちこめていた。

 靄は山裾に広がった水田地帯を覆うように低く棚引き目に映る風景を淡く滲ませている。鼻先で雨後にも似た水のにおいがかすかに香った。

 白い靄の海から頭を出した山々の連なりは、冴えた青空の下、煙る麓を睥睨している。木々の一本一本が濃い緑でその生を主張していて山はすっかり夏の装いだった。春先の新緑を湛えた山は、ところどころに混じった針葉樹の深い色合いとの対比もあって、新たに芽吹いた葉のみずみずしさよりも若さや未熟さが勝っていてどこかあえかな雰囲気があったが今はそんな気配など微塵もなく確とした存在感で佇んでいる。

 初夏の朝靄を見ると、これは山麓というひとつの生命が吐き出した息吹きに違いないと思えてくる。大自然の呼吸が感じられた心地だ。

 このように自然へと目が行ったのは、前回の文章で季節のうつろいについて触れたせいではない。そもそもあれからしばらく纏まったものを書けずにいて、そうこうするうちにひとつ季節が過ぎてしまった。あのときの感覚は遠退き日常に埋もれて久しい。

 外へと、風景へと意識が流れたのは先ごろ梨木香歩の『冬虫夏草』を読んだのが影響している。

 書物が生活に彩りを与え、ものの見方を押し広げるのも一種の拡張現実と言えはしないだろうか。拡張現実つまりARは、現実の光景にCGなどでレイヤーを重ね合わせ新たな情報を付与するものだ。現在視界に収まっているものだけでなく、読書体験によって得た知識や感情、考え方といった層が加わるとき、眺めていた景色は奥行きを増す。文字通り現実が拡張されるのだから拡張現実には違いない。

 何気ない街並みも物語の舞台となった聖地であると見れば、そこに作中のキャラクターの営みが息づいているような気になり感慨も沸いてこよう。山中の石碑がそこにかつて城があったことを告げれば、城主の生涯が偲ばれ、友人が着ている服がブランドものだと判明すればデザインや作りが立派に見えてくる。

 私たちの認識はそうして様々な形の情報によって厚みを帯び、ただそこにあるだけの単純な現実から拡張されている。多層化した現実に私たちは暮らしているのではないだろうか。

 目覚めの清々しさの余韻に浸るように、仕事をしながらも日がなそんな益体もない思考を巡らせていたせいで頭が妙に疲れた。甘いものが欲しくなり帰りに前々から気になっていたケーキ屋に寄る。

 大通りからはずれた住宅地に建つ、趣味を兼ねて経営しているといった赴きのこぢんまりとした店だった。入り口をくぐると木製のカウンターとショーウィンドウがあった。左手奥にはテーブル席がいくつかありそこで飲食もできるようだ。

 持ち帰るつもりだったのでそのままウィンドウに並べられたケーキを見てみるが、時間が遅かったためやはり残っているものは少ない。フルーツ系のタルトがあればと期待していたがない。そもそもベリーの旬は過ぎてしまったし、桃や葡萄には少し早い。

 お店の味を見定めるというわけではないが定番のショートケーキを指さそうとしたところでチーズケーキのところに「売れてます」と手書きのポップが立ててあるのが目についた。

 飾り気がなく事実を示しただけという風情の文字が逆に目を引いた。人気がないからこそポップで推しているという印象はない。食感や味わい、こだわりどころなんかを説明してイチオシと書かれたものがあるだけに、シンプルでありながら言葉に信憑性があった。

 チーズケーキもまた定番メニューだ。手土産としていくつか見繕うならほぼ入れることになるだろう。売れているなどとわざわざ示さなくてもある程度は確実に捌ける商品にそう書くのならば、事実と見て間違いないないのだろうと推測する。

 棚には最後の一個のチーズケーキがあった。

 私の脳裏には、リピーターや口コミで売り切れることが多くなり作る量を増やし調整を入れた時期だったといった背景が浮かぶ。

 しかし、情報による現実の拡張なんてことを考えていたのが尾を引いていた。見た目に惹かれたのでも、においにつられたのでもなく文字によって興味を覚えたのが引っかかってしまう。ここで買ってしまえば自発的な選択というよりも、付与された情報によって買わされたことになってしまうのではないか。そんな疑念が素直に注文するのを躊躇わせる。

 決め手となったのはドアベルの音だった。あとひとつの品、新たなお客さん。もちろんチーズケーキ目当てに来店したのか私がわかるわけもないが、それでも状況の変化が私の背中を押した。

 こういった内心の紆余曲折を経て購入し、夕食後、その味はいかんと変に気負って冷蔵庫から取り出したケーキお皿に盛った。

 生地はスフレタイプだった。フォークを入れると表面が沈みスポンジは形を変えたものの、一口が切り分けられて指先にこめた力を抜くと、ふたたび空気を含んでふわりとした弾力で元のように膨らんだ。食感も、見た目に違わぬやわらかなもので、口のなかで濃密な味が広がった。舌にまとわりつくような味わいの奥にはレモンの酸味が控えている。

 なんの変哲もないチーズケーキだ。落胆しそうになったが二口、三口と食べていくうち第一印象はくつがえされる。たしかに巷に溢れたものと大差ないような口当たりをしている。けれどくどさが全くないのだ。甘味がしつこく残ることもなく、レモンの風味が絶妙で濃厚であるにも関わらずさっぱりとしている。これならばコーヒーや紅茶で喉を潤さずとも二つ目を食べられそうだ。なるほど、これはおいしい。

 今度行くときはチーズケーキを二つ買おう。他のケーキも試してみてもいいかもしれない。

 次にあのお店へ行くのを想像するだけで明日も頑張ろうという気持ちになり、日々の生活が色づくように思えた。

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